ダーンとリドルが神王級の戦闘を始めた頃――
王宮を飛び出していたステファニーとルナフィスは、首都から東に出た先の海岸線まで辿り着いていた。
「んー……久しぶりに走ったから、愉しかった」
軽い伸びをして、潮風を楽しむステファニー。その隣で、少し疲れた顔を苦笑で歪ませるルナフィス。バイクのパニアケースから取り出した青いジャケットを羽織り、ドレスのため剥き出しの肩が風で冷えるのを防ぐ。
「とんでもない目にあわされたわ……」
ノンストップで走り続けたため、ここまで盛大にスカートの中を大公開してきたルナフィスは、涙目すらなれないほどやつれていた。
「どーせ、誰もいなかったからいいじゃない」
あっけらかんとして、ステファニーが言い捨てるのを、ルナフィスは恨めしい目で睨む。
「んもう! すっかり元気になっちゃって、納得いかなーい」
「フフフッ……それってルナフィスが一緒に来てくれたからかなぁ。ありがとね、ルナフィス。かなり、気分が楽になったわ」
「……そ、そういう不意打ちはホントに上手いんだから、ステフ」
毒気を抜かれ、ルナフィスは苦笑いを浮かべる。
「それにしても……」
ルナフィスは、一呼吸おいて周囲を見渡す。その視界には、ステファニーの他に誰もいない。日差しは正中を超え、気温としては最も高くなる時間帯だ。
アーク王国の首都周辺は、北半球の温暖な地域である。今日も、初夏の暑さに汗ばむ陽気なはずだが、バイクの走行風を二時間近く受けていたせいか、ルナフィスは肌寒さすら感じていた。
「アンタと私だけで、こんな風に飛び出しちゃって、良かったの?」
ルナフィスの指摘に、ステファニーも肩をすくめる。
「今頃、親衛隊が大慌てかもね」
「……お気の毒に」
「あ。形的には、ルナフィスが王女を拐かしたことになるのかしら?」
「え? ちょっ……ちょっと、それ、洒落にならないわ」
「冗談よ。バイクで出掛けている以上、あたしが自分で勝手やってることは、みんなわかっているわよ。そして、現在地もね」
意地悪な笑顔で、ステファニーはバイクのコンソールを指さす。さらに、人工衛星を利用した位置情報把握システムがあることを説明するが、ルナフィスにはほとんど理解できない内容だった。
「よくわからないけど、そのバイクの位置は王宮の人達には知られているってこと?」
「そういうこと。それに、王都の近くにいる以上は、そんなに危険も無いわ」
「どうして?」
「お父様がいるからよ。ルナフィスだって、感じたんじゃない? 腕のたつ人ほど、お父様の恐さがわかるみたいだけど……」
「あー、なるほどね。確かに、あの存在感と強さはそれだけで抑止力ね。位置もわかってるなら、即座に陛下がすっ飛んできて、敵を殲滅ってことか」
「今回は、そうは……いかないみたいよん」
不意に、美しい声色であるにもかかわらず、身の毛のよだつ不気味な印象を与える『声』が、あたりに響く。
ハッとするルナフィスは、先程感じていた『肌寒さ』の原因に気が付いた。これは、微弱に漂ってきていた《魔力》のせいだ。先程の声とともにあたりには、膨大で濃密な魔力が溢れ始める。
ルナフィスの視線の先で、異界の魔神、リンザー・グレモリーが、虚空に穴を穿ちあらわれた。
そして、魔神が現れた瞬間、周囲の空間が歪み、一瞬であたりは月のない夜へと変貌する。
魔力がしみこんだ大気には、冷たく濃密な悪意と蔑みに満ちていた。
「グレモリー? くっ……」
濃密な魔力にあてられて、ルナフィスは全身に不調をきたしていた。昨日の湖上での対峙でも明らかになったが、現在のルナフィスは、魔力への抵抗力が極端に低下しているのだ。
「まさか、ここで貴女が来るなんて……」
ステファニーも少し慌てて、バイクのコンソールにある『緊急通報ボタン』を押下した。
「んふふふふ……どうせその信号、ここから王宮には届かないわよぉ。ここは、私の得意とする具象結果『魔夜の刻』の中。外にも中にも、干渉はできないから理力通信波も届かない。……そもそも、貴女のお父さま、今は世界と隔絶した所にいるみたいだしぃ」
これまで、アーク王都とその周辺にいれば、否が応でも感じていた圧倒的な存在感は、少し前から全く感じなくなっていたと語るリンザー。それは、ケーニッヒが展開している防護結界が、外界との遮断を行っているからであるが、それはつまり、リドル自身も外の異常を察知できないということになる。
「そ、それでも……王宮は異常に気がつくわよ。位置情報の通信が途絶えるはずだから、きっと今すぐにも、こちらに一個師団が向かっているはず。援軍が着くまでくらいは、私達でもなんとか……」
「それは無理よ、お姫さまぁ。貴女たちの今の戦力じゃ、時間稼ぎもできやしないのよぉ」
ステファニーの言葉を遮って、リンザーは愉悦に口角を吊り上げた。
「ば、バカにしないでよッ! 剣が無くても、サイキックは使えるのよ?」
ルナフィスは、激昂して言い放つと、意識を集中し始める。そして、咄嗟に浮かんだ氷の矢のイメージをサイキックで現実に顕現させようとしたところで――
「きゃあああああああっ」
突如、ルナフィスが悲鳴を上げ、頭を両手で抱え、掻きむしるようにする。
「あはははッ! 残念でした、ルナフィスちゃん。既に貴女たちのサイキックに対する対抗措置は施してるのよぉ。設定したいくつかの脳波に対して、徹底的なジャミングをかけるというね」
蔑みを込めた高笑いをするリンザーに、酷い頭痛でまともに立つことすらできず、涙目で怨嗟の視線を送るルナフィス。魔力に対して抵抗力が無い上に、この頭痛では、まともに闘えるわけがない。
「この感覚……そう、か、貴女ね、私が転移の門を使ったときに、システムに割り込んできたのは」
ステファニーの言葉に、リンザーは目を細めて首肯する。
「貴女たちの脳波に干渉して脳内演算をジャミングするくらい、魔の扱いに長けた私には、造作もないことよん。さあ、どうやって料理してあげようかしら」
獲物を狙う獰猛な視線。舌舐めずりして全身を睨めてくるリンザーに、ステファニーは悪寒をおぼえ身震いする。
「き……気色悪い目で眺めないでよッ」
「あーら、嫌われちゃったわねぇ……んふっふっ……」
「あたりまえでしょ!」
「この性悪女!」
苦しむルナフィスが、罵声を浴びせかけるが、リンザーはさらに魔力を放出し、ルナフィスへの妨害波長を強めた。
「うっ……ぐ……ぁぁあー」
呻いて、自らの胸を抱くルナフィスは、そのまま苦しんで膝をついてしまうと、たまらず嘔吐する。
心臓のあたりを掻きむしりたい不快感。濃密すぎる魔力の影響で、心臓に負荷がかかり、止まりかけているのだ。
「ルナフィス!」
慌てて、ステファニーがルナフィスの介抱のため近付こうとする。そこへ――
「あらぁ、お姫さまはこっちよぉ」
リンザーから少し視線を外した隙に、背後に回り込まれ、紅い紐のようなものに絡め取られるステファニー。
「なっ……ちょっと! 離してよ!」
咄嗟に、絡みついた紅い紐に風の刃を放とうと、ステファニーはサイキックのイメージをする。その瞬間――!
「っかは……」
全身に電気が走ったかのような鋭い痛みに、ステファニーはその場で不自然に硬直し、そのまま昏倒する。
「んふふんっ……バカねぇ、貴女が一番のターゲットなんだから、罠が張ってあるに決まっているでしょぉ。きゃははははッ」
耳障りに甲高い笑い声を上げて、リンザーは、紅い紐で幾重にも結い上げ、昏倒したステファニーを捕縛する。それを視界に入れていたルナフィスは、青ざめた表情のまま、歯を食いしばって立ち上がった。
「ま、待ちなさいよ……ステフを離し……くはっ!」
「あー、アンタはいらないから、そこで地面に汚いシミつくっていればぁ」
必死に立ち上がり、自分に鋭い視線を向けてきたルナフィスに、リンザーは背後から短剣で突き刺していた。
「ぐ……ぁ……なんで……?」
正面にいるはずのリンザーが、間合いの外から空間に短剣を突き刺したのは、ルナフィスにもわかっていたが、その短剣が自分を背後から貫いているのがよくわからない。自分の胸元から飛び出た、血に濡れた鈍色の刃を見下ろし、ルナフィスは吐瀉物の混じった血糊を吐いた。
リンザーがやったのは、魔法で自分の前に空間的な穴を開け、その穴の先をルナフィスの背後に設定し、そのまま短剣で空間のトンネルを貫いただけだった。周囲の魔の気配が、あまりに濃密で、抵抗力のないルナフィスは、その魔の気配を疎んで、なるべく感知しないようにしていた。そのため、自分の後ろに空間のトンネルができあがっていたことを気付けなかったのだ。
「クックク……一応、即死するような急所は外しておいたわよぉ。これも、しばらく私の元で働いていたことへの配慮だから。一番苦しい、肺に穴を開けてあげたけど、この後じっくりと死を愉しんでねん」
「う……ぐぅ……」
呻くルナフィスに、さらに追い打ちとばかりに、リンザーは手元のカードを周囲にばらまいた。そのカードは、若干厚い紙で出来ていて、表面には異形の亜人達が描かれている。
「最後の遊び相手を用意してあげるわ。とーっても元気で、雌なら他種族であろうとも、子種を植え付けたくて仕方がないという、逞しいぃ男の子達よぉ」
愉悦に口角を吊り上げ、リンザーはばら撒いたカードに魔力を撃ちこむ。すると、カードの絵柄が光り、その場に緑や紫と言った毒々しい肌の亜人達が、次々と実体化していく。
カードには、これら亜人を魔法により仮死状態で封じ込めていたようだ。
いくつかの種類があるようだが、これらの亜人は、知能がそれほど高くないが、精力に満ち、繁殖能力の高い異界の化け物達である。
「魔界では、最下層の住人というか、害獣に近いけど、こちらの世界じゃ、この子達はいないみたいだし物珍しいでしょ。んふっ……ここには誰も入ってこれないから、せいぜい死ぬまでたっぷりと可愛がってもらって、最期に女であることを楽しんでね。アハハハハハッ」
魔夜の刻と呼ばれた結界をそのままに、リンザーは高笑いを残して、捉えたステファニーと共に紅い煙となって消えた。
血糊を吐いて、大地に伏したルナフィスが、絶望の色をその顔に浮かべる。その紅い瞳に、彼女を取り囲む亜人達の醜い姿が映り込んでいた。
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