幾重にも複雑に編み込まれた悪意の奔流。
昏き魔力の膨大な束は、絶対的な破壊の障壁となって、幼い少女の身体に迫る。その速度は物理上の限界に近いものだった。
そう、物理上の限界速度――すなわち『亜光速』だ。
リリスは亜光速で迫る魔神の一撃、その『太刀筋』をしっかりと見ていた。
それは、斬撃の軌道そのものをということだけではない。《固有時間加速》を極限まで発動し、さらに《予知》を実行、意識領域に多層構造の仮想世界を構築し、魔神の一撃を実際に受けた場合の結果を仮想現実としてシミュレートする。
あらゆる状況・条件別に多層構造の仮想世界で、多次元的に同時処理していくことで、昏き魔力の本質や、編み込まれた呪いが発動した際の結果すらも彼女は見ていたのである。
亜光速の一撃が間近に迫る以上、本来ならばリリスがしているような真似などできようはずがない。しかし、それが現実に可能であるのは、既に彼女が時間という概念を超越している状態であるからだ。
また、このような超高次元の戦闘を、幼い少女であるリリスが可能であるのは、彼女がその身に特別な神魂を宿すからに他ならない。
《神王》と呼ばれる存在――
リリスが名乗った雷神王とは、《神王》と呼ばれる太古の闘神である。《神王》は現在の神界に存在する神々よりも古い時代の神々で……いや、神という定義すら当てはまらない存在だった。
その神話は、人類が発生する以前のはるか太古のものだ。
神界や異界の一部には、その存在が語り継がれているようだが、神々や魔神達も、神王達の時代が終わりを告げた後に生まれた存在だ。
故に、たとえ神界にタキオンソードのレプリカが存在していても、それらのオリジナルを振るい超常の戦闘を極めた闘神のことなど、眉唾ものの伝説としか思われていなかったのである。
そんな超常の存在としての神魂を宿すリリスだが……。
彼女が捉えた太刀筋は、強大な破壊力とともに、厄介な呪いを孕んでいた。これを喰らえば、リリスの半身は吹き飛び、神魂はズタズタに引き裂かれ、未来永劫転生することはないだろう。
そのような一撃が、光速に近い速度で迫っている。
刹那の刻を認識できるまでに超加速した意識、それが全てを捉えてはいるのだが、太刀筋などを正確に捉えているからといって、それだけで対処できるわけではない。迎撃するには迫る一撃を超えるものが必要だった。
つまりは――物理上の限界を突破した超常の一撃……『光速』を超えた剣戟である。
そのような剣戟を撃とうとする直前――
光の波動すら読み取れる超加速した固有時間、あらゆる事象を構成する最小単位の『弦』から加速していく《超弦加速》の状態にあって、リリスは何度も思考を重ねていた。
『やっぱりこの攻撃、何かおかしいわ』
『今それを気にしても仕方があるまい』
リリスの思念に同じく《超弦加速》していた神狼が応じる。それは、ほぼ時間停止の状態で交わされた念話だ。
『でも……無いのよ、攻撃として肝心なものが、アガレスの一撃にはないの』
『端から見ている我には、面倒な呪詛が数万の重なりをもって主を攻撃してきてるようにしか見えぬが?』
神狼の言うとおりだ。
アガレスの放った一撃は、単なる剣戟ではなく、剣の一撃をもって相手に直に打ち込まれる超高次元魔法だ。魔神が本気で編み込んだその呪詛は、あらゆる悪意を様々な方式方法で構成されていた。たとえ強力な対魔術式をもってしても、数万もの呪詛を一気に破壊しきるのは不可能だ。
『確かにそうなんだけど……。でも――』
『ふむ。では、主はここであの魔神にやられるか? この一撃、おそらくは奴の奥義だろう。東方の大公爵とまで称される大魔神だ。その一撃を前に舌舐めずりする余裕なぞ、あるわけ無いが』
神狼の言葉に、リリスは諦観したような思念で応じる。
『ええ、わかっているよ、ナイト。……私に仇なす全ての悪意を断てばいいんだね』
リリスは、膨大な力を込めた神剣を頭上に振り上げる。
雷神王としての知己と力、その極限に達する剣戟を放つために。
その剣戟は、膨大な闘気と蒼紫の稲妻を、事象の根源から操る意志の力によって研ぎ澄ました超常の必殺剣。太古の闘神達から現神界の戦士達にまで伝わる闘神剣、その失われたはずの奥義――
――雷神王・紫電爆轟斬!
異常に燃焼する闘気と紫電が刃先を走り、唐竹割りに振り下ろしたその斬撃は、太刀筋で空間を連鎖的に崩壊させる。蒼紫に煌めくその刃先は光速を突破し、あらゆる事象を即座に断つ一撃となって放たれた。
リリスの放ったその一撃は、迫っていた数万の昏き呪いを、理不尽なほどにたやすく全て断ち、アガレスの手にした魔剣を粉々に粉砕する。
そして、その威力は、魔剣を手にしたアガレスの肉体……いや、その肉体の『向こう側』、別次元に存在する魔神の魂魄にまで至った。
空間そのものを激しく震撼させる轟音。その響きにたわむ虚空に、弾き飛ばされた老体が舞って、そのまま力なく大地に墜ちていった。
☆
月光の下、海岸線から少し離れた位置にできた丘陵に、男は一人佇んで、怪訝な表情のまま足元を見下ろしていた。
「何が起きている?」
男以外には人影はなく、当然誰も聞くはずのない状況であるのに、つい疑問が声になって漏れてしまう。
漆黒の鎧に全身を包み、腰には大型の両刃剣を提げるその男。翡翠を思わせる瞳は、驚きに揺れていてもその鋭い眼光は健在だった。
男は、先ほど魔神アガレスと別れた後、一人、黄土と石灰岩の上に出来たこの丘陵にて、その下の鍾乳洞の様子を覗っていた。
覗うと言っても、この草原のあちこちに点在する大地の小さな亀裂から、下の様子をのぞいていたわけではない。ただ、魔神の強烈な魔の気配を追っていただけなのだが。
その気配が、しばらく前からほとんど感じなくなっている。
おそらくは、何者かが張った結界に魔神が閉じ込められたからなのだろうが、それも一時のことと、高をくくっていた。
なにせ、あの魔神は異界でもトップクラスの実力を誇る大魔神である。隙を突かれて結界に捕らわれたとしても、人間ごときの結界を崩壊させることなど児戯にも等しかろう。
だが、いつまで経っても魔神が外に出てくることはなかった。結界のせいで感じる気配は弱くとも、その魔力は攻撃的で鋭く、その様子から推し量るに、どうやら戦闘中だったようだ。
それが断った今、完全に途切れてしまった。
それに、さっきから魔神の直近で感じるこの気配は、恐ろしく強靱な『神気』だ。
この神気も、結界のせいで感じる気配は弱くなっているが、結界の生成の前に感じたものは強大であった。
――だが、あの魔神を倒す程ではなかったはず……何か別の要素が結界内で生じたか?
そんな推測を立てる男の背後で、それは涼やかに夜の静寂に響いた。
「私の娘が、《魔》を成敗してるの」
完全に背後をとられた形に、漆黒の騎士・ジーンは戦慄した。その背後では、黄金の輝きを放つ特殊な稲妻が大気に満ちていき、夜の静寂はかき消され、大気は膨張し分子が崩壊する轟音が喧噪を作り出す。
「……稲妻の姫君……か」
あえてゆっくりと振り返るジーンの視界に入るのは、黄金の輝きを放つ鱗を貼り合わせたような甲冑を纏う女性の姿。
「こんばんは……『最後の王』ジーン・エマール・ド・アルゼティルス。私の娘とその友達に何の用かしら?」
四英雄の一人――稲妻の姫君ミリュウ・ファース・アルドナーグは、旧知の友人へと語りかけるような柔らかな声で問いかけるが……。
栗色の髪をプラズマ化した夜風に舞わせて、エメラルドの瞳には、爛々とした闘志が宿っていたのだった。
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