耳元に暖かな風が時折あたり、髪を丁寧に梳かされる感触に、ルナフィスは少し気分がよかった。
ステファニーと一緒に、王室御用達の温泉にてかなり長湯したルナフィス。今は、風呂上りのパウタールームで、ステファニーと一緒に彼女の専属の女中達 《チェリー・キャッツ》に、取り囲まれていた。
当初は、下着姿で化粧台に座らされることになり、さらにスキンローションなどを塗りたくられて、羞恥のあまりに悲鳴を上げそうになったルナフィスだが。ステファニーが隣で同じような目にあってても全く動じてなかったので、なんとなく対抗心から平静を装うことにし――ものの数分であまりの気持ちよさに身も心も委ねたい気分になっていた。
まさしく、お姫様気分を味わえているのだから、ご機嫌なのは是非もない。なされるがままスキンケアが終わり、そのまま、へアセットやメイクアップを女中達がしてくれていた。
素直にメイクアップを受けて、王室御用達の化粧水や一流のメイク技術に、乙女らしく気分が華やかになっていた。
そんなルナフィスの姿を横目に、ステファニーも少し嬉しそうに笑っている。
「……それにしても、子供のくせに生意気なところあったのね、ダーンのヤツ」
ルナフィスは、正面の鏡に映る自分自身を眺めつつ、ステファニーの語った幼い日の思い出話に対する感想を述べる。必要以上にぶっきらぼうに言ったつもりだったが、その声は新しいおもちゃを買って貰った子供のそれに似ていた。
「同じく剣士の立場としてってことかな? あたしとしては、剣士目指してる子供はみんなそんなもんかと思っていたけど……」
ステファニーは、鏡越しにルナフィスを見ながら言う。そのルナフィスだが……先程、女中カルディアが持ってきた、仕立ての新品ブラジャーを身につけてからというもの、特にご機嫌だ。ちなみに、その第一声は、「谷間が……」だった。
今も、やたらとご機嫌なのは、その一言と関係はあるんだろうなと、ステファニーも察してはいる。カルディアの仕立て技術は、彼女自身も認める一級品なのだから。それを身につける女性がもっとも理想的な美しさと、それでいてストレスのない肌着を作り上げてくれるのだ。
「私は特にこれといって剣士としての理想を追い求めてはいなかったけどさ。それにしても、いい女を護るためとか、ませてるわ」
ルナフィスの言葉に、ステファニーも苦笑するが、その苦い微笑の裏には、ダーンのことだけではない事情もある。
なにせ――
「あ! そうか。ははーん」
ルナフィスが何かに閃いて、鏡越しにステファニーを訝しげる。
「な、なによ?」
「んー、目玉焼きすら出来なかった世間知らずのお姫様が、随分と進歩したものねぇ? 七年後には、プロのシェフを超える腕になっていたんだものねぇ」
ルナフィスの言葉に、ステファニーが肌を紅潮させて俯いた。
「そ、そ、そんなんじゃ……。あたしだって自立したかったから、最低限の技能は欲しかったというか……だから……」
「はいはい、ご馳走様。それにしても、そんなに色んなことあったのに、ダーンはあんたが王女だとか、そもそも会ったことすら忘れてるの? なんか変じゃない」
「それは……。ダーンのせいじゃないの。あの晩餐会の後にね……アイツが襲ってきたのよ」
ステファニーは、さらに七年前のアテネ王宮で起こった事件について語る。それは、これまで話してきたように彼女が見た過去の記憶。
そう、彼女も七年前のアテネで起きた全てを知っているわけではない。例えば、彼女がダーンと夢を共有していた間に、リリスが魔界の大魔神アガレスと闘っていたことや、ミリュウと漆黒の騎士ジーンとの戦闘も当然知らないことである。
それでも、晩餐会の終わり際に起こった事件、漆黒の騎士ジーンの突然の襲撃は、まさに彼女とダーンが経験したものだった。
そのジーンと戦闘したのは、幼い頃のダーンであり、その剣戟戦はある程度知識がある今の彼女からしても、凄まじいものであった。
その結果――
「ダーンはね、力を抑えきれなくなってしまったらしいの。それで、封じたの……あたしの父とあの人が……彼の力の根源と記憶を」
☆
涼やかな風が、入浴後の火照った体を心地よく冷やしていく。アークの首都ジリオ・パレスも、今は初夏の季節を迎えており、昼時に近い時間帯であれば汗ばむ気温だ。しかし、ダーンが国王リドルに連れられてきたこの場所は、とても涼やかだった。
「凄い施設ですね」
浴衣姿で涼むダーンの声が、人口の滝が生む轟音に溶けていく。
「ん? まあ、俺が作ったわけじゃないがな。首都の外縁の山脈から直接地下水脈を引き込んで、ここに流させている」
リドルは手にしたグラスの中身を口にしつつ応じる。それは人体に水分補給するのに最も適した電解質を配合したスポーツドリンクだ。ダーンも同じモノを手にしている。そのグラスの表面に、白い水しぶきを上げる光景が映り込んでいた。
アーク王宮の中庭に位置するその場所は、王宮の建物から僅かにせり出したバルコニーだ。その場からさらに外には、高さ十メライ(メートル)、横幅にして三十五メライに及ぶ人口の滝が存在していた。
その庭園は『王の水辺』と呼ばれ、何代も前のアーク王が手間暇をかけて作り上げた、水をテーマにしたものだ。
大量の地下水を引き込んで、大理石の棚状の水路から、池に向かって滝を形成しており、高さは十五メライ(メートル)を超える程度だが、水の落下する滝は横に幅広く、三十メライ以上の幅で、白い瀑布のカーテンを形成している。
立ち籠める水しぶきはマイナスイオンを発生させて、涼やかな景色を演出していた。
「こんな贅沢な施設があってもな……」
ダーンの着ている物と同じような浴衣を身につけたリドルは、自嘲気味にグラスの中を覗いて呟く。ダーンが次の言葉を待つと、リドルは、静かに吐息し続ける。
「世界最大の利権というのは、本来この王国全てに帰する。それを王家の者だけがさも独占しているかのようでな、俺はこのような施設があることに疑問を感じているのさ。それでいて、こうして風呂上がりに来てみると気分いいのだから、全くもってどうしようもないことだ」
リドルの言葉に、ダーンは一瞬どう返そうか思考する。
世界最大の利権を持つアーク王家。この世界において、それは子供に至るまで知れ渡る事実だ。
たとえ、ソレを手にしている張本人が否定しようとも、世界が認める『事実』は変わらない。
そして、おそらくは世界の認識が誤りであり、リドルの認識が正しいということも、ダーンにはなんとなくわかっていた。
「僭越ながら……王は権威を国民に、世界に示さなければならない義務を負うと、義父・レビンから聞いたことがありますが……」
ダーンは、育ての親レビンの言葉を借りることにして、リドルが言わんとすることを察する。そのせいか、リドルがニヤリと破顔した。
「レビンの奴は、その義務から見事に解放されたがな。彼奴め、うまくやりおって」
かつての戦友、四英雄の一人レビンは、本来ならばアテネ王となるべき第一王子だった。それが、先の魔竜戦争の最中に、王位継承権を手放すことになったようなのだが。
ダーンは、その経緯を知らされてはいなかった。それは、実の息子であるナスカも同様のようだ。
「何があったんで……」
「それは、俺からは言えんな。だがまあ、あの戦争で色んな事があった。いくつもの伝統ある国が消滅し、あらゆる価値観が崩壊してしまったんだ。それぞれの事情を他人が安易に語れるものでもない」
リドルは、人工の滝に視線を据えたまま吐息する。ダーンには、この国王の胸の内全てがわかろうはずもないが、魔竜戦争というものが、人類世界にとって、知っていた以上に爪痕を残したことは感じ取れていた。
ダーンが何も言わずに佇んでいると、リドルは肩をすくめて、自嘲気味に笑う。
「少年、先程の話だがな……お前はどこまで思い出せたのだ?」
リドルの問いに、ダーンはビクリと肩を震わせた。グラスを持たない左手がキツく握られて、拳が微かに軋む。
「陛下、あの日に黒い甲冑を纏った男が、襲撃してきたことはなんとなく……。以前から、ことあることにあの夜のことは夢に出てきていたんですが……」
記憶の欠落からくる、不快感と微かな頭痛。それでもハッキリと脳裏に浮かぶのは、あの琥珀だ。
「ふむ。やはり、ほとんど封印が解けかかっているか。……俺がソルブライトと供にお前の記憶と神魂に施した封印がな」
リドルの言葉を聞くと、いきなりダーンに鋭い頭痛が襲った。たまらず呻いて、ダーンは頭を押さえる。手にしていたグラスが床に落ち、ガラスが砕ける音があたりに反響した。
「いいだろう……晩餐会が終わったら、さらに話をしよう。少し休むがいい。……ん?」
リドルは、何かの気配に気付いて、視線をバルコニーの出入り口に向ける。
「どうやら着いたようだな。後ほど、お前達とも久闊を序するとしよう」
リドルの言葉と視線につられて、ダーンはバルコニーの出入り口を覗うと――アテネ王国にて別れた義兄とアテネの聖女が、こちらに歩いてきていた。
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