扉の閉まる音と共に、ラバートは憂鬱な深い溜め息を吐いた。
閉められた扉からは、出発の準備のためにダーンとエルが応接室から退室していったところだ。
室内にはラバートとナスカ、そしてホーチィニが残されている。
「……不憫だな、全くもって」
先ほどまでの軽率そうな声質とはうって変わって、アテネ国王は重苦しいほどに低い口調で呟いた。
「なるほどね……やっぱあの娘か」
国王の意味深な呟きにナスカがやはり意味深な言葉で応じ、その二人を見てホーチィニがきょとんとして、
「ナスカ?」
「ん? ……ああ。お前には話していなかったな、そう言えば」
ナスカは若干バツの悪い表情で、思わず頭を掻いていた。
「アークのリドル、双子の娘、凄くいい女……若干わざとらしかったとは思うんだがな……それでも無反応か。わかっていることとはいえなあ……」
ラバートが溜め息交じりに話すのを渋い表情で聞いていたナスカは、ふと思い当たって胸の前で右拳を左手の上でぽんと打つと、
「あ……そうか! ホーチィニ、お前が怒ったのってそういうことかァ……」
ニヤリと笑ったナスカの視線の先で、ホーチィニの表情が苦虫を噛んだまま無理に微笑むものとなる。
「べっ……別に、怒ってなんかいなかったもんッ。……それよりも、その様子だと『彼女』のこと知っているのね」
「まあな……」
若干話題を逸らされたことにはあえて触れずに、ナスカは応じる。さらに、
「実は『彼女』に会ったのはお前と出会うよりも前のことさ。もう七年も前になるかな……。『彼女』がこのアテネに来たときに、ちょっとした事件があってな。……そうだ、リリスのヤツもその時『彼女』に会っているが、オレよりもリリスの方が色々あったみたいだぜ」
「え? 料理大会のこと?」
「ん? なんだ、それ? 七年前に会ったときのこと、リリスは何も言ってないと思うがなァ……あの日の事件は、なるべく口外しないってのが、『彼女』との約束だったし。
それに……まあ、その……なんだ……『彼女』、料理大会どころか、目玉焼きすら満足に焼けない典型的なお嬢様っ娘だったぜ」
「ナスカよ、そりゃ七年前の話だろうが……ヤツやリリスにだめ出し食らって、彼女が言った誓いの言葉を忘れてるぞ」
ラバートが口を挟み、それにナスカが苦笑いする。
ナスカはホーチィニの耳元に顔を寄せて、ラバートの言葉に補足説明を耳打ちした。
どうせ三人しかいないのだから、こんな風に耳打ちしなくてもいいだろうにと思いつつも、耳たぶに吹き掛かる彼の吐息に少しだけ胸の鼓動を高鳴らせつつ、ホーチィニはささやかれる内容を聞き取る。
そして……ホーチィニはナスカの言葉を聞いて、軽い嘆息を混じらせた笑みを浮かべた。
「なるほど……あのリリスがライバル心剥き出しにする訳ね。……『彼女』の料理、そのリリスと今や同レベルの腕前らしいの。アークの街で開催された料理大会で、リリスに次いで二位だったらしいわ」
「ほう……そりゃ凄いな、おい。オレが毎日食ってる宮廷シェフの料理だって、あのリリスの料理には今一歩及ばないってのになァ。いやまて、そうなると……あの蒼髪の朴念仁、もはや超重罪! フッ……クソがッ、爆発してしまえ!」
冗談交じりにラバートが言うが、何故か目は笑っていない。
その瞳に宿る暗い光は、例えるなら、現実生活が主に異性方面で充実している同性を見つめる独り者のそれに同じだ。
「しかも……『たゆん、たゆんっ』……よし、今から殺そう……」
腰に提げた長剣の鞘を握りしめるナスカだったが、その手をホーチィニの左手が触れてくる。
……と、彼は見た。
…………宮廷司祭が、彼のよく知る笑顔のまま、その瞳に黒い怒りの炎を宿している。
「そぉんなに、無駄に揺れるような『脂肪の塊』がお好きなのかしら……傭兵隊長殿」
右手に愛用の鞭を握る宮廷司祭が押し殺すようにゆっくりと、南極のペンギンたちも凍死しそうな声で問い詰める。
背中にとても嫌な汗をかきつつ、ナスカは危機脱出のために、脳内の全細胞と神経回路を総動員した。
そうして、刹那の間に何とか得た解答を……彼なりの紳士的な態度を持って、黒髪の宮廷司祭に告げる。
「無駄な揺れはよくないことだな……それに引き替え、お前は理想的に……その、全くの無駄なく時々揺れているぞ。かわいらしくも奥ゆかしく『ちょゆん、ちょゆんっ』って……」
☆
次の瞬間、アテネ王宮の応接室の壁を吹き飛ばして、うなる鞭が生む超音速の衝撃波に弾かれた《駄目男》が朝焼けの空を飛翔した。
☆
「よしッ。完璧」
窓ガラスを磨いていた雑巾をバケツに放り込む。
微かに額へ浮かんだ汗をまくり上げた袖、その肘のあたりで拭って、リリスは背筋を大きく伸ばした。
白亜の王宮を遠くにのぞむアルドナーグ邸、その屋内は、塵一つない。
『毎度毎度、ご苦労なことだな……』
窓の外、庭の芝生で寝そべっている銀狼が、軽いあくびをしつつ思念を送ってくる。
「出かける前はやっぱりきちんと掃除しないとね、何となくすっきりしないのよ。まあ、畜生道まっしぐらのアンタには解らないでしょうけど」
窓の外を見ようともせずに、雑巾の入ったバケツを手にし、リリスは清掃していた部屋を出て行く。
『生命活動の本道から離れた欲ばかりの業を持つ人道よりはマシと思うがな、我らの道も』
「価値観の違いよ、駄犬。その業の深さとそれを知りつつ人としての美徳を求めるところに人道の素晴らしさがあるわ」
言葉を声に出して話すリリス、その声は銀狼の鋭い聴覚が捉えている。
『……お主がやたらとムキになるあの娘とのことも、その人道の素晴らしさなのかね』
銀狼の言葉に、リリスはすぐには言葉を返さなかった。
そして、未だ声は銀狼に届くはずなのに、わざわざ思念波にして
『人道云々と関係あるかはともかくとしてね……彼女の素晴らしさは、私が一番、嫌と言うほど知っているよ。悔しいけどね……だから負けたくないの』
脱衣所の水道にたどり着き、リリスは蛇口をひねると、バケツの中で雑巾を洗い始めた。
水の冷たさが、思念波を送った際に何故か妙に火照った手を冷ましていって気持ちがよい。
『やれやれ……難儀なものであるな、お主達は……。それにしても、よいのか? このまま予定通りの出発で……。お主が望むのならば、もうしばらくこちらに残っていてもかまわぬぞ。我だけでも何とかなろうし、ダナンの奴らも少しは……』
「気遣いは必要ないよ、ナイト。貴方らしくないってば、そういうの。……魔竜が絡んできてるのは気になるけど、ある程度はお父さん達の予測どおりだし、お兄ちゃん達はきっと大丈夫。私達は私達のやるべき事を成すよ」
洗い終わった雑巾を絞り、リリスはもう一度「大丈夫」と息を漏らすように呟いた。
今回のイラストは、朱坂ノクチルカ様にいただいたファンアートです。
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