“それは無尽蔵に《陽》を吸い尽くす虚無の扉――”
微かなカビの匂いが漂う古書に記された一節。
ステファニーは、午前の半ばにミリュウが淹れてくれた紅茶をほとんど楽しむ余裕もなく、手にした黒い石を玩んでいた。
手にしていても決して温まることのないその石。
――《陽》って、蓋然的過ぎる表現だけれど、つまりは、プラスのエネルギーの全てということか。握っていようと温まることのないのは、熱という陽のエネルギーを吸い尽くすからね。
先ほどリリスに案内されて、アルドナーグ家の図書室で読んだ古書、それに記載されていた《月影石》に関する内容は、ステファニーにとって興味深いものだった。
記載されていた内容を抜き出して要約すると――
かつて惑星の創生期に外宇宙から飛来した巨大隕石が、この惑星と衝突した。その後、二つに別れて今の月の原型となるのだが、その際、惑星の地殻に残った月の一部が、衝突時の高温高圧でダイヤモンド化したものがこの《月影石》なのだという。
通常のダイヤモンドとの差違は、まさに先ほどの一節。
触れるもののありとあらゆる陽のエネルギーを吸収し、光さえも反射することなく吸収してしまうため、いくら磨き上げても輝くことはない。
また、アーク王家とのかかわり合いについては、初代国王アルカードが、この石をとある方法で淡い緋色に輝かせて、后となる少女に贈ったことが由来するようだ。
その輝かせる方法というのが――
「ステフ、どうするの?」
凜とした少女の声で、ステファニーは顔を正面に上げた。
アルドナーグ家の談話室、向かいのソファーに金髪ツインテールの少女が、微かな笑みを浮かべこちらを覗っている。
「確かに興味はあるけど……」
ステファニーは戸惑いがちに応じて、少し冷めた紅茶に口を付ける。
「でもさ、すぐ近くにあるんだから、とりあえず行ってみない?」
エメラルドグリーンの瞳を好奇心に輝かせて、リリスは前のめりに言ってくる。
リリスの言う『この近くにあるもの』とは、古書に記されたある儀礼場所のことだ。
アルドナーグ家がある南側の岬、そこに存在する《神龍の寝所》と呼ばれた鍾乳洞。
アテネ王国の観光名所の一つとなっているようだが、海岸線に隆起した地殻に出来た鍾乳洞で、入り口と出口がU字型に繋がっているらしい。
古書には、この鍾乳洞の奥にある《月光の雫》という場所で、アルカードが《月影石》にまつわる儀式を行ったとある。
ただし。
「月が南中する時間帯に、しかも一般公開されていない場所なんでしょ」
ステファニーの言葉に、リリスが少し小悪魔的に笑む。
そう、問題の場所は、観光地として一般公開されていないU字型の奥に封じられた最奥部分だ。
公開されていないのは、内部の構造が険しい斜面になっていて、気軽に立ち入ることが出来ないからだった。
「ステフにとっては、お母さんから手渡された大事な石でしょ? その秘密を解き明かすのは、今回しかないんじゃないかな。こっちでの滞在期間が終わったら、またアーク王宮に帰るんだし」
リリスの言うとおり、ステファニーは、今回のアテネ王国滞在中くらいしか自由な時間はない。
これまでも王宮では箱入り状態で、ほとんど外出したことがないくらいだし、アテネ王国に再び訪れることはまずないだろう。
そして、母に手渡されたこの石が何なのか、どうしても知りたいところでもある。
この石を自分に手渡した後、その意味をしっかりと説明ないまま、当の母は『里帰り』をしてしまった。
遠い遠い『国』へ。
父親のリドルくらいしか立ち入ることが出来ない、特殊な『国』へ。
死別したわけではないのに、母とはいつ会えるのかもわからないほどに、長い年月を会えないと説明されていた。
その母が自分にわざわざ置いていったものなのだ。
古書にも意味深に記載されている曰く付きの石であるならば、なおのこと。
しかしながら、最近の月齢的には、月が南中するのは深夜に近い時間帯だ。
危険な場所に深夜少女達だけで立ち入るのは、やはり無謀すぎるだろう。
「やっぱり、あたし達だけじゃ危険だし……」
「そうだね、私たちだけだと……ね」
ステファニーの言葉をオウム返しにしつつも、リリスはその言葉に含みを持たせて、視線をステファニーの左後方に流した。
その視線を追って、ステファニーが振り返ると──
「は?」
少々気怠そうな少年の声。
二人の少女の視線を受けて、蒼髪の少年剣士はいやな予感を持ち始める。
「護衛役がね、とても優秀だから大丈夫よ」
問答無用に、リリスが言い放つ。
「いやいや……。いくらソイツの護衛役だからって、そんな馬鹿げた夜遊びに付き合ういわれは……」
ダーンの『ソイツ』呼ばわりに、眉根を吊り上げるステファニーだったが、ここはひとつ我慢をすると――
「ダーンお兄ちゃん、ステフのパンツ見たんだってね」
まさかの爆弾発言に、せっかく飲みかけた紅茶で咽せてしまうステファニー。だが、その彼女以上に動揺していたのはダーンだ。
「……うぐっ! あ、いや、それは俺のせいじゃ……」
「ダーンお兄ちゃんの剣戟で生まれた突風が悪さして、めくれあがったスカートの中身をダーンお兄ちゃんの目がガン見したんだよね」
――ガン見? って、めちゃくちゃしっかりと見たってこと?
金髪ツインテールと蒼髪少年の会話が、箱入り娘のステファニーには、少々刺激が強く羞恥で顔がみるみる赤くなっていく。
「た、確かにその通りだが、そもそも勝手に訓練中の……」
「剣術訓練中は、出入り口は閉めなきゃだったよね?」
「くっ……」
「ナスカ兄に聞いたけど、最後に道場に入ったのは、ダーンお兄ちゃんらしいね?」
もはや、ダーンに呻き声をあげることすらできない状況だったが、そこにトドメとばかりにリリスは言葉をつなげる。
「アルドナーグ家の男児たるもの、四の五のいわずに女性を守護する剣であれっていうのが、お父さんの口癖だったけど……。外国からきた大切なお客様に無類の恥をかかせたというのは、随分と大きな借りになるね、ダーンお兄ちゃん」
当事者の二人がそれぞれ狼狽するなかで、リリスは屈託なく輝く笑顔であった。
☆
今夜午後九時以降に、ステファニー、リリスとダーンの三人でこっそりと家を出る約束をし、リリスは談話室から出て自室に向かう。
一階部分の南側に位置するその廊下は、採光率のよいガラス張りの掃き出し窓で、外の庭園が自然と視界に入ってくる構造だった。
その廊下を歩くリリスの脳裏に、直接威厳ある男の声が響いてくる。
『なかなかの手腕だな……見事かの娘と少年をあの地に連れ出しすとは』
聞こえてきた声に、リリスはほんの僅かに眉をひそめてみせたが、返事せずに自室へと向かう足を止めない。
『フフ……それにしても……。初めはあれほど嫌っているようだったのに、どういう風の吹き回しかな? まさかあの土産として渡された菓子のせいでもあるまいが……』
「うるさい……駄犬」
リリスは小さく悪態を吐いて、以降は声に出さずに心に念じるように会話し始める。
『チョコレートは確かにおいしかったけど、あれは単なるきっかけよ。あの子、アークのお姫様であることに縛られているけど、ちゃんと自分の道を模索しているの。それがあの箱に残っててわかっちゃったから、愛おしくなっちゃった……悪い?』
時折、人が持つ物にはその思念などが移って残存することがある。それは、その物の所有者の強い想念が物体を媒介し《波動》として記憶される現象だ。
ステファニーがお土産として大事に持ってきたそのチョコレートの箱には、彼女の強い思いが残存していた。
王女としての責任と義務。
初めて赴く異郷の地に対する期待と不安。
他人に強制されない本当の自分自身を見いだすためにも。
だからこそ――
短い旅であるけれど、とても大事にしたいから。
お世話になるアテネの人へ、贈り物を――
気に入ってくれれば、とても嬉しい。
それは微弱な残り香でしかなく、当然並の人間には読み取るどころか察知すらできない。
極めて特殊で鋭さを誇る感応力をもったリリスだから、手にするだけで読み取れてしまった彼女の想いだった。
『……いいや。それがあの一瞬でわかることが、我としては末恐ろしいが。さすがは雷神王の転生者よな』
『その言われ方は気に入らないわ! 私は私、リリス・エルロ・アルドナーグなの。雷神王とか確かにその力と知識を認めているけど、それと私のアイデンティティは別よ』
『ふむ……。それは失礼した、リリスよ。言われてみれば確かに我の失言だった』
『わかればいいよ、ナイト』
『そのこととは別にな、忠告だけはさせて貰うぞ。妙な気配を感じる。未整備の鍾乳洞というだけでなく、なんらかの悪意が入り込んでいるやもしれぬから心せよ。万が一の際は……』
『……わかってる。でも、《ソレ》をするのは正直まだ踏ん切りが付けないからね』
感情の昂ぶりで、瞳を緋色に染めながら、リリスは快晴の空を見上げるのだった。
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