肌を打つ乾いた音が月下の澄んだ空気に溶けていく。
左頬に走った痛みに、ダーンは奇妙な感慨を覚えていた。
幼少の頃、育ての親であるレビン・カルド・アルドナーグに叱られたときには、頬をぶたれたこともあったが……。
考えてみると女性からこのような平手打ちを受けた記憶は無い。
自分に平手打ちをかました目の前の女性は、琥珀の瞳に涙を溜めて、表情自体は薄笑っているのに、顔をやや赤くしてこちらを睨め付けている。
彼女が羽織っていた草色の外套は、今のどさくさで、留め具のボタンが外れてしまったようで、夜風に乗って背後に舞って落ちるのが見えた。
今し方、その彼女が危なかったところを自分が助けたはずだったが、感謝されるどころか非道く怒らせて、あるいは傷つけてしまったかもしれない。
眼前の女性は、睨み付けたまま半身を軽くかばうように逸らして、両腕でその胸を抱いている。
全体的に細く華奢なイメージなのに、驚くほど豊満だったその乳房――右側と思われる――を、初対面のダーンが無遠慮に鷲掴みにしたのだから、当たり前のごとく……。
――凄ぇ柔らかかっ……じゃない! 当然、怒るよなぁ……。
ダーンは、ひりひりする頬を、たわわな柔らかさの余韻が残るその手で擦りたくなるのを我慢し、その場で姿勢を正すと腰からほぼ直角に上体を折る形で頭を下げる。
「申し訳ない……その……言い訳になるけど……」
と言いかけたダーンを蒼髪の女性が手で制止した。
「別に、謝んなくたっていいわ……どうせ事故だったんでしょ。あの状況じゃあ仕方ないし、そんなの言われなくたってわかってる。危ないトコ助けてもらったのも感謝してる」
「それは……その、どうもすみません……わかってくれて助かります」
「……ええ、頭の中では、よーく理解してるんだけど」
段々語調が強くなり、さらに彼女は続ける。
「折角、すごく良いタイミングで現れて……なかなか格好良くて、ちょっと運命的かもとか無駄にときめいたこのあたしの感動は見事に粉砕よッ。一言も……挨拶すらもなく、いきなり抱きしめられたかと思ったら、さらに胸……触った……どころか鷲掴みとか、ホントあり得ないッ!」
と、彼女が息巻いたところで、下の方から花弁の魔物が触手を伸ばしてくる。
「うるさいわねッ……今、忙しいんだけど!」
触手の接近に気づき、彼女は丈の短いスカートの中、太ももに巻いたホルスターから大きめの拳銃を引き抜き、たいして狙った素振りも見せずに引き金を引く。
蒼白い光が轟音とともに銃口から溢れ、迫っていた触手が派手にはじけ飛んだ。その威力は、ダーンの知識にあるような一般的な拳銃のものとは明らかに違う。
既存の銃は、理力ガスを濃縮させ液化したものを薬莢に詰め、撃発の際は、液化理力ガスが一気に燃焼し、その爆発力により薬莢先端の金属弾を撃ち出す。
だが、彼女が撃ったその銃は全く異なる機構をしていた。
彼女の持つ銃――《衝撃銃》は、理力カートリッジのエネルギーを《理力器》により衝撃波として変換、その衝撃波に指向性を与えて収束させたものを撃ち出すのだ。
つまり、金属などの実体弾ではなく、衝撃エネルギーの塊を目標にぶつけるのである。
その見た目は、既存の理力拳銃より少し銃身が長く大型だ。
傭兵としての知識で、一般的な拳銃との差異は察したが、ダーンは目の前の銃がどういったものかまでは理解できていなかった。ただし、これが理力兵器の最先端技術ではないかということは推測できていた。
このような高度な理力兵器を所持するとすれば、世界一の理力科学文明を誇るアーク王国の軍人くらいのものだ。
しかも、女性であるならば、当然ダーンは目の前の人物がどのような者か思い当たる。
「あの……貴女はもしかして、ステフさん?」
ダーンの問いかけに、彼女は驚きを露わにし目を見開く。
「え? ウソ……なんで……あたしのこと」
彼女のその声は、微かに震えていた。
「ああ、やっぱり。アーク王国からウチの傭兵隊に依頼があったんです。ステフ・ティファ・マクベイン……貴女を探して保護して欲しいと」
ダーンが説明すると、蒼髪の女性は若干肩を落とし、長い髪を少し指で絡め取るように左手でいじり始める。
「――――。ふーん、そんなことだと思った。……もうっ」
ステフ・ティファ・マクベインはそう言い捨てて、
「取り敢えず、下にいるアレ……なんとか倒すわよダーン」
「了解……って、なんで俺の名を?」
聞き返すダーンに、ステフは胸を若干反らし、
「あたしはアーク王国の特務隊の大佐なのよ……同盟国であるアテネの傭兵隊で指折りの実力者たる君のこと、知らないわけ無いでしょ? その蒼い髪を見ればすぐにわかるわ」
と、少し得意げに話す。
「なるほど……俺のほうは逆に、貴女が蒼髪だなんて聞いてなかったけどな」
「あらそう……。ま、あたしのことはウチの軍隊内でも結構極秘だからね……っと、それよりもダーン・フォン・アルドナーグ、貴方、聞いていた話と随分違うのね」
ステフは少々突っ慳貪な物言いをしながら、触手をうねうねと複雑に動かしさらにこちらを狙おうとする花弁の魔物の方へと向き直る。
手にしている大型の拳銃――――《衝撃銃》を構えた。
「すまないが、ごく最近名前が変わってね。……ダーン・エリン・フォン・アルドナーグだ。……で、違うとは?」
ダーンも彼女の言葉に応じつつ、植物の魔物の方に向き剣を正中に構え直した。
「アテネ一の朴念仁って聞いていたんだけど……まさかあたしに会うなり、いきなり胸を揉むなんて……」
懲りずにこちらを捕獲しようと迫る触手に向け、引き金を引くステフ。
「え? いや……別に揉んだわけじゃ……」
反論するダーンは、彼女との応答を継続しつつ、岩壁を這い上がってくる茎の部分の触手を迎撃する。
「いーえッ、揉まれました! 完璧に。……飛び上がってすぐ、あたしが悲鳴挙げた後、感触を確かめるような感じで、二回くらい」
自信たっぷりに言いながら、ステフは、このまま狭い岩棚にいてもラチがあかないと見て、岩棚からその身を躍り出した。
そのまま垂直に近い岩の壁を所々足で蹴って、落下速度をコントロールしつつ下へ降りていく。
「そ……そんなはずは、うん、ないぞ!」
初めて味わったあまく蕩けそうな感覚、そのせいかなんとなくバツが悪いところだったが、自分に言い聞かせるように、断言するダーン。彼は ステフの後を追う形で岩棚から下へと一気に飛び降りた。
ほとんど同時に着地した二人は、魔物との間合いをしっかり取るため、迫ってくるいくつもの触手を、銃で撃ち飛ばし、あるいは長剣ではじき飛ばしつつ、魔物の横を通り過ぎて、その向こう側へと走る。
「自覚がないほど、極自然に揉みしだいたのね……真性の変態だったとは」
悪態を吐きつつ、ステフは《衝撃銃》を三連射。
「真性の変態……いや、まさか……ナスカにたたき込まれていたその言葉を、この俺が受ける日が来るなんて……朴念仁と言われることには慣れてたけど……」
いつもよりもずっと低い声で言うダーンは、ステフの放った攻撃で、撃ち抜かれないまでもその触手を弾かれて本体が無防備になった魔物に間合いを詰める。
触手を躱し、上手く魔物の懐に飛び込んだダーンは、花弁の魔物の本体に斬りつけた。
ゴムのような樹液に覆われた触手と違い、その斬撃は魔物の子房の表皮を切り裂くが、相手が巨大すぎてあまり効果が無い。
そこへ、攻撃後動きが一瞬止まったダーンへと茎の触手が襲いかかる。
「意外ね。アテネじゃ、あんな破廉恥なコトしても変態扱いされないなんて」
ステフはダーンに迫る触手を《衝撃銃》の光弾で撃ちはじく。
「違うって! 今まで女性の胸を触ったことなんかない」
《衝撃銃》の光弾が触手を弾くことでできた間隙に、魔物の本体から飛び退くダーンは、その視界に別の触手がステフに向かおうとしているのを捕らえた。
飛び退く勢いのまま身体をひねって、長剣を横薙ぎに一閃、ステフに迫っていた触手を斬撃で弾く。
「あーら、そうなの。随分と寂しい青春みたいね、お気の毒に。さすがアテネ一の朴念仁、やーっぱ、女の子にちょっかいを出せないほどウブなのかしら」
触手の攻撃をダーンが弾いた隙に、ステフは魔物の方に左手をかざし、その手から放たれる数発の氷の弾丸をイメージする。
次の瞬間、魔物の本体にサイキックの《氷結弾丸》が数発めり込み、その表皮を傷つけ凍らせた。
サイキック――――。
それは、先天的な能力を開花させることが出来た者が扱う奇跡の力だ。
強力な精神波によって、《理力器》に頼らず自然界の《活力》に働きかけ、脳内のイメージを超常の物理現象として発現させる特殊な力である。
その力を扱える《超能力者》の存在は、一千万人に一人いるかどうかという希少なものであった。ステフは、その《超能力者》であるが、ここにはもう一人……。
「硬派と言ってくれ。剣の修行に励んでいくには、そういったことには無頓着の方が良いんだよ」
ステフがサイキックを使ったことにダーンは少し驚くが、その氷の弾丸もこの魔物には大したダメージを与えられないと判断する。
それでも、本体たる子房部分が若干凍り付いたことで、魔物の動きが僅かに鈍った。
その間隙に、ダーンもサイキックのイメージングをする。
「ものは言い様ねッ。例えそうだと仮定しても……硬派なダーン君も、きれいなお姉さんの溢れる魅力に惹かれて流石に堪えきれずに、ついついその本性をさらけ出して、わいせつ行為に手を染めたと……」
ステフの言葉を聞きながら、動きを鈍らせた魔物の本体へ、ダーンが灼熱の炎塊を放った。
「事故ってわかってるとか言ってなかったか? つーか、きれいなお姉さんとか、溢れる魅力とか、自分で言うか普通……」
炎塊のサイキックを発動させたダーンの姿をみて、今度はステフが息を殺しつつも感嘆し、思わず口元を綻ばせる。
しかし、花弁の魔物はその巨体故に、大量の水分を含んでいるらしく、ダーンの放った炎塊も表面を焦がした程度だった。
さらに、自己再生の能力もあるようで、一番初めにダーンが斬りつけた傷や、ステフが凍結させた傷もすぐに癒えていってしまう。
「なによッ……違うってーの? 結構いい女でしょ、あたし?」
相手の魔物は厄介な敵だ。
一度間合いを取ろうと考え、ステフは素早いバックステップで後方に下がる。
「一応、そうだと認めてやるけど、とんでもない自意識過剰だな」
ダーンも、大きく後ろに跳んでステフの隣に立つ。
「ふーん。いい女とは認めるのね」
「ホントに表面的な見た目はなッ」
二人は互いに言い合いながら、奇妙な感覚を覚えていた。
少しムキになって、戦闘中にしょうもないことを無遠慮に言い合っているが、互いが敵の攻撃から相手を護り、その隙を使って攻撃に転じるのを繰り返している。
お互いが相手の攻撃や動きに合わせやすい。
まるで、同じリズムでステップを踏むように、相手のタイミングが掴みやすく、共に戦っていて妙に息が合うのだ。
――戦いやすい。
二人はそう互いに感じ、つい視線を交わして笑みをこぼした。
そこに、目標を上手く捕らえられないばかりか、本体を傷つけられて怒り狂ったかのように、十本以上の触手がいっぺんに殺到する。
ダーンは右手に持つ長剣を咄嗟に左手に持ち替えると、ステフが当たり前のように差し出した左手を自然と右手で握る。
そして、ダーンがステフを引っ張る形で一緒に左へ大きく飛び退き、触手の攻撃を躱すと、ダーンは燃えさかる炎を、ステフは舞い踊る真空の刃をイメージした。
次の瞬間、二人はさらに奇妙な感覚を覚えることとなる。
☆
手を繋いだままの二人は、それぞれサイキックを発動しようとしていた。
ダーンは炎塊をイメージし、ステフは真空の刃をイメージしていたが、その瞬間に、二人とも自分の描いたものとは違うイメージが脳内に流れ込んでくる。
ダーンの猛る炎には、乱れ舞う風が鋭く刃となって吹き込み、ステフの乱れ舞う真空の刃には猛々しい炎が吹き上がったのだ。
そして、自分が具現化しようとしていたものとは違うイメージが、繋いだ手から流れ込んできたと感じ、直後に、二つのイメージが二人の中で一つになり変化を遂げた。
それは、無数に乱れ舞う灼熱の炎の刃だった。
《炎刃乱舞》――――
風と炎のサイキックにより生まれる、対象を鋭利に切り刻んで燃やし尽くす炎刃。
本来、二人とも各々の現在の力量では、未だ具現化には届かないはずの上位サイキックだった。
花弁の魔物を取り囲むように具現化した無数の燃えさかる刃は、円月輪のように弧を描きつつ高速に回転し、一気に魔物を焼きながら切り刻む。
驚異の自己回復能力を持つはずの魔物は、その身を斬り刻まれつつ、傷の内部から灼熱の炎で焼かれた。
その破壊されていく速度が組織細胞の再生する速度を上回る。
炎刃での凄まじい破壊力に、魔物の本体は切り刻まれその形を崩していくと、子房の奥に隠されていた禍々しい気配が剥き出しとなった。
――《魔核》だ!
自分が意図しなかった破壊の具現化に疑問を残しつつも、眼前の魔物の禍々しい《魔》の波動を感知したダーン。
彼はステフの手を離し、長剣を右手に持ち替えながら前に数歩踏み出すと、《闘神剣》の剣技を放つため、剣先を左下に下げ、意識を集中し闘気を洗練し始める。
そのダーンに向かって、傷つき割れた魔物の子房部分から、こぶし大の黒い塊が飛来してきた。
花弁の魔物の種子となる部分なのだろうが、炎刃により著しく傷ついた魔物が、悪あがきのように撃ち出したその黒い塊は、まるで投石器で放つ石の弾丸だ。
猛スピードで迫る弾丸の数は五つ、それらをまともに食らえば、ダーンとてひとたまりもないはずだったが、彼は慌てるどころか微動だにせずに、斬るべき対象たる《魔核》に意識を集中している。
回避する必要はない……そうダーンは確信していた。
そのダーンの後方から、《衝撃銃》を構えたステフが素早く五連射する。
衝撃波の弾は、高速スピンして収束し音速の倍以上の弾速で空を裂き、生じるソニックウェーブをも光弾の中心へと巻き込み収束させる性質を持っていた。
五つの光弾は、微動だにしないダーンの左側、頭や腕を掠めるように通過し、迫っていた魔物の種子弾五発を見事に迎撃する。
「動くと危ないわ……」
《衝撃銃》を構えたまましたり顔で告げるステフ。
「撃ってから言うなよ……」
振り返らずに、口元に笑みを浮かべて言うダーンは、蒼白く輝く刀身を逆袈裟に一閃した。
放った《闘神剣》の剣技・空破閃裂斬は、魔物の《魔核》、その幾重にも編まれた魔法を一気に斬り絶ち、やがて花弁の魔物は崩壊していく。
巨体がぼろぼろに崩れて灰と消えると、立ちこめていた《魔》の気配はなくなり、月光が美しい夜の森は、その静けさを取り戻すのだった。
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