ひんやりとした岩肌の感触を頬に受け、ダーンは目を覚ました。
「ここは?」
呟きながら目を開けば、こちら側に向かい合う形ですぐ側にステフが気を失ったまま横たわっている。
そして、左手に彼女のしなやかな手の感触。
「やっぱりな……」
左手の温もりを確かめながら、ダーンは独り言ちる。
その独り言のせいなのか、横たわったステフが軽く呻いて目を覚ましかけた。
「ステフ、大丈夫か?」
ダーンは上体を起こしながらステフに呼びかけると、彼女も琥珀の瞳をゆっくりと開いていく。
「ダーン……あれ? ああ……夢か……って、ここどこ?」
ステフは慌てて上体を起こそうとし、その瞬間にダーンも握ったままの彼女の手を引き起こしてやる。
「どうやら……遺跡の奥ってやつなのかな。と言っても、このあたりに満ちてる気配は……」
ダーンは立ち上がって感覚を研ぎ澄ますと、感じる周囲の空気は現実のものとは思えない妙な気配に満ちていた。
「なんか……変な感覚。まるで夢の中みたいな……」
「具象結界だ……間違いない」
ダーンは確信する。
周囲に満ちた気配は何者かの心象の残滓だ。
このような空気は、術者によって張った結界と種類も効果も違うが、根本的な部分で共通している。
それが法術であれ魔法によるものであれ、術者の思い描く心象が世界の具象を変質させた結果ということだ。
「具象結界か……初めて経験するけど、以前知識として習ったことだけはあるわ。だけど、貴方よく知っていたわね」
「同じような結界を使う男が知り合いにいてね……まあ、さっき言っていた天使なんだが……」
ダーンはそう言って、さらに天使長との一件を簡単に説明する。
☆
【アテネ標準時:6月9日午前11時30分 アテネ王国アリオス湖北側森林地帯】
ダーンは前を歩く男の姿を憮然とした面持ちで見ていた。燃えるような赤い髪、鍛えられた肉体は、背中側にも独特の威圧感を感じる。
先程、人狼の合成魔獣との遭遇戦で、討ち取られそうになっていたところを助けられたダーンは、ナスカ達の勧めもあり、一度任務から離れ、彼の扱う剣術・颯刹流剣法の始祖、カリアス・エリンに剣の指導を受けることとなった。
赤髪の剣士カリアスはダーンに対して、少し移動すると伝え、湖のある方向とは反対の方角の、森林に入り込む形で歩き始めた。
色々と釈然としない思いを抱えながらも、ダーンは無言でカリアスの後に続き歩き始める。
「ダーン、お前は信仰術や魔法についてどの程度知っている?」
人はおろか獣の通過した痕跡すらない、ひんやりとした森にカリアスの声が反響する。
「ほとんど知りませんね」
自分でも子供っぽいメンタリティと思いつつも、ダーンは目の前を歩く赤髪の剣士に棘のこもった言い方をしてしまう。
そんなダーンとは裏腹に、カリアスは気にもとめていない風で、振り返ることもなく言葉を続ける。
「だろうな……。では、サイキックについてはどうだ」
「ほんの一握りの《超能力者》が使う異能の力としか……実際にそういう奴に会ったことないですから」
「フッ……会ったことがないだと? 実際には会っていても、その者が《超能力者》と気付かないだけではないかな」
ちらりと首だけでこちらを振り返ったカリアスの目は、鋭さの中に嘲笑の色が混じっているとダーンは感じた。
「それは……ですが、少なくとも戦闘中にそんな力を使う者がいたことはないはず」
「ふむ……やはり、理解はしていないか。……まあよかろう。その辺もおいおい教えてやるとして、先に私が今使っている法術について、簡単に教えよう」
カリアスがそう言った刹那、周囲の空気が変わった。
「何だ?」
湿度の高い熱を持った空気が、ダーンの身体に纏わりつき、その不快さに彼は顔をしかめ足を止めた。
「足を止めるな、私にしっかりついてこい」
アイスブルーの瞳が鋭く向けられ、思わず言われたとおりに歩み出すダーン、その額には汗が滲み始め、呼吸も僅かに荒くなりつつある。
「苦しかろう……意図的にそういう世界を構築したからな。具象結界 《灼界》……この法術の名前だ」
「具象……結界?」
「私が法術でお前と私の歩む先に築いたモノだ。現実空間の時間や現象を変化させて、術者の意のままの世界を作り出すのが具象結界の特徴だ。私はこれを、『歩いて行く』という形で形成し、お前を招き入れたのさ。
この《灼界》では、気温と湿度が赤道直下の熱帯以上に不快なものになり、空気は通常の半分程に薄い。そして流れる時間は三十倍の早さだ。つまり、現実の半日の間に、ここでは十五日間過ごすことができる」
「その具象結界とかの凄さよりも、この状況に十五日もいることにうんざりというのが率直な感想です」
暗澹な気分を露骨に顕わにするダーンに、カリアスは苦笑する。
「ま、そうだろうな。さて……」
カリアスは立ち止まり、ダーンの方に踵を返しつつ長剣を抜き放ち、すぐさま剣の柄を逆さに持ち替えて、切っ先を大地に突き立てた。
「キンッ」という甲高い音が辺りに響き、その音の耳障りさに思わず目を閉じたダーンの視界は、瞬きする間の一瞬で変貌を遂げる。
鬱蒼と茂っていた森の木々が消え、空は朱に染まり、赤く爛れた大地が地平線まで続く何もない世界となっていた。
「まだちゃんと名乗っていなかったな……。
私は神界 《ルイベルディア》第十七階層を守護する者の一人、カリアス・エリン。主神デウス・ラー様からは天使長の座を賜っている。
お前も知っていようが、颯刹流剣法をこの世界に残したのもこの私だ」
「天使長……」
「信じる信じないは勝手だ。役職なぞお前を鍛えるには関係のない話だからな。さあ、始めるぞ。太古の闘神達から我ら神界の戦士にまで受け継がれた剣法の極み《闘神剣》の鍛錬をな」
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