ノムという少年を保護し、アリオスの街にダーンとステフがたどり着いた頃には午後十時半を回っていた。
街に三人で歩いてくる道中、話題となったのは、当然ノムがなかなか狩りから帰って来なかった事情だ。
ノム少年曰く、帰宅途中に野犬に襲われたとのことだが、その話をノム自身から聞かされている中で、ダーンは異様にひっかかる部分があった。
それは、ノムが崖から落下した一件だ。
崖を落ちている最中に意識を失ったが、その後崖の下から離れた小川の側で目を覚ましたこと。
その際、怪我はなかったが、彼を介抱してくれた銀髪の女性がいたという二つの点だ。
ノムが落下した崖というのは、彼の話だと高さ五十メライはあるらしい。
その高さを落下してはとても命は助からないはずだが、彼は一切の怪我もなく、崖を落ちたことそのものが勘違いなのではないかと疑いたくなる。
しかし、ステフが崖の下でノムの持っていた狩猟用ライフルを拾っていることから、どうも崖を落下したのは間違いないようだ。
そうなると考えられるのは、ノムを介抱してくれたという銀髪の女性が、何らかの方法で落下するノムを助けたということだが。
五十メライの高さから落下する人間を助ける方法とはなんだろうか。
ダーンは、その方法が何らかの超人的な能力によるものではないかと推測する。
いずれにしても、あの森にはそういった人物が一人、自分たちが魔物と戦う直前まで近場にいたということである。
――ノムを助けてくれたということは、必ずしも敵とは限らないが……。
ダーンはそう思いつつも、あの場に、何者かが魔力で花弁の魔物をステフにけしかけたことと平行して思案する。
ノムを助けた超人的な能力を持つ女性と、自分たちが戦った魔物を放った人物が、同じ場所にいたのは単なる偶然と、安易に考えはしない。
そんなにホイホイと超人的な力の持ち主がいるわけがない。
むしろ、同一人物なのではないか……そう考えるのが妥当だ。
この先も用心する必要はある。
そう結論づけるダーンは、ノムに気づかれないようにステフの左手を軽く右手で握った。
その瞬間――
「ひゃぁッ」
いきなり手を繋がれて、素っ頓狂な声がもれ出し背筋をピンッと伸ばすステフ。
恨めしそうに琥珀の視線を半眼にしてダーンを睨むが……。
その視線に少し怯むダーンが、念話で先の推察を告げると、ステフも同意見と相づちを返した。
ついでに、『ビックリするでしょうが、この朴念仁ッ』という抗議まで、ずしり重い念としてダーンの脳内に響く。
二人がそんな風にする内に、ノムの自宅である宿屋が見えてきた。
「ノム!」
玄関のすぐ脇で、息子の無事を必死に祈りつつ待っていた女性が涙声を高く上げる。
その声の主、ミランダ・ガーランドがノムの姿を認めるやこちらに走り出していた。
「かあさん……その、心配かけてごめん」
素直に謝る息子をミランダは抱きしめていた。
その姿を見て、ステフがほっとしたように口元を緩めている。
ダーンも同じような気分だったが……。
彼は口元を少しだけ緩めて見せたものの、言い得ぬ不安が頭から離れないでいたのだった。
☆
ノムをミランダの元に連れてきたダーンは、元々ステフがこの宿に宿泊しているということもあって、今夜は同じく自分もこの宿に部屋を用意してもらうこととなった。
その際は、ミランダから熱烈な歓迎を受け、宿代はサービスするとまで言われたほどだ。
流石にタダで宿泊は恐縮すると申し向けると、代わりに食事だけでもおごらせて欲しいと言われて……。
そんなわけで、ガーランド親子とステフの四人で、夕食というよりは夜食といった感じで軽めの食事をとっている。
個人経営の宿にしては広めの食堂、その片隅に正方形をした四人掛けの木製テーブルで彼ら四人は掛けていた。
テーブル上には、さっぱりとした風味の燻製サーモンを使ったオードブルや、自家製チーズ、新鮮でしっかりと冷水に晒しシャキシャキと歯ごたえのいい野菜サラダ、クルミとチーズの自家製パンなどが並んでいる。
簡単なものとはいえ、妥協を許していないミランダの料理に舌鼓するダーン。
そのダーンから見て、正面にノムが座り、右側にはダーンの取り皿に料理を盛りつけては、グレープジュースなどを勧めてくるミランダの姿がある。
そして左側にはナイフとフォークを上品に使いこなし、黙々と食事するステフの姿が――――
時折、刺すような視線を送ってきていた。
「ダーンさん、まだまだおかわりはありますから遠慮なさらないで下さいね」
ダーンの方に身を乗り出すようにして、ミランダは彼の取り皿にパンとチーズ等を乗せる。
「あ、ありがとうございます……ミランダさん」
取り皿を受け取りつつ、若干どぎまぎするダーン。
その姿をステフが横目で見ているが、その不機嫌さは、ダーンにもしっかりと伝わってきていた。
ミランダの好意は嬉しいのだが――
彼女の服装は胸元が割と開いたワンピースで、豊満なバストの谷間がちらついて、流石の朴念仁も視線のやり場に困る。
そんな自分とミランダのやりとりを隣で見ているステフが、随分と機嫌が悪いのは、任務中の傭兵のクセして気を緩めすぎていると怒っているからだろうか?
そのような、見当違いをしているダーンと、その左側に座り不機嫌オーラ出まくりのステフ。
その二人を眺めつつ、ノムはニヤニヤとしながら食事を進めていた。
☆
ステフは、口に運んだ燻製サーモンを必要以上に咀嚼しながら、ミランダの身体の一点を見て思う。
――大きいわね……やっぱ。
自分も、その部分については人並み以上であることは間違いない。
だがミランダは背も高く、身体の線もしっかりしているので、その部分はやたら迫力があるように感じられた。
――トップとアンダーの差は負けていないと思うけど――って、馬鹿か……あたし。
うかつな思考を綺麗に流すように、手元のグラスに注がれているグレープフルーツジュースを飲みこむ。
のど元を通過する酸味がさわやかで、もやもやとした気分を少しは和らげてくれた。
――それにしても……
ミランダ・ガーランドには、会ったときから奇妙な感覚を覚えていた。
彼女からは、とてつもなく大きな存在感を抱かされている。
決して胸が大きいからではない。
いや、それも……少しは要因として認められなくもないが……。
存在感とは、彼女から感じる気配についてだ。
彼女からは、何もかもを包み込むような母性を感じるのだ。
その母性は彼女の息子に向けられたものだけでなく、ほかの何か――
イメージとしては大地に生けとし全てのものを抱擁するかのようなもの。
対して、息子のノムからは、何だかその年齢よりも下に感じるくらい、悪戯っぽいイメージを感じている。
そのせいか、この親子を端から見ていると、もっと幼い子供とその母親のイメージだ。
自分は、あまり街の人々と接したことも少ない。
特にこのアテネでは、自分は異郷人で、こちらの風習には疎い。
だから、この親子から奇妙な感覚を覚えるのかもしれないが……。
そんな風に考えている内に、ダーンの頬についたサラダのドレッシングをミランダがハンカチで拭き取ろうと身を乗り出す情景が、琥珀の瞳に映る。
その瞬間に、グラスが倒れる軽い音と、「あっ……ごめんなさい」というミランダの声が耳に響いてきたが、そんなことよりも――
ミランダの謝罪の直前……身を乗り出した彼女の揺れる胸がグラスを弾いていたのだが。
琥珀の瞳がその光景しっかりと捕らえていた。
――ぐッ……がまん……がまんよ、あたし。
なんとか理性と自尊心で感情の爆発を抑えて……妙な感覚は、やっぱりあの胸のせいだ、と思い直しているのだった。
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