五年前──一人の死霊術師によって、空に浮かんだ朔……新月とも呼ばれるそれは、その形を維持して沈むことは無く、常に人々の頭上に存在し続けた。
この月には死んだ人間を『月住人』という人喰いの怪物に変貌させる力があり──人々は、いつ隣人が怪物となり、自分を襲うかわからない恐怖に怯えていた──……。
これはそんな世界で、生と死を超越する死霊術を用いて──世界に陽光を齎さんと彷徨う者と、同じく光を求めて集いし魂達の物語である。
◆◆◆
その女は、白に近い灰色の髪に黒い瞳、白いローブを着ていた。
整った体は標本を身につけるようで、右手には、彼女の旅の唯一の荷物であるツギハギの革製アタッシュケースが握りしめられており、どこか儚げな印象を覚える女であった。
その日は、冷えた大気が、朔から僅かに漏れる光にいよいよ冷たさを増すかのように輝きながら降りていて、すぐにで床につきたいのだが、この寒空での野宿が自殺行為なのは明らかだった。民家の一つでもないかと望みを賭けながら、古びた石橋を渡る──すると、その橋の下、川の方に人影を見つける。
よく目を凝らしてみると、青みがかった黒髪の少年の後頭部が見えた。
少年は、冷水にも関わらず、膝まで浸かり、口に松明を咥えながら何かを探しているようだった。
「何を失くしたか知らないが、そんなことをしていては手足まで失くしてしまうよ」
そう話しかけると、少年は驚いた様子で女の方へと振り返る。
「誰?」
「私はセオドシア・リーテッド。旅人だ、君は?」
「名前? 僕は……デクスター……デクスター・コクソン……」
「そうか。では、デクスター。改めて、そんなことをしていては凍傷になるよ」
セオドシアに再度そう質問されたデクスターは、今にも水底に沈んでしまいそうなほどに表情に重い絶望の色が見えた。
「でも!! ……お父さんの……お父さんに初めてもらった……大事な金貨なんだ……」
だから、やめるわけにはいかない。そう言うように、デクスターは失せ物探しを続行する。
「……君の家はこの近くにあるのかい?」
彼女は、デクスターにそう問いかける。
「え? ……うん、あるよ、すぐそこ、橋を渡った先に……」
「では、等価交換だ。手伝うから、私を家に泊めてくれ……全く、私は錬金術師ではないのだがねぇ……」
セオドシアはそう言いながらアタッシュケースを開くと、中から骨だけの魚を取り出す。
「……生ゴミ?」
「なっ……生ゴミ!? この完璧な色、密度、歪みの無いこの骨を見て、君は食い漁った生ゴミと同列に扱うのかねっ!? 言うにしても標本だろ!? これだから素人は……」
セオドシアは目を尖らせ、体を震わせながら我を忘れて声を荒げる。ハッとなって冷静さを取り戻すと、自分の指を噛み切り、骸骨魚に血を垂らす。するとその血液は骨全体に広がり、眼を象った奇妙な模様が浮かび上がると、青白い炎が灯される。
「目的は金貨。お願いね」
そう魚に呟き川に投げ入れる。
水の中にも関わらず、その骸骨魚に宿る炎は消えず、重みとなる筋肉すらも持っていないにも関わらず更に深く──川底へと沈んでいく。
「うわっ!? 骨が勝手に……!?」
「彼に任せればすぐに見つかるだろう、さっさと川から出るといい、タオルはいるかい?」
セオドシアの言葉通り、骸骨魚はデクスターが川から上がりって靴を履き直す頃には、その口に金貨を咥えて浮上する。
「えっ……早っ!?」
「はい、ご苦労様」
セオドシアが金貨を手に取ると、奇妙な模様が彼女の傷口を通って吸い込まれ、炎も消えて動かなくなる。彼女はただの骨へと戻ったそれを回収し、綺麗に水を拭き取ると、アタッシュケースに片付ける。そして、振り返ってデクスターに向かって恐れいったかという表情を向ける。
「さぁ、君の家に案内してくれたまえよ! いや〜、私は実に運がいい」
「一体……アンタ何者なんだ……」
デクスターが呆気に取られ、そう言葉を漏らすと、セオドシアはそれに返答する。
「私は死霊術師……生と死を超越する者だ」
◆◆◆
「うえ〜……なんだこれ? 野菜しか入ってないじゃないか?」
「なっ!? 贅沢言わないでよ! ここら辺には疑似太陽もないし、この寒さのせいで野菜だって貴重なんだぞ……」
石橋から少し歩いた所に、一つだけひっそりとデクスターの住む家があった。
板壁はどこも腐りかけ、いつ屋根が崩れ落ちても不思議でない古びた家だった。セオドシアは、デクスターの出した野菜スープに文句を垂れながら口にまで運ぶ──直後、不平不満だらけだったその顔が、ぱあっと明るいものに変わっていく。
「美味しい……!!」
「でしょ? 僕も好物なんだ。それより……死霊術師って死んだ人間を蘇らせたりする……アレ?」
「ん? ……うむ、その通り、死と生を超越……これはもう言ったな……なんだい、本物に会えて感激? サインいる?」
「い、いらない……それより、その……噂だと、今も死霊術師は月住人を増やすのに加担してるっていうのは……本当?」
デクスターが先程から気が気でない理由を思い切って質問すると、セオドシアは口をムッと尖らせ、文句を言い始める。
「またまた失礼だなぁ、いるんだよねぇ、君みたいなの……あのねぇ、確かにあの月を空に浮かばせたの続けたのは死霊術師の仕業だよ? けど、同じ芸術家だからと言って同じ作品を作るわけではないように、私とそいつとではまるで趣味が違うのさ、空に月を浮かべたままにするなんて……くだらない!! いいかい? そもそも私の死霊術とは──……」
「あぁもうわかったわかった!! ……本当はよくわからないけど……まぁ、違うって言いたいのは伝わったよ……」
セオドシアの返答にようやく肩の力を抜くと、先程骸骨魚が拾ってくれた金貨を愛おしそうに指でなぞる。
「あの……ありがとう。金貨のこと……手足がほんのちょっと霜焼けした程度で済んだのも、セオドシアのお陰だ」
「ん? ああ、気にしないでくれ、あれは等価交換のためにしたことさ。だからこうして寝床を借りさせてもらっているのだろう? ボロっちぃけど……君一人で住んでいるのかい?」
そう聞かれると、デクスターは俯き、目には悲しい影がよぎっていた。
「ううん……お父さんと一緒だよ……でも、食べ物が少なくなって……三日前に狩りに行ったきり……」
「ふぅ〜ん……熊にでも襲われたか、それとも──……」
「お父さんは無事だよ!! きっとすぐに……今に戻ってくるさッ!!」
デクスターは、見たくないものへとペンを押し付けて黒く塗り潰すように、強い意志を持ってセオドシアの発言を否定する。
「……まぁ、今は帰ってきていないようだからね、父親のベッドを使わせてもらうよ……もう一つのベッドはどこにあるんだい?」
「……いや、あれだけだけど……いつもはお父さんと一緒になって眠るんだ」
デクスターがそう言うと、彼女は信じられないものを見るような目で彼を睨む。
「えぇ〜っ!? じゃあ私はどこで寝ればいいんだい!? 狭いのは嫌だよ!?」
「こ、こっちだって初めて会った人と一緒になんか眠りたくないやい!! て言うか、さっきから失礼なのはそっちの方じゃないか!?」
その後しばらく口論になり、さっきまで冷水に浸かっていたような子供からベッドを占拠するのは流石に気が引け──本当に、本っっっ当に不本意そうにしながらも、セオドシアは持っていた寝袋で、デクスターはベッドで眠ることになった。
「(うぅ〜っ……床冷た〜っ……)」
無音と寒さでセオドシアが中々寝付けずにいると、デクスターの啜り泣く声が耳に入った。
「ひっ……うぅっ……お父、さん……」
「…………」
その泣き声が、セオドシアを孤独な思考から守り、長旅の疲れもあって、徐々に蕩けるような睡魔に飲み込まれた。
◆◆◆
翌朝、カンッと薪の割れる音に、セオドシアは目を覚ます。
窓の外には相変わらず月と太陽が重なって浮かんでいるが、時計は午前六時あたりを指し示しており、時間的に言えば朝なのがわかった。外では、デクスターが小柄な体ながら、力強く薪に向かって斧を振り下ろしていた。
「ん〜……うるさい……」
セオドシアは頭を重そうにフラフラ揺らしながら、窓越しに文句を言った。
「起きたらおはよう。でしょ?」
子供を躾ける親のような台詞を飛ばすと、セオドシアは馬鹿にするように鼻で笑う。
「朝の訪れないこの世界でおはよう? ずっとこんばんはだよ。それより朝ごはんまだ〜? 昨日の野菜スープ余ってたよねぇ〜……」
「……そんな性格でよく一人旅出来たな……」
割った薪で火を起こし、余った野菜スープを温め、朝食を済ませる。
その間、デクスターは食料を蓄える棚を見ながら残念そうに言葉を漏らした。
「……もう食料が残り少ない……森に行って探さないと……」
「狩りに行くの? ……やっと肉が食べられるのかい!?」
「え? なんか今日も泊まろうとしてる? 旅人なんだから旅しなよ……」
食事を終えると、デクスターは弓と矢を背負い、狩りの準備を整える。
「私も行ってもいい?」
セオドシアはアタッシュケースを持ちながら、着いていく気満々でそう提案すると、デクスターは不審に眉を寄せる。
「えぇ〜……セオドシアどんくさそうだからなぁ……邪魔だけはしないでよ?」
「ムッ……君ねぇ? 最初から思っていたけれど、もう少し年上を敬ったらどうだい? 名前の後には『さん』か『お姉さん』をだね〜……」
そんなセオドシアの文句を聞き流しながら、二人は森の中へと入って行くのだった。
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