ここからは、七年前のお話になります。
黒く冷たい石――
年端もいかない少女の手の中で、それは、触れるものの肌の熱を奪い、差し込む光のほとんどを飲み込むかのように、ただ冷たく黒くあった。
「ステフ、そろそろ入港の時間だ。多少なりとも揺れるやもしれんから、座っていなさい」
手の中の冷たさにそぞろとなっていた少女は、よく耳にしてきた中低音の男声に、ハッとして視線を上げた。
年の頃は十を過ぎた程度の幼さが残る面持ち。
同世代の子供たちと比較すれば明らかに日に焼けていない、白く透き通る肌。
視線を上げた拍子に、背中まで伸びた癖のない髪がかすかに揺れて、その部屋の天井から差し込む理力ライトの光を散らす。
その髪は濡れたような漆黒。
さらりと背に流れたその黒髪は、つい触れたくなるような艶やかさであったが、その漆黒さ故にどこか嘘を秘めているかのようだ。
対して――
少女のその瞳の琥珀は、偽りのない輝きを宿している。
白い絹のワンピースに包むその肢体は、細々としていて幼さを残しているが、にわかに女性らしさを芽生えさせていた。
アーク王国第一王女、ステファニー・ティファ・メレイ・アークは現在齢十歳。
父・リドルとともに、このたび新たに建造された最新鋭大型旅客船 《レイナー号》の就航式典のため、アテネ王国に向かう途中だった。
今回乗船している《レイナー号》は、アーク王国と同盟国アテネ王国との空中航路を航行する大型の大陸間航行型飛行旅客船だ。
同盟国とはいえ、惑星の裏側に存在する両国は、国の重鎮や貿易商人などの行き来は盛んでも、市井の者たちの行き来はほとんどなかった。
それでは真の国交とは言えない。
この事態を打開すべく、このたび両国が協力して建造したのがこの《レイナー号》である。
これまで、海路と陸路を何日もかけて行き来していたものが、《レイナー号》ならば一日で済んでしまうのだ。
その乗船料は確かに高いものだったが、従来の海路と陸路を乗り継いでの渡航は、移動日数と旅費がかさみ、旅行者は職も長らく休む間に失ってしまうというリスクがあることを考えれば、はるかにマシになる。
気軽に……とまではいかないものの、このレイナー号の就航によって両国の行き来が急増することは確かだ。
――それにしても……
少女は冷たい石を手のひらに弄びながら思案する。
このように国外に出たことは初めてだが、そういった大事にいつもいるメンバーが一人足りない。
「スレームはホントに来てないの? この船の設計責任者でしょ」
高級ソファーに座したまま、はめ殺しの窓から胡乱気に外を眺めて、疑問というより苦言に近い言葉を吐く。
その少女の姿に、目を細めて眺めていた彼女の父親は、微かに溜め息をもらした。
少女は最近、最愛の妻の美しい面影や素振りに何となく似てきていて、実の父といえどドキリとすることがある。
物思いながら胡乱気に遠くを見つめる際の、右手をあごの下にもっていく素振りなど瓜二つだ。
「……今回のこと、本人も口惜しそうにしていたぞ。まあ、孫娘が原因不明の高熱を出して寝込んでいるとあっては、致し方なかろう」
少女の父――アーク王リドルは、十歳の愛娘が漂わせたまだ蕾みのような色香に、若干とはいえ惑わされかけたことをおくびにも出さないで、独特の威厳ある声をもって応じる。
「ああ……一度だけ王宮に来たあの黒い髪の可愛い女の子ね……。なんかすっごく清楚な感じで、聖女って感じだったけど」
と、そこまで呟いて、ステファニーはふと思い至る。
その聖女のような少女は、自分と同い年と聞いていたが、紛れもなくスレームの血縁者で、孫にあたるという。
「解せないわ……」
通称・色気ババアの異名をとるアーク王立科学研究所の長にして、アーク王国最大の財閥の会長でもあるスレーム・リー・マクベイン。
彼女の人となりを知っていれば、その血縁者がたとえ世代の離れた孫とはいえ、聖女のように清楚とは考えたくないことだ。
「意外と、その清楚な表面の裏に、スレームの孫娘たる本性が隠されていたりしてな……。まあ、お前と同じ十歳の幼気な少女だ。邪推しても始まらん」
「その子のことよりも、あたしはスレームが同じくらいの頃に『聖女』なんて呼ばれてなかったかと不安になったけど……。あっ……というか、それって何年前になるのかな?」
「さあな……考えるだけ無駄な年数にはなるだろうよ。見た目は若作りだが、俺の何十倍生きているか解らん」
リドルが諦めにも似た溜め息交じりに返すと、ステファニーはさらに思案顔のまま話題を転じる。
「そういえば……この前、王宮の図書館で見つけてきた古代王国時代の幻想小説に、寿命が長くて、その上若い時期が長い種族というのが描かれてね。お話は『神の箱庭』っていう感じの幻想的な世界観に、つい取り込まれていしまう感覚がして、思わず時間を忘れちゃうほど良かったんだけど……。ただね、その種族のとある部族の長が、すっごい若作りな容姿の女の人でさ……。なんかついスレームの顔が頭に浮かんじゃって……」
若干言いよどんだ後、ステファニーはその小説に出てきた国の名前や登場人物の名前を挙げてみると、リドルが破顔して応じてきた。
「おー、それなら俺も心当たりがあるぞ。……確か、タイトルは夢と現……」
と、その時――天井の薄型スピーカから船内オペレータである女性の声が、まもなくアテネ王国首都の港に入港する旨を告げた。
「……ふむ。この話はいずれゆっくりとしようか。しかし、幻想小説か……可愛い娘のお前が俺と小説の趣味が一緒とは……パパは嬉しいぞぉ」
「…………。お父様、ちょっとウザいです」
「むうッ……。ツレないな……だが、そんなステフも可愛い……」
「あー、末期だわ」
半目になって何か諦めた視線を向けるステファニーは、妙に浮ついている実の父親を視界にとどめつつ、手のひらに弄んでいた冷たい石をスカートのポケットにしまい込む。
そんなアーク王国の王家二人を乗せた船は、ゆっくりとアテネの海へと着水した。
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