気を失ったダーンとステファニーを見下ろし、リリスは軽く溜め息を吐く。
二人はダーンが下で受け止める形で、ステファニーの頭が彼の胸に乗っていて、よく見るとダーンの左手とステファニーの右手が指を絡めるように繋がれていた。
「ちょっと、いやらしい気もするけど……ま、まあ、いいわ」
仲良く抱き合って眠っているようにも見えるので、リリスとしては面白くないところもあるが、二人がここで気を失うことはあらかじめわかっていたことだ。
リリスは、一度深呼吸するかのように大きく溜め息。
羽織っていた薄手の外套を、二人にかけてやる。
「さてと……」
リリスは石筍の方に視線を向けると、そこにあるステファニーの月影石に変化が訪れていた。
石筍の周囲に照り落ちた月の光を、巻き取るように吸収し始めている。黒い石は少しずつ輝きを持ち始めていた。
そこへ、リリスが手をかざし――
少女の白い指先から、強烈な紫電が石筍へと走った。
周囲に響く轟音。大気中の分子を崩壊させてイオン化しつつも、ほぼ一直線に横へ走る稲妻は、凄まじい指向性と電圧をかけられたものだ。
その膨大なエネルギーを、石筍上の月影石が瞬時に吸い取る。
「あとは……お兄ちゃん達次第だよ」
首だけ振り返り、緋色に輝く瞳をダーン達に一度向けて、リリスは微笑む。
そして――
「そろそろ出てきてもいいんじゃない? 趣味の悪い異界の人」
地底湖の奥、差し込む月光が届かない暗がりに鋭い視線と、九歳の少女とは思えない敵意を向けた。
地底湖の奥、暗闇の中から嗄れた声が響いてくる。
「ヒッヒヒ……どうやら、ただの小娘ではないのぉ。神霊の転生体か?」
あたりに寒気を催す濃密な瘴気を吐き出しながら、その異形はのそりと地底湖の湖面を歩いてくる。巨大な黒いワニと、その背に乗った老翁が闇から姿を現した。
「ま、そんなとこ。お爺ちゃん、異界の神様みたいな人かな?」
常人ならば恐怖に戦慄し、正気を失う規模の瘴気を受けても、リリスは涼しい顔で、近所を歩いていた老人に話しかけるような素振りで話す。
「ヒャッヒャッ……今宵は驚くことばかりじゃの。ワシの姿を前に平然としておる人間に二人も出会うとはな」
「二人?」
「いやぁ、こちらの話じゃて。ああ、わしのことじゃがな。おまいさん達のいう異界とやらの住人じゃが……神様というのはいささか性にあわんの。……魔界の東方を支配する魔神というのはどうじゃ?」
「魔神……。そう……貴方達は自分の世界を《魔界》と呼ぶのね」
「さて? 誰が最初に呼んだかは知らぬがの。魔に満ちた世界という意味で、魔界と名付けたようじゃが」
『……大陸が違えば、魔ではなく聖氣に満ちた世界だがな』
リリスの意識に、別の男の声が響いてくる。その声の主に、『今は黙ってて』と念を送りつつ、リリスは緋色の瞳を老人に鋭く向けた。
「ステフ……そこの女の子に用があるみたいだけど、何が目的? 魔神とか、こちらの世界と関わりない貴方が、まさかステフをアーク王女だから付け狙うわけないよね?」
「……小娘、悪いことは言わん。早くここから立ち去るがええ。いかに神霊を宿すとはいえ、ワシが相手ではの」
リリスの質問には答えずに、老人は瘴気を強め、さらに凄まじいほどの殺気を放つ。
「ふーん……話す気ないんだ……。あ、悪いけど、この子は私の友達なの。絶対にお爺ちゃんには渡さないよ」
リリスの周囲、大気中の分子が崩壊しプラズマが走り始める。金髪のツインテールには紫電がスパークし、緋色の瞳はその輝きを増していく。
「ヒヒヒッ……やる気かや。手応えはありそうじゃが……」
嗄れた声で笑う老人に、リリスは先制攻撃とばかりに、手のひらから紫電を放つ。
地底内に轟音が走り、あたりの暗闇がフラッシュライトを浴びたかのように強烈に照りつけられた。
そのプラズマの奔流は、自然の落雷とは比較にならない威力だった。
だが――
老人はワニの背に座したまま、左手に持っていた長い杖のようなもので迫る紫電を難なく受け止める。杖には禍々しい瘴気が渦巻き、受けた紫電をその渦に巻き込んで、杖の先端が触手のように伸びて大地へと突き刺さり、電流を大地へ逃がしてしまった。
「確かに凄まじい電撃じゃが……相手が悪かったの」
ほくそ笑む老人は、再び嗄れた声で笑い、さらに瘴気を禍々しくしていく。その魔力のあまりの大きさに、大地が恐れおののくかのように揺れ始めた。
「大地の……導雷接地魔法」
「左様じゃ」
リリスの呟きに、老人は口の端を吊り上げ答える。
『ふむ……。大地に縁がある魔神、その異様なワニ……。なるほど、東方の大公爵と名高い魔神アガレスか。となるとリリスよ、奴にはこの程度の雷撃は効果がないぞ』
再びリリスの脳裏に響く男の声。念話というサイキックを用いた通信手段で、ほとんど盗聴されることのないものだ。
「さて……攻撃を受けたからには、小娘といえども容赦はせぬよ。神霊の転生とはいえ生身の様じゃしの……此奴もさぞ喜ぶじゃろうて」
老人――魔神アガレスは目を愉悦に細めて、跨がっているワニの背を撫でた。主人の言っていることが理解できるのだろう。巨大なワニはその凶悪な顎を開いて、少女を威嚇する。既に幼い肉体にかみつき咀嚼することに興奮し、粘った唾液を溢れさせていた。
「……はあ。さっきからやたらと、小娘小娘とちょっとイラッとするんだけど。私はリリス。リリス・エルロ・アルドナーグよ。それから……おいで、ナイト」
リリスの声に応じて、どこからともなく狼の遠吠えが聞こえてくる。その声に震えたかのように、リリスの背後に空間がたわんで、亀裂が走った。
空間の亀裂から……白銀の、クマのように大きい狼が姿を現す。そのままゆっくりと歩いて、リリスの前に寄り添うように四肢で立った。
銀の狼が現れた瞬間、対峙するアガレスの顔色が変わる。
「その神気……もしや北方の四島王国に住み着いたという神狼か?」
「なに? アンタ、あっちじゃ有名なの? 駄犬のくせに」
アガレスの言葉に、からかうような口調で目の前の銀狼に言葉を発するリリス。
『我を犬扱いするのは、お主くらいのものよ。……まあ、いくらか暴れたせいでそれなりに認知されておるようだが』
銀の大狼は念話で話しつつ、牙を剥いてワニやアガレスを威嚇する。先ほどまでリリスを捕食しようと興奮していた巨大なワニは、気圧されるように顎を閉じてしまっていた。
「……クカカッ。いやなに、確かに驚いたわ小娘。しかして、それでなんだというのじゃ? ワシをなめるでないわッ」
アガレスは恫喝すると、ワニの背を杖の先で叩き、鼓舞するかのように魔力を膨大に放出した。
跨がったワニの瞳が不気味に紅い光を放ち、鱗の一枚一枚におぞましいほどの魔力がいきわたると、再び顎を開き牙を剥く。
耳障りな咆哮があたりに響いた。
「別になめてないわ……でも、確かにこれ以上電撃強くすると、ステフ達が黒焦げになっちゃう。いいよ、ナイト。『アレ』をしてあげる」
『……本当に良いのか? なんなら我がこの場をなんとかしてやってもよいのだぞ』
「……今さら? 初めからその気だったくせに。いくよ、神王の眷属、銀の神狼ナイトハルト! 私の雷鳴にその偉大なる咆哮を重ねよ!」
『御意!』
銀の神狼は念話で力強く答えると、再び高く遠吠えをする。
その雄々しき咆哮に合わせるように、緋色の瞳を輝かせた少女は、高らかに契約履行の力ある言葉を発した。
「――獣化融合!!」
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