濡れた空気が鼻腔に入り、檜と石けんの香りが少女の嗅覚を刺激する。
ステファニーはそのまま軽く吐息し、口内で静かに呟く。
「どうしてこうなった……」
「どうしたの? あ、どこか痛かった?」
ステファニーの口の中で消えかかって言葉になっていない声を聞いていたのか、背後の少女が怪訝に聞いてくる。
「あ、ううん、何でもない」
愛想笑いも込めて、ステファニーは応じると、なされるがままに背中をこすられていた。
既に日が西に沈んでしばらくしているが、ステファニー初の外国滞在は驚きの一日だった。
理力科学がはるかに発展しているアーク王国の街並みとは全く違うアテネの港町の風情、気さくではあるものの自らの職と立場に高い自尊心と責任感を持っている商人達、アーク王国の国王と知って物怖じしない父の戦友達――そして……!
――パンツ見られるし!
本日の経験したことを振り返ると、結局そこで怒りと羞恥心により思考が停止する。
だが、そんな昼間の出来事よりも、今このときはステファニーにとって、さらに予想外の出来事に困惑ぎみである。
それは、背中に感じるタオルの感触に直結することだ。
ステファニーが白い裸身の背後を肩越しに覗えば、金髪の長い髪とエメラルドの愛らしい瞳、そしてステファニーでも驚くようなきめ細かい肌の裸身が視界に入った。
遅ればせながら……ここは、アルドナーグ邸の浴場である。
アーク王宮の王家専用浴場に比べれば、施設の豪華さや広さなどは比較するまでもなく劣るが、それでも貴族の邸宅のそれであるから、それなりの広さや施設がそろっていた。
夕食が終わり、旅の疲れを癒やす意味でもと、ミリュウに入浴を勧められたのだが、そのときに、この金髪ツインテールが一緒にはいると言いだし、さらにはこのように背中まで流してくれているのだ。
さて、このアテネに到着した直後からの、彼女の態度とは正反対の状況である。
昼下がりのお茶の際にお土産のチョコレートをあげ、それを口にしてから、明らかにリリスの態度が軟化し、午後には邸内の案内をしてくれたりして、妙に友好的なのだ。
――恐るべし! チョコレート。
そう思いつつステファニーは、ほんの僅かな気遣いが人とのコミュニケーションに必要な要素というスレームに習ったことを思い出していた。
「それにしても……綺麗な肌……ステフって」
背後の呟きに、ステファニーの思考が再び現実に還ってくる。
リリスはタオルから左手を外し、指先でステファニーの背中を軽く撫でた。
「ひゃッ! ……ちょっと、リリス?」
突然のくすぐったさに、ステファニーは恥ずかしさを織り交ぜた抗議の視線を背後の少女に向ける。
一方、リリスは特に悪びれた様子もなく、
「いやぁ、ごめんごめん。でも、すっごく肌触りいいからつい……」
にこやかに応じて、さらについでとばかりに、視線を振り返ったステファニーの胸元におとした。
「な……何?」
じっと見つめられた先が自己の裸身のしかも胸元であったので、同じ女性とはいえなんとなく羞恥心が湧いて、両腕で胸を抱くように隠すステファニー。
リリスはそのまま自分の胸元も見つめて――
「ああ……うん? ちょっと……。一歳年上でも、まだ差がないわ……よしッ」
妙な安堵とともに、小さなガッツポーズを作っていた。
そんなリリスが七年後――二人が再会したとき、ステファニーの胸元を指さし真っ先に言い放ったのは「この裏切り者!」であったのは、また別の話である。
☆
温めの湯に肩までつかりながら、ステファニーはぼんやりと窓から見える月を眺める。
浴室の窓は、大人の男でも背伸びしないと手が届かない場所にあり、大きさも子供がようやく通れそうな程度だったが、東側にあるため、登り始めた月がよく見えるのだ。
その夜の月は月齢十一。
満月にはあと五日かかるが、かなり丸くはなっていて、空に雲もなく明るさは十分である。
ステファニーは子供の頃から、夜空の月を眺めるのが好きだった。
暗い闇に清廉な光をおとすその美しさと、優しさを感じさせる存在感。
昼間の太陽ももちろん好きだったが、月の光は太陽のように強烈すぎず、どこか柔らかくて、自分のことも優しく包んでくれるかのようなイメージがあった。
ともすれば、最近の理力科学研究で、この惑星の息吹きたる《活力》があの月からも投影されていることがわかっており、しかも他の《活力》よりも強力なのだという。
そのほかに、女性の身体にも月の動きが関わっているという学説もあったが――
――あたしがこんな風に奇妙な感覚になるのも、けっこう的を射ているのかな……。
そんな風に一人物思いに耽っていると、
「……ステフ、月が好きなの?」
隣から無邪気な少女の声。
一緒に湯船に浸かる、金髪の少女だ。
彼女は、ツインテールを解いて髪を洗った後、タオルでまとめて結い上げている。
一方、そういうことに疎いステファニーは、長い髪を洗った後四苦八苦して結局タオルでまとめきれず、見かねたリリスにやってもらったのだが……。
「うん。……月って、なんだか夜を明るくしてくれるし、模様とかも綺麗で……」
「ふーん。でもアークの街じゃ、理力の街路灯とかいっぱいあって、星も見えないくらいに明るいってお母さん言ってたけど?」
リリスの言葉に、ステファニーは肩をすくめて首肯する。
確かに、理力科学が圧倒的に進んだあの街は、夜の闇も科学の光が打ち照らしてしまう。
だが、それでも夜の暗さはあって、月の明るさを霞ませるものではない。
「……それでも、月の方が綺麗で明るいの」
「……そっか。ま、月は別格だしね、《活力》も《魔力》も……女神だって……」
リリスが呟くが、後半は湯面の下に鼻先まで浸かってしまい、ステファニーには聞こえない。
「え? 何?」
「ううん。何でもない。……それよりさ、さっき脱衣所で床におとした石だけど」
リリスの話題変換に、ステファニーは少しだけ曇った表情をする。
浴室に入る前、脱衣所で竹籠に着ていた衣服を入れる際、スカートのポケットから落ちてしまったのだ。
ステファニーがいつも持っている、あの黒く冷たい石。
二年ほど前に、母のレイナーから渡された特別な石なのだが、正直言ってステファニーはあの石の冷たさが苦手だった。
まるで手のひらから自分の体の熱を全て奪っていくかのように、握りしめていても常に冷たいのだ。
母が「アーク王家の者は、いずれこの石によって運命が動き出すから大事にしなさい」と言い含めて渡してきたので、肌身離さず持っているのだが――
「あれは、《月影石》の原石だね」
リリスの不意の言葉に、ステファニーは目を見開いて彼女に向き直る。
すると、一つ年下の金髪の少女は、歳に似合わない大人びたしたり顔をしていた。
「……月え……?」
「ああ、《月影石》よ。私の家の書庫に古い伝承を書き綴った本があるんだけど、その中にあった石と似てる。黒くくすんでいるけど決して傷つかない、堅くて冷たい石。伝承では、アーク王国では王家の嫡子が幼少の頃から持ってて、いずれ婚姻する相手に手渡すらしいけど、ステフは姉妹だけで兄弟はいないんだっけ? だから持ってるのかな?」
リリスの話す内容に、ステファニーは絶句するしかなかった。
この石を母からもらったとき、そんな説明は聞いてはいない。
ただし、母の言葉に妙な重みがあったのは、リリスの言う伝承によるところなのかと考えると、合点がいく。
そして、そんな伝承をリリスが知っていることには驚いたが、考えてみれば、アルドナーグ家はアーク王国とも親交が深いアテネ王家直系の貴族だ。
そういう類いの本があっても、なんら不思議ではない。
「ねえ、他にもあの石のこと、なんか書かれてなかった?」
それは、ステファニーの単なる興味本位から出た言葉だったのだが――
「……もちろん、色々と書かれてるよ。明日本を見せてあげるね」
そう応じたリリスの瞳に、微かな紅い光が灯るのを、ステファニーは気がつかなかった。
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