無音――
潜行して隠密航行するその艦は、まさに無音だった。最新鋭の理力科学で開発された防音壁は、機関部の騒音を完全に遮断している。この防音壁は、艦内の至る所に使われており、居住区の隣部屋同士でも、壁を叩いてみたところでその音は伝わらないほどだ。
アーク王立科学研究所が開発した新型潜水艦・アルゼティルス号は、凄まじいまでの静粛性能を有していた。そんな艦内だからこそ、たとえ隠密航行中であっても、乗員は著しい騒音を立てない限り、普段どおりの会話が可能である。
「もうすぐアスカ皇国の領海に入るわ。そろそろ発令所に戻ろうかしらね」
銀をまぶした蒼い髪を指先で弄びながら、少女は手元に置かれたタブレット型端末を見おろした。薄いディスプレイには、艦の現在位置を示す海図が表示されている。
「艦のことは中佐に一任しているんだろ? 領海に入るといっても、君が今の段階で出しゃばるのは良くないんじゃないか」
少女が視線をあげると、その先に蒼穹の如き蒼い髪の男が、革張りのソファーに座って紅茶を飲んでいるのが視界に入った。
その部屋には、彼ら二人きりしかいない。室内は、潜水艦の艦内にある居住区としては破格の広さを誇っていた。
そこは艦内における最高権限者、アーク王家直轄特務隊・戦隊長兼司令官、ステフ・ティファ・マクベインの執務室である。
「んー……まあ、この艦の運用自体は、リーガル艦長に一任してるけど、この後上陸作戦があるでしょ」
「上陸作戦は、領海に入って数日は準備がいるし、そもそもサジヴァルド少佐の領分だろう? ある程度、部下に任せておかないと、ステフ……君自身がもたないぞ」
司令官の名をファーストネームのステフと呼び捨てる蒼髪の男は、紅茶のカップをローテーブルに置いて、ソファーから立ち上がった。すらっと伸びたその長身は、平均的なアーク王国男性を遙かに超える。その体格も、引き締められていたが、紫紺の軍服の下は、鋼のような筋肉が隠されていた。
そして、脇に置かれた赤鞘の長剣は、この男が剣士であることを示している。
「んむー! そんなことくらいわかってるけどぉ。ダーンの意地悪」
ダーンと呼ばれた蒼髪の男は、苦笑いを返す。
「上官が張り切りすぎて自滅……なんて事態を防ぐのも副官の勤めなんでね。ステフは放っておくと、何でも首を突っ込みたがるからな」
直轄特務隊戦隊長の副官を務めるこの男、ダーン・エリン・フォン・アルドナーグは、上官であるはずのステフに対して、随分と遠慮のない物言いだ。二人は、三週間程前から共に旅をして、精霊王との契約や、ステフを狙う異界の魔神と戦ったりといった経験を経て、気心の知れた仲である。
さらには、アーク国王リドルが公認する恋人同士でもあるのだから、上官と副官という堅苦しい関係が二人のやりとりに浮かぶことはない。
そんなダーンから見ていて、ステフは軍務をこなす上で恐ろしく優秀だと感じている。この部隊結成直後、アーク王国を出航して二週間程度が経過していたが、ステフは自ら艦内の各セクションを直に回って、問題点を見つけてはそれを改善してきた。
しかし、各セクションを担当する班長が存在するのだから、彼らに任せておけばいいのだ。
部隊を率いての初の遠征任務ということで、ステフには想像以上の精神的負担もかかっている。あるいは初の潜水艦運用にかかる不安を紛らわすために、あえて招いた激務なのかもしれないが、そんなことをしていたら、その身がもたなくなる。
「うー。やっぱり出しゃばりすぎかなぁ、あたし」
「戦隊長自ら色々と指示してくれることは、割と助かるんだろうけど、頑張りすぎるのは良くないさ。ここは軍組織なんだから、よほどのことがない限り、各部署の担当官に任せて、司令官はここで少し楽をしてろよ」
「ふーん、そうね。じゃあ……上官命令、ダーン大尉は今すぐ私の肩を揉みなさい」
「やれやれ、なんでそうなるかね」
「副官の勤めは、私の精神的かつ肉体的なコンディションを良好に保つことでしょ! 肩がこってるから、副官の仕事ー」
『なかなか横暴ですね』
ダーンとステフの二人の脳に直接念話として言葉が差し込まれる。ステフの胸元に光る緋色の宝玉、そこに納まる神器の意思・ソルブライトだ。
「横暴だよなぁ……」
そう言いつつも、ターンはステフの方へと歩いて行く。
「うるさいわ、二人とも。部屋に閉じこもって書類仕事ばかりしてるから、肩が凝るのよ。で、気晴らしに色々と艦内を見て回れば、ターンが文句言うし……」
ステフは話しながら、軍服の上着を脱いでデスクの上へ無造作に置いた。それをダーンが拾い上げて、背後のハンガーに形を整えて吊していく。
『肩が凝るのは、その横暴なまでの巨乳のせいでは?』
ソルブライトの指摘に、ステフの表情が硬くなる。堅くなった表情とは裏腹に、その下の豊満な双丘は、白いブラウスの中で柔らかそうに収まっていた。
「せ、セクハラ発言は、たとえソルブライトであっても禁止だからね。ここは神聖な職場なんだから」
『その神聖な職場とやらで、今朝方濃厚な接吻をかましていたのは、どこの戦隊長でしたっけ?』
ソルブライトの言葉に、ステフとダーンの動きが固まる。
「そ……それは……コホン。副官が、慣れない軍の執務と狭い艦内生活に、ストレスを抱えているんじゃないかと思って、あたし自らが癒してあげたのよ……その、一応、こ……恋人なんだし」
咳払いし、もっともらしいことを言うステフだったが、なんとなく責任をターンに押しつけた形で、公私混同については否定できていなかった。
「むう……」
ターンは唸るようにしつつも、「今朝いきなり抱きついてキスを迫ってきたの君だよな?」という抗議の言葉をなんとか飲み込んで、彼女の背後に回る。
『なるほど、ダーンのためでしたか。それで、あちこち押しつけるように抱きついて、擦りつけたりしていたのですね。確かにターンはそういうの喜びますからねぇ』
「こ、擦りつけ……し、してない! それはダーンが勝手に触ってきただけなんだからね」
ソルブライトの過激な発言に、ステフが焦って否定をかぶせる。一方、ダーンはというと、少し落ち着かない風で押し黙った。
ソルブライト相手に、こういった話題を話すのは、正直分が悪い。彼女は、ステフの胸元にある神器の中で、客観的かつ最も近い場所にて二人を観測しているのだから。
彼は勝ち目のない争いはせずに、傍観者を決め込んで、ステフの座る執務椅子の背もたれを少し下げた。背もたれに体をあずけずに座っていた彼女の背中が、彼の視界に入る。
白いブラウスの絹地は僅かに汗にしっとりとして、その薄さにステフの背中の肌色と肌着の水色が透けていた。
さらに、ソルブライトとの会話で少し上気した少女の躰から、ほんのりと桜の芳香が立ち上って、いつもの甘酸っぱさが、彼の鼻腔を擽ってくる。
『勝手に触ってきた……ですか。その割に随分と素直な反応でしたが……?』
「そ、そ、そういうのは、あまり言及しない約束でしょー!」
ステフは耳まで赤くなっている。アーク王国軍の大佐である少女は、立場的にはらしくないが、その年齢に相応の情緒で、神秘なる神器の意思に揶揄われるのだった。
『ふふふ、なんだかんだ言っても、その初々しさは抜けませんねぇ。流石は箱入りのお姫様です』
「箱入りとか言うな」
本人は否定しているが、ステフは相当の箱入り娘だ。さらに、アーク王国の第一王女という立場でもある。
彼女の本名は、ステファニー・テイファ・メレイ・アークというのだが、軍属にあるときは、母方の姓名を使った偽名を用いていた。もっとも、この特務隊においては、隊員全員が王女であると知っているのだが。
「そんなに怒り肩になると、肩凝りが悪化するぞ」
ターンは言葉に笑いを含めつつ、ステフの肩を優しくマッサージしはじめた。
「ん……。むぅ……やっぱり巧い」
自分で肩を揉めと言ったくせに、なんだか悔しそうに感想を洩らすステフ。ダーンの指先は、肩のツボを的確な圧力で押して揉みほぐし、時に血行を促進するように皮膚を撫でていく。
「お褒めいただき光栄の至りであります、大佐殿」
茶化しつつ、ターンは丁寧にステフの肩周りをほぐしていった。それは手慣れた手つきだったが、それもそのはず。彼はこの潜水艦アルゼティルス号に乗艦して二週間、このように彼女にマッサージする機会が度々あり、今では彼女の『効くところ』を知り尽くしていたのだ。
「ホント、これだけでもターンをあたしの副官に任命した甲斐があるってものよね」
『……かつて、その手はあらゆる力を凌駕するほどに、最強の剣を振るっていたのですが――随分と堕ちましたね』
「あのなぁ……」
ステフとソルブライトの軽口に、ダーンは苦笑いする。確かに、ほんの二週間前、この手はあらゆる脅威をものともしない剣の境地に至った。
光と時空を超越し、絶対最強の槍使いであり、ステフの父であるアーク王リドルにも、彼はその剣で勝利することが出来た。
だが、紆余曲折があって、今その手で触れている少女を救うため、彼はその究極の力を根底から喪ったのだ。
と、それはさておき、やはり釈然としない気分のダーン。眼下直近には、先程から少し傍若無人な少女の肩や蒼い髪、そこから微かにのぞく白いうなじと、かわいげな耳たぶがある。
無防備に背中を向けて、肩のマッサージにひたるステフは、随分と気持ちよさそうだが、この状況――
――横暴な上官には、それ相応の仕返しを受けてて貰わないとな。
ダーンは少女達に気付かれないように口角を上げると、指先を少女の白いうなじへと羽で撫でるように這わせていく。
「ふぁっ……!」
うなじを下から髪の生え際に向けて、ダーンの指先が優しく撫でてきた。その触れるか触れないかの微妙な刺激に、ステフの肌が粟立つ。
『おや? フフフッ、どうされましたかステフ』
ソルブライトが含みのある笑みを念話に込める。
「ちょ……ちょっと、ダーン……ふ……っん」
触れ方が明らかに先程までのマッサージと違うため、ステフが抗議しようとしたが、ダーンはさらに耳の後ろや肩の前側にある鎖骨のあたりを優しく撫で上げる。
「ここんとこ、ステフの肩を何回も揉んでるから、色々わかったこともあってな……。それで、弱そうなと……効きそうなマッサージを試しているんだ」
意地悪な笑みを言葉に含ませて、ダーンはさらにツボを押していくのと、うなじの敏感な部分へのフェザータッチを織り交ぜて、マッサージを続ける。
「い、今のッ……弱そうなトコって言わ……くぅ……」
なんとか文句を言おうとするステフだが、首筋から全身に走る甘い刺激に、どうしてもあらがえないでいた。
「まあ、そう片意地張るなよ。けっこう気持ちいいだろ?」
耳元で優しく囁いて、ステフの頬を撫でるダーン。
「そ、それ、ズルい……んんっ」
「気持ちよくないのか?」
「そ、それは……ううっ……」
「気持ちよくないなら、やめるけど?」
ダーンはそう言いながら、両手の親指で、うなじの肌を優しく撫で上げ、そのまま首の付け根にあるツボを押し上げてやる。
敏感な肌の表面を奔るゾクゾクした刺激と、こりをほぐしてくる的確なツボ押しの、緩急あるマッサージに優しく囁いてくる恋人の甘い声。蕩けそうなステフの口からは――
「気持ち……いい……。やめちゃ……ぃや……」
『……やれやれですね』
溢れだした言葉を、少女の胸元にある神器が拾い、軽い溜め息混じりの念話が虚しく響いていた。
「ステフが素直でうれしいよ……」
ステフの左耳に顔を近づけて、とどめとばかりに甘く囁くと、ダーンはその耳たぶを甘噛みしてやる。彼の鼻腔を甘酸っぱい桜の芳香がふわりと流れこみ、舌先には軽い汗の刺激が触れ、柔らかさに包まれた小さな弾力が歯応えとして擽った。
「ひぅっ……ん――ッ――ッ」
襲いかかる甘い痺れに、軽く全身を震わせた少女。必死に押し殺した矯正が執務室に響くかと思ったその矢先に――
火照った気分が一気に凍り付くような、非常事態を告げる艦内警報がけたたましく鳴り響くのだった。
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