二階建ての宿屋、その暗い階段を月明かりだけ頼りに降りていく。
ブーツのヒールが固い木の床へコツコツと叩く。
襲撃者――ルナフィスは、結局目的を果たさずに帰途についていた。
ここへ襲撃に来たときと同様、《固有時間加速》を発動。
戦闘時と違って時間加速のみに集中し、周囲との時間流動が全く違う状態にまで加速しているため、今の自分に外部から干渉することはできないだろう。
時間の流れがここまで違うと、同じ空間に存在しても干渉はおろか知覚することさえ困難なのだ。
これで、一階の奥の部屋にいる親子には気づかれない。
ヒールの音がしようが構うことはないのだ。
堂々と宿の玄関口へと進もうとする。
先ほどのことだが――
襲撃した二階の部屋を出る前に、ダーンの方に一言二言、短い言葉を交わした。
その内容は雑談程度のもの。
こちらから勝負を挑むにあたり、特に日時場所は言い渡さなかった。
何故なら、こちらもすぐに戦いをしようという気にならないからだ。
先ほどの戦闘で、少し気になったことがある。
それは、あのダーンという剣士が使っていた剣術についてだ。
彼の剣は、その刀身が微かに蒼白く輝いていた。
あれは自分が使う剣術によく似ている。
闘気を闘志をもって洗練し、その洗練した闘気を的確に操って剣戟とする技。
ダーンも、こちらの剣と彼の剣は似ていると言っていた。
また、彼の言ではあのディンもそう言っていたという。
ダーンの剣術は、確か《闘神剣》と言っていた気がするが。
ルナフィス自身はそのような名前の剣術を知らない。
いや、むしろ自分が使う剣術の名前どころか、誰に習ったかすら知らないのだ。
記憶を失う前から、この剣術は自分の中にあったようだ。
そのため、レイピアを持てば自然と放ててしまう。
これまでは、兄か他の《魔竜人》が教えてくれたものだろうと思っていた。
でも、よくよく考えれば、自分の失った記憶を蘇らせる端緒となるのではないか。
ダーンと決着をつける前に、この辺のことを一度整理しておくつもりだった。
あの二人には時間的余裕を与えてしまうし、依頼人が急かしてくることも気になる。
だけれど、そう焦ることはない。
どうせあの二人はアークに向かうはず。
アテネの飛空挺の発着場で待ち伏せるなり、アークに着いた直後を狙うなりすればいいい。
アーク王国には、転移の魔法で行けるようになっている。
『門の刻印』とよばれる魔法の刻印。
それをアークの何ヶ所か設置してあるのだ。
あるいは、対象がアークに着いた直後を襲えなかったとしても……。
仮に、対象の入り込んだのが首都の軍施設だろうと、自分なら忍び込む自信がある。
――取り敢えず、湯浴み……は無理でも水浴びでいいから、なんかさっぱりしたい……。
そんなことを考えて、宿の玄関にたどり着いたルナフィス。
おもむろに、玄関の扉のドアノブにあるシリンダー錠に左手をかざす。
先ほどステフの部屋に入った時も使った解錠法。
重力を制御して錠前のシリンダーそのものを回転させる。
これは魔法ではなく、意識の集中により起こす奇跡。
人間どもがサイキックと呼ぶ力の一端だ。
その力をもってして、まさに今シリンダーが回りかけた……その瞬間。
「あら……お帰りですの? こんな時間ですし一階でよろしければ、お部屋をご用意しましてよ」
突然、背後から柔らかな女性の声。
ルナフィスは思わず悲鳴が出そうになった。
「うそでしょ……私、今加速中よね?」
自分で自分に問いかけつつ、意識を時の流れに向けるが。
確実に自分以外の外の時間は途方もなく緩やかだ。
今は、戦闘時よりも加速に意識が集中できる。
したがって、加速状態は、先ほどダーンと剣を交えたときよりも速いはず。
この状態の自分に、このように声を掛けるには――
その人物も同じ加速状態にならなければならないはずだ。
「様々な事情をお抱えのお客様にも、真摯に対応するのが宿を営む者の務めですから。この程度のたしなみは、お食事をご用意するよりも簡単なことですわ」
「んなわけないでしょッ。……どうやらただ者ではないようね」
凄むルナフィス。
その刺すような視線の先には、若葉色の裾が長いワンピースに白いエプロン姿の女性。
彼女はその胸元に両手を当ててはにかむ微笑を浮かべて、
「あら、あまり褒めないでくれます? 確かに一般的な女性と比べれば、かなり大きいと思いますけど……」
「胸のことじゃないわよッ」
「まあ、冗談はこのくらいで……一人の母親としてのお礼も兼ねて、今夜はこちらにお泊まりになって下さいな。もちろん、上のお二人には内緒にしますから」
宿屋の女将ミランダ・ガーランドは、圧倒的な包容力を感じさせる優しい笑顔で語りかけていた。
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