初夏の朝、森は薄い霧に覆われて、あたりは少し濡れていた。近くのアリオス湖から立ちのぼる湿気のせいだろう。濡れた下草を踏みしめながら、蒼い髪の少女は、一週間程度前に夜露に濡れながら、この森を走ったことを思い出す。
「ここだ」
先頭を行く蒼髪の剣士ダーンが、木々が少し開けたその場所で足を止めた。その視線の先に、大地へ突き刺さる戦斧が、少し刃の表面を錆び付かせている。
「この斧は……ああ、私がディンに渡した武器だ。大振りしてては敵わない相手が現れたら使えと言ってあった」
赤サビを表面に浮かべた斧のブレードを眺めながら、サジヴァルドは嘆息した。
「兄様……」
ルナフィスが花束を手にし、斧の前に歩み出る。
今回の人狼ディンの墓参りに、アテネ王国の北方国境付近にやってきた人員は四人。ダーンとサジヴァルド、ステファニー、そしてルナフィスだ。ナスカなどのメンバーもディンと闘っていたので、加わりたかったようだが、サジヴァルドの転移術式で送れるのは、本人を含めて四人までだった。
「あたしが来ても良かったのかな? ナスカや司祭のホーチの方が……」
少し遠慮がちに言い出すステファニーに、ルナフィスは首を振り、サジヴァルドも視線を向けてくる。
「姫、むしろディンには、貴女がルナフィスとともにここに来ていただけたことこそ、最大の手向けとなりましょう。ヤツは、ルナフィスに同年代の友人が出来ないかと気を揉んでましたからな」
サジヴァルドの言葉に、ルナフィスは少しはにかむようにして、ステファニーから視線を外す。
「でも、そうなると、もしかしてディンも私が人間だって知っていたの?」
「ああ。ヤツは鼻が鋭いし、すぐに気が付いたよ。ルナフィスにそれを黙っているように言い聞かせたのは私だ」
サジヴァルドはそう言うと、ルナフィスから受け取った花束を墓標代わりの斧の前に供えた。
「何故秘密にしたの?」
ルナフィスの問いかけに、サジヴァルドは瞼を閉じてしばし黙考する。
「やはり、私の口から全てを語れないよルナフィス。確かにお前には過去があって、私もその一部を識っている。だが、ある人物との約定によって、語ってはならないと厳に取り決められていてな」
「そんな……」
「お前達のこれからの旅で、必ず過去の全てを、お前は思い出すだろう。その時、教えられた客観的な知識としての記憶よりも、本物の主観的な記憶として価値観が実感できるはずだ。今は焦らずに、現在の自分と向き合ってくれ」
「そんな言い方、ずるいわ」
「すまん、ルナフィス」
短く詫びて、サジヴァルドはそのままルナフィスの記憶については語らなくなった。
☆
アーク王国において手に入れた高価な蒸留酒を斧に掛けながら、サジヴァルドは言葉を発しないで、かつての使用人と語らっていた。
そんな兄の姿を見つめながら、ルナフィスは嘆息し、そのまま軽く笑顔を浮かべる。
「いいのか、それで」
ダーンがルナフィスの隣で彼女の心情を読み取ったかのように声をかける。
「うん。いいの。こうやってさ……兄様がいて、ステフがいて、あんたもいてさ。今の私は、けっこう恵まれてると思うんだ。だから、思い出せない過去を上辺だけ知っても、多分つらくなるだけだと思うから」
兄は、きっと自分のことを一番に考えて、ここで過去のことを語らないと選択したはずだ。いつだってそうだ。魔導に精神を汚染させられ正気を失っていた時ですら、吸血によって私が眷属に堕ちないように気をつけていた節がある。
不器用だけど、どこまでも一途な優しさを、この男は胸に秘めている。
「兄様……」
「なんだ?」
「大好きよ」
かつて強大な魔導を操り、不死に最も近い男として君臨した吸血鬼。いまやその正反対の神聖な権能を操る月神の代行者は、妹として育ててきたその少女の一言で、その場の誰もがみていて居たたまれない程に赤面し破顔させてしまった。
「そんな顔もするんだ、兄様」
「……大人をからかうな」
偽りでありながら真に迫る兄妹は、お互い不器用に笑いあう。その姿を間近に見て、ステファニーも胸をなで下ろした。
「良かったな、ステフ」
ダーンがステファニーの肩を軽く抱きつつ、彼女だけに聞こえるように囁く。
「うん、そうね」
ルナフィスが人間だと気が付いて、彼女を仲間に引き入れたステファニーは、一つだけ悩んでいたことがあった。
それは、『魔竜人』として生きてきたルナフィスの人生的喪失だ。
魔竜人として生きてきたルナフィスには、魔竜人としての幸福がこれまでにあったはずで、人間側に引き入れたことで、その幸福を不幸と置き換えてしまうのではないか。あるいは、価値観を変えることで、それがトラウマになるのではないかと不安に思っていた。
さらに、ステファニーは正当防衛とはいえ、戦闘にてルナフィスの兄、サジヴァルドを討っている。
この二日間、ルナフィスと親しく色んな話をしてきたが、ステファニーの胸には、このわだかまりがずっと残っていたのだ。
それが、サジヴァルドのまさかの帰還と、今日の墓参りで、スッキリと解消されていた。
ダーンも、ステファニーのわだかまりをなんとなく察していたのだろう。それが、今この瞬間に解決したと感じて、ステファニーに声をかけたのである。
『フフフッ。随分と女心がわかるようになりましたね。そろそろ朴念仁という汚名も返上となりましょうか、ダーン?』
ステファニーの胸元で、緋色の宝玉が朝日を照り返しながら上機嫌だ。
「い、いや。そもそも朴念仁とかいうのは、ナスカあたりが勝手に広めた言いがかりでだな……」
「いーえッ! 間違いなく朴念仁だったわ」
「ウソ……まさか自覚なかったの?」
銀をまぶした蒼い髪の少女と、朱を孕んだ銀髪の少女は、同時にダーンを振り返って言い放った。
「う……ぐっ」
ダーンはこめかみをヒクつかせながらたじろぐしかなく、その様子を背中に感じながら、サジヴァルドは口の中で「やれやれ」と嘆息するのだった。
☆
ダーン達は、墓標代わりの斧を、それ以上錆び付かないように、ステファニーが持ってきたコーティング剤を塗布して、さらに周囲を軽く草刈りなどして整備する。
なんだかんだで時間は経過し、太陽はほぼ真上にまで上ろうとしていた。
彼らは、アーク王国から転位術で来ているので、アークを出発した夕食過ぎの時刻から、そのままの時間感覚で、照り付ける日の光は時差ボケを酷くする。
「さすがに、眠くなってきたわね」
一通りの作業を終え、ステファニーが額の汗を拭いつつぼやく。
「それもあるけど、ちょっと腹も減ったな」
ダーンの言葉に、ステファニーも頷く。その隣に立つルナフィスも同様だ。
「ふむ。そろそろ、軽い食事とするか」
皆の様子を見て、サジヴァルドは木陰においてあった荷物へと足を運ぶ。そして、軽合金製の鞄を一つ持ってきて、皆の前でそれを開いた。
「わぁ、美味しそう」
鞄の中は二段になっていて、上段にローストチキンや腸詰め、ゆで卵などの簡単なオードブルと、下段にはパンがそれぞれ4人分入っていた。喜色の声を上げるステファニーと、隣で少しむずがゆい気分のルナフィス。
「兄様……料理出来たんだ。というか、なんか凄く気が利くというか、なんというか……」
グレモリーに深手を負わされて絶体絶命のところを助けられて以来、兄のやる事なす事全てが、かつての吸血鬼だった彼のイメージと異なり、妙な気分になるルナフィス。
「む? おかしかったか……」
サジヴァルドが妹の反応に少し困惑するが、その妙な空気を察してか、ステファニーがオードブルの一つをつまみ食いして――
「美味し! これ、ホントにお兄さんが作ったの?」
「う、うむ。しかしその……お兄さんという呼ばれ方は少しこそばゆいな……」
妙に照れるサジヴァルドに、ダーンは肩をすくめ、ルナフィスは少しだけむくれる。
「ん? じゃあデルマイーユ少佐……じゃあなんか味気ないというか、職場的で堅苦しいし……」
ステファニーが思案しながら、ちゃっかりとパンにも手を伸ばす。それを見て、ルナフィスも苦笑いしながら、オードブルに手を付け始めた。
「普通にサジヴァルドと呼び捨てにしてくれてかまわないさ。立場上は姫の方が上司なのだからな」
「む。それは気に入らない」
「おや?」
「その、姫って呼ばれ方よ。あたしは親しい人や信頼できる仲間から、その呼ばれ方されるの嫌いなの。だから、ステフでいいわ、サジヴァルド」
ステファニーのいつものやり取りだなと、ダーンは感じていたが、当のサジヴァルドにしてみれば、これはかなりの不意打ちだった。
魔導で精神を狂わせていて、自分本来の意志ではなかったとはいえ、かつて吸血鬼としてステファニーを襲ったのは事実で、散々な物言いと悪趣味な手法で敵対した記憶は鮮明だ。そんな自分と一緒にいるだけで、一体どのような怨嗟を秘めているのだろうとも考えていたのに、目の前の少女は、簡単に『親しい人や信頼できる仲間』と言った。さらに、愛称で呼べとも言ってきている。
「なるほど……これは、たまらんな」
軽く目頭を押さえて、サジヴァルドが言葉を漏らす。そこへルナフィスが意地悪な笑みを浮かべて、兄に耳打ちする。
「最強でしょ、ステフってさ」
妹の囁きを聞き、サジヴァルドは肩を揺らして愉快に笑い出していた。
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