タキオン・ソード

~Tachyon Sword~
駿河防人
駿河防人

氷結

公開日時: 2020年11月27日(金) 13:39
文字数:5,214

 右足首に激痛が走っていた。


 その痛みに、大量の脂汗を浮かべながら、少女の美しい顔が歪む。


 土気色になった唇は微かに震え、悲痛のうめきが漏れていた。


 巨大なトカゲが左前足で、仰向けに倒れたホーチィニの右足首を踏みつぶし、赤い双眸で痛みに苦しむ得物を見据えている。


 魔物化したトカゲは、やはり人間を捕食することだけを本能としていた。


 先ほどまで威勢のよかった得物を無力化し、そのどこから食らいつこうかと舌舐めずりしている。



 捕食する得物は新鮮で、若いメスだ。


 一気に頭部などを食らいついては面白みがない。


 適度に歯ごたえのありそうな、白い太ももの辺りから食いちぎるか。


 それとも、栄養価が高くぷりぷりとして弾力のある臓物はらわたからいただくか。


 特にメスの子宮などは、血液をたっぷりと含んでいて美味だ。


 しかも、おどり食いをするにあたっては、メスは本能的に子宮を守ろうと必死にもがく。


 それを貪り取り、得物が浮かべる悲痛と絶望の色をスパイスにするのもオツなものだ。




 ほとんど知能のないトカゲが愉悦に目を細める。


 その愉悦は、魔物化したときに巨大化した脳が発達し芽生えたものなのか、それとも、その魔法を編み込んだ者のおぞましい悪意が作用したのかはわからない。


 ともかく、トカゲは捕らえた獲物をいかにいたぶりつつ捕食するかを考えて、あふれ出てくる強酸のよだれを歪むあぎとから垂らし始めた。


 薄手のスカートがまくり上がり、露わになったホーチィニ大腿部、その白い肌に強酸が滴り落ちる。


「あああああ――ッ」


 酸が肌を焼く痛みに、たまらずホーチィニは絶叫しつつ、狂ったように頭部を振り乱す。


 三つ編みにしていた黒髪は、トカゲの血が混ざった泥をかぶって無惨に乱れ、脂汗と溢れてしまった涙で頬に、その乱れ髪が張り付いた。


 自分の肌を焼いた酸の悪臭と、皮膚の焼ける嫌な匂いが彼女の鼻腔に流れ込み、思わず吐き気を催す。


 こみ上げる不快さと、神経が焼け切れそうなほどの痛み。


 先ほど視界に捉えた愛する男の無惨な姿。


 いっそ、舌をかみ切って自害したいほどだった。


 もしくは、自尊を捨てて泣きじゃくりたい。


 それでも――


 彼女は、絶望に屈したくはなかった。


 最期の最後まで、あのおとこが好きでいてくれた自分自身を固持し続ける。


「汚いわ……汚い体液なんかを……こともあろうに、私の足にかけるなんてッ」


 振り絞るように悪態を漏らし、ホーチィニは凍てつくような鋭い視線でトカゲを見上げた。





     ☆





 確かな手応えを感じた右拳を見つめ、人狼は静かに息を吐き出した。


 その胸には大穴が空き、鮮血が吹き出た跡があるが、既に出血は止まっている。


 肺の一部と、何よりも心臓を失っていたが、魔法により様々な生物の長所を集めて合成した怪物は、ほとんど戦えない状態ではあったものの生きていた。


 体中の血管に近接する筋組織が細かく鳴動するよう伸縮し続け、血流を維持している。


 傷口は強引に筋肉で締め付け止血し、森の中に漂う活力を頭部に埋め込まれた魔力コアが収集し、生命力に変換し続けていた。


 しかし、傭兵隊長にやられた傷は完全に致命傷だ。


 故に、いくら魔力コアが生命力を生み出していても、人狼に宿る命の火は間もなく消え去るだろう。


 人狼自身もそのことを理解していたが、悔いはない。


 最後にあの傭兵隊長と戦い、その結果としてこの命を失うこととなったとしても満足のいくものだった。


 致命傷を受けつつも、合成種族キマイラとしてのしぶとさを生かし、勝利を確信していたであろうナスカを残る力で殴り飛ばして、なんとか勝つことが出来た。


 銀髪の少女のことが気にかかるが、最も警戒すべき相手の一人はここで葬ることに成功している。


 残る敵のうち、司祭の女と女弓兵については、昼間の戦闘を見た限り、彼女たちにあの凶悪な魔物達を単独で葬る力はないはずだ。


 あとは、この場にいない蒼髪の剣士と赤髪の剣士の二人だが……。


 銀髪の少女はその魔力ではなく、剣士として特段に秀でている。


 既に、二人の剣士のことは、昼間の戦況と共に彼女にも伝えてあった。


 聡明な彼女ならば、一人で真っ正面からやり合うことがないよう行動することだろう。そうなれば、あの悪魔の女から受けた依頼も、きっとやり遂げるはずだ。


 そう考え至って、人狼は少し離れた位置で戦闘していたトカゲと宮廷司祭の方に視線を移した。




 戦闘は既に決着がついているようだ。


 人狼は、トカゲの右後方になる位置に立って見ていた。


 司祭もかなりの善戦をしたようで、巨大なトカゲは全身を朱に染めている。


 その巨体の下に、司祭が仰向けに倒れていた。


 先ほど、彼女の悲鳴が聞こえてきたが、ここからだとトカゲの巨体でその表情は覗えない。


 だが、司祭の動きはなく、その右足首はトカゲの前足で踏みつぶされており、すぐにでもトカゲが彼女の肉体を食いちぎって終わることだろう。



 ふと、人狼は胸が痛む思いを得ていた。


 ナスカにやられた傷が痛んだのではない。


 トカゲは眼下の得物に対し、すぐにとどめを刺さないでいる。


 恐らくは、捕獲した得物をどういたぶりつつ捕食するかとでも考えているのだろう……。


 その『得物』とは自分と死力を尽くし戦った、賞賛すべき男が守ろうとした女だ。


 命を助けることは出来ないが、せめて苦しまずに楽にしてやり、その亡骸も、あの男と共に埋葬してやりたい。


 それが、互いの誇りにかけて戦った戦士としての情けではないか。


 しかし、今の人狼にあのトカゲを倒してその暴虐を止める術はなかった。


 彼女の肉体は、この後、見るも凄惨なかたちで解体されつつあのトカゲにむさぼり食われることになるだろう。


「これも、戦いに呪われた者の罰ですか……」


 諦めるように呟き、人狼は目を閉じると――――今度は全身にやたらと寒気を感じるようになった。


 止血しているとはいえ、先ほどの負傷で大量の血液を失っている。


 そのせいで、体温が維持できなくなっているのかも知れない。



――いや、違う。



「これは……」


 人狼は目を見開き、冷ややかな冷気が流れてくる前方、トカゲと司祭がいる方を凝視した。





     ☆





 ホーチィニの見上げる先で、巨大なトカゲが動きを完全に止めていた。


 先ほどまで、得物を捕食しようと荒くなっていた呼吸も、あふれ出していた唾液すらも止まっている。


 いや、凍り付いているのだ。


 トカゲの全身に刻まれていた傷口も、滲んでいた鮮血は凍り付き、ホーチィニの右足首を踏んでいた左前足は、皮膚が結露して凍結している。


「痛みの感覚がないのが命取りだったわね」


 ホーチィニは冷たく呟き、さらにトカゲを睨め付ければ、その巨体は左前足の氷結が一気に全身へ広がった。


 完全に凍り付いたトカゲから、痛む右足を強引に引き抜き、ホーチィニは片足でなんとか立ち上がる。


「ナスカでもないのに……私をはずかしめようとしたこと、地獄で悔い改めなさい」


 突き刺すように言い放つホーチィニが右手の鞭を振るうと……。


 凍り付いたトカゲの巨体はガラス細工のように、もろく粉々に崩れ落ちた。


「なんと……貴女にこれほどの力があるとは驚きです」


 口から白い息を吐き出しながら、人狼が驚愕を露わにしている。


 その人狼を、ホーチィニが見据えてきたが、さらに人狼は側の森林から聞こえた声により、愕然とすることとなる。



凍結波ブリザード・ウェーブのサイキック……水の精霊を根源にするホーチの奥の手だ」


 敵を前に安堵で涙ぐむ司祭の顔。


 声のした方向に振り返れば、人狼の視界に、こちらへゆっくりと近づく傭兵隊長の姿があった。


「馬鹿な……私の拳は確かに貴方の胴を砕いたはず。あの手応えで生きていられるはずはない」


 人狼の声が震えていた。


「ああ……いい一撃だったぜ。実際、まだあばらとかぼろぼろだしな」


 よく見ると、ナスカは左の脇腹を左手で押さえているし、右足は少し引きずっているようだ。


「私達がなんの準備もしないで、貴方の襲撃を待っていたと思うの?」


 司祭が目に浮かんだ涙を手で払いつつ告げてくる。


 その彼女のスカートは所々破れていて、見え隠れする大腿部の爛れた傷跡が、信仰術を使っている風ではないのに白銀色の光を漏らしつつ急速に治癒していくのが見えた。


「ディン、アンタとやり合うには、オレもそれなりの覚悟が必要だったんでな。アンタの襲撃の前にな、龍闘気を存分に使えるように、ホーチに頼んで肉体補修の信仰術をあらかじめかけてもらってたのさ。……正直、すんげー痛かったけどな、術の行使に必要だった鞭打ちなんか百回以上だぜ……」


 苦笑いするナスカだったが、その説明に補足するように、人狼の背後から「百三十七回……」というホーチの呟きが聞こえた。


「なるほど……どうりで昼間の戦闘よりもお強かったわけです。本来なら自己崩壊する程の龍闘気を解放していたわけですか。司祭の信仰術――おそらくは、徐々に肉体の損傷を治癒し続けるたぐいの法術を発動させていながら……ですが、それですと――」


「ああ。咄嗟に残った龍闘気を体内に溜めたおかげで致命傷にはならなかったが、アンタの一撃のダメージは大して回復してねえよ……今のアンタと同じ、ほとんど戦えねえ」


 そう言って、ナスカは右手に握っていた長剣を正中に構えた。


「おっしゃっていることと行動が一致されていませんな」


 そう言いつつ、人狼も左手に持ったままだった戦斧を両手で持ち直した。


「ダメよッ」


 痛む右足を上げたまま、左足だけの片足跳びで、ホーチが二人の間に割り入るが、ナスカが厳しい視線をその彼女に向け、


「邪魔はするなッ、ホーチ。それに……お前、まだ治りきってないだろ、その足とかな。今やってる《治癒ヒール》のサイキックを途中で止めると、その傷跡、残っちまう。そんなの嫌だぞ、オレ。お前の足を思う存分ほおりするのがオレのささやかな夢なんだからな」


「そんな風に茶化したってダメなものはダメだもんッ……もう、私の信仰術だって効果消えちゃってるし、ナスカ絶対無理するんだもんッ……絶対絶対やだぁ」


 子供のように泣き出しながら、ホーチィニは片足跳びのままナスカのカラダに抱きついてきた。


 その彼女を優しく左手で受け止めて、ナスカは苦笑いを浮かべつつ人狼に視線を投げかける。


 ナスカの視線を受け止め、人狼も口元を緩めた。


「かないませぬな……。実は私も女性の涙に弱い方でして……それに、どうやら私の負けのようです」

 

 そう言って、人狼は戦斧を地面に手放し、ナスカとは反対の方向に視線を移す。



 人狼の視界には、トカゲの凍り付いた肉片が散らばるその先に、金髪の女弓兵と抜刀した蒼髪の剣士の姿があった。



 


     ☆





 ナスカとホーチィニの生存を確認できたことに胸を撫で下ろしつつ、ダーンは警戒したまま人狼に視線を移した。


 人狼は持っていた戦斧を地面に投げ出していて、どうやら戦闘続行の意志がないようだ。よく見れば、人狼の肉体は胸部に致命傷としか思えない大穴が開いている。


「ナスカがやったのか……それに、これは……」


 呟きつつ、ダーンは周囲に散らばる凍り付いた肉片を見渡す。


 ここに接近する際、魔物のものと思しき《魔》の波動を感じていたが、それが急に途絶えた。


 ナスカかホーチィニのどちらかが、魔物を始末したと予測していたが、この凍結した肉片や未だ辺りに漂う冷気から、強力な凍結系の術が発動したようにも思える。


 だが、エルが妖精の力を解放した時のような特別な気配や、信仰術などの法術が発動した気配を感じなかった――だとすると……。


 ダーンは視線をナスカの胸で泣きじゃくる宮廷司祭の足下に移した。


 複雑に骨折していたと思われる、彼女の右足が淡く白銀に発光している。


「ホーチィニさんも《超能力者サイキッカー》だったのか」


 ダーンの呟きに、ホーチィニの髪と、どさくさに紛れてしっかり彼女のおしり辺りを撫でていたナスカが、肩をすくめて首肯した。


「ま、オレもそこそこ、やっかいな闘気をコントロールする程度には使えるがな……。カリアスから教わったろ、サイキックについて」


 ナスカの言葉に、ダーンも肩を竦めるしかなかった。


 今となっては、なるほど納得のいくことは多々あるような気がしていた。


 ナスカが戦闘などで――たまに強烈な鞭の一撃を受けた場合も含むが――ちょっとした怪我をしていた時に、ホーチィニが軽く触れる程度で治癒していたのを見たことがある。


 信仰術についての知識がなかったダーンは、これまで、彼女が司祭としての力で彼の治療をしていたとばかり思っていたが。カリアスからの修練をうけ、知識を得た今のダーンならば真実を見抜ける。


 あれは信仰術ではなく、《治癒ヒール》のサイキックだったのだ。


 ただ、自分以外の者に《治癒ヒール》を効果的に使うには、特別な条件が必要なのだが。



――ま、あの二人の仲だし……あえて考えるのもどうかと思うなあ……。


 なんとなく妙な腹立たしさを覚えつつも、ダーンは思考を切り換える。

 再び、人狼の方に視線を向けると、傷付いた戦士も応じるように視線を合わせてきた。


 そして、このあと――。


 おぞましい愉悦を浮かべた、あの赤い髪の悪魔が、誇り高き人狼戦士の魂を穢すのだった。

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