アテネ国王からの依頼を受け、その任務に就いてから三日目の朝を迎えた。
アテネ王国傭兵隊に所属する剣士ダーン・エリン・フォン・アルドナーグは、受けた依頼の内一つをすでに達成している。
任務の経過としてはまずまずの状況なのに、随分と難しい面持ちのまま朝食を摂っていた。
スパイシーな香りが口の中から鼻に抜ける。
朝食として出てきたものは、昨夜のうちにアーク王国軍大佐、ステフ・ティファ・マクベインが作ったものらしい。
それは、一言で言えば揚げパンだ。
昨夜のカレーを、味を調えつつ煮詰めてペースト状にし、それをパンで包み込んで油で揚げたもの。
揚げる際の油があっさりとしたものを使い、温度管理を調理過程によって変化させることで、脂っこさを感じさせないよう工夫されている。
おそらく、パンの生地にも何か仕掛けがあるようだが、とにかく食べやすい揚げパンだ。
それを頬張りつつ、蒼髪の少年は相手に気付かれないように、瞳だけ隣に座った少女に向けた。
今朝の彼女は、深紅のリボンを使って、銀をまぶした蒼い髪をポニーテールに結い上げている。
透けるようなうなじが視界に入ってきて、身体の奥で何かの鼓動が跳ね上がり、思わず咀嚼途中のパンを飲み込んでしまった。
ほとんど噛まずに飲み込んだため、思いっきり咽せるダーン。
慌てて目の前のグラスを手に取ろうとして、その中身が無くなっていることに気付き、とりあえず拳で胸のあたりをたたきはじめる。
グラスの中身、冷たいミルクは、先ほどぼんやり考え事をしながら飲み干してしまったのだった。
すると、「大丈夫?」と声をかけてきて、蒼い髪の少女は自分が飲んでいたミルクを差し出してくれる。
思いのほか苦しかった彼は、それを受け取るなり、一気に飲み干すが――
なんとか窮地を脱して、お礼を言おうと少女の方を見やれば、彼女は真っ赤な顔をして彼が持つグラスを凝視していた。
「ステフ?」
怪訝に感じて彼女の名を呼べば、少しあわてたように「な、なによ? 別に、この程度のこと気にしてないんだからッ」と言い放ち、そっぽを向いてしまう。
――俺、何か悪いことでもしたのか?
彼女の機嫌が悪い。
今のやりとりだけでなく、なんだか昨夜から悪い気がする。
昨夜のことだが――
銀髪の女剣士・ルナフィスとの会話で、ある程度の情報を得た次の目的地。
アーク王国内にあるという、水の精霊王との契約を行う祭壇、《水霊の神殿》なる遺跡。
そのことについて、精霊王との契約を目指すステフ本人に確認をしたあたりでは、冷たく淡々と話をしていた。
特にその後の就寝の挨拶をしてから、彼女の機嫌が悪い。
今朝など、彼女が近づいてきた気配を感じて目を覚まし、視線を向ければ――
惹きつけられる琥珀の瞳にドキリとさせられ、優しい鈴の音のような挨拶が耳を打つと共に左脛に厳しい痛みが走った。
文句を言ってやろうかとも思ったが、琥珀の視線がなんとなく叱責してきている様に感じて、結局何も言い返せなかった。
朴念仁は途方に暮れつつ、手の中にある空になったグラスを見つめた。
そして、ふと目に付いたグラスの手前側の縁に、極々薄く付着したピンク色の『跡』。
たちまち、ダーンも顔が熱く火照るのを感じてしまうのだった。
☆
『一応言っておきますが、間接キスはセーフです』
胸元から、含みを持たせた感じで言ってくる女性の念話。
昨日契約したばかりの神器の意志、ソルブライトは、契約者たるステフにだけ聞こえる秘話状態で語ってきている。
『う……うるさいわねッ』
間接キス程度で心臓の鼓動が跳ね上がる自分自身に悪態をつく代わりにと、ステフは姿が見えない意思に、思いっきり恨み言を念じていた。
☆
お互い紅潮した顔のまま黙々と食を進める二人に、食事をする必要などない神器の意志は、溜め息混じりな念で話し始める。
『とりあえず、アーク王国に行く訳ですが……先にどちらへ行かれるのですか?』
ソルブライトの言葉に、ステフは軽く息を吐いて気分を落ち着かせた後、口を開く。
「どっちって……《水霊の神殿》は、確かエルモ市の近くよね。あたしとしては、一刻も早く次の精霊王との契約をって言いたいけど……」
未だに気恥ずかしいまま、ステフはダーンの方に視線を送り、彼の意見を求める。
ダーンにしてみれば、アーク王国にステフを送り届ける事と、アーク王国国王に謁見することが本来の任務なのだ。
そのついでにステフの護衛任務をこなしている状態である。
「俺は……その、どちらでもかまわないかな。確かに君をアークの首都まで連れて行ってアーク国王に届けるものがあるんだが……はっきり言って、期限までは言われてないんだ」
少し歯切れの悪い物言いのダーンは、その場でちょっと上の虚空を見て思案する素振りをした。
その彼の態度に、ステフはふと違和感を抱く。
彼ならば、先に首都に向かって当初の任務を完遂したいと言うはずだ。
その後、こちらの用事にも付き合ってやると言ってくるとばかり思っていたが。
ただし――
その場合、首都に着いたら彼に説明しておかねばならないこともあった。
それは、少女にとって、できるだけ先延ばししたいことで、それこそ、昨日の処女だとか箱入り娘だとかよりも、彼には打ち明けたくない少女の秘密。
それを知らせたら、彼は今と同じように自分を見てくれるだろうか?
もっと、ずっと、今よりも親密な関係になった後なら、この秘密も関係ないと言ってくれるかもしれない。
だから、この秘密はなるべく先送りしておきたいのだ。
『昨夜ダーンがルナフィスという敵の剣士から聞いたとおり、《水霊の神殿》は、あと五日間は立ち入ることはできません。あそこは、一定の周期で水位が変動する湖の中に入り口があります』
「セイレン湖ね。たしか十五日周期で水位が変わるんだけど、その差は十メライ(メートル)位あったはずよ。その湖の真ん中に小さな祠があるんだけど、もっとも水位が下がったときだけその祠は水上に顔をだすの」
ステフの説明にダーンは得心する。
「なるほどな、それで行けるのは五日後なわけか」
『ですから、首都の方に先に向かってしまうのも時間の有効活用と言えるでしょう。更に、ステフ……あなたの銃のこともありますので……」
「確かにね……」
ステフは、スカートの中にある衝撃銃を軽く触りながら、少し肩を落として応じる。
昨日のカラス馬の魔物と戦闘した際、その銃の炉心が壊れてしまったのだ。
追加の武装や、ちょっとした改造はソルブライトの力をもってすれば、簡単なことだったが、さすがに心臓部たる炉心が砕けたら、修理はソルブライトの力をもってしても不可能だという。
主武装が無い状態で、新たに遺跡に向かうのは危険度が高いと言える。
「やっぱり、一度は帰るしかないか……」
諦めたようにつぶやくステフ。
「そうか……まあ、どちらにしても一度こっちの首都アテネに戻ろう? アークにいくのだって定期船に乗らなきゃならないんだろう」
「確かにそうなんだけど……でも定期船の利用は避けたいわ。以前ここにくるとき、ハイジャックにあったりだとかひどい目にあったものね……」
「そうなるとどうするんだ? さすがに小型艇なんかじゃ、用意できたって辿り着けないぞ」
「そうね。だからちょっとした裏技を使うわ」
そう言って、悪戯っぽく笑うステフ。
その笑顔を見てダーンは――
――ちょっと前まで、何か不機嫌そうだったのに。
ころころと変わっていく少女の表情に、ダーンは難儀し眉間にしわを寄せるのだが、不思議と気分は悪いモノではなかった。
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