それはパーティーの盛り上がりが、既に酣を過ぎた頃だった。
国内から来ている賓客の何人かは、帰宅のため席を辞しており、また、城内の宿泊をする貴族達も、少しずつ会場を後にしていく。
「ねぇ、ちょっと外に出てみない?」
先程まで、とある理由でくつくつと笑っていたステファニーは、これまた同じ理由で憮然としていたダーンの手を引いた。彼女の促す先には、大理石が月光に淡くバルコニーが見て取れた。
バルコニーは迎賓室の南側へ半月状に突き出しているが、かなりの広さを誇っていた。建築の構造としては、バルコニーの範疇だろうが、その広さとしては、さながら空中庭園と呼ぶに等しい。かつては、騎士達の剣による試合なども行われたぐらいで、余談だが、一昨日夜にも、とある外国の王と茶髪の少年剣士が訓練試合をしたようだ。
迎賓室の南側、大きなガラス張りの出入り口を抜け、二人は夜風のそよぐ月光の下へと歩み出す。
「綺麗な月ね……」
ステファニーの何気ない言葉に、ダーンは視線を夜天へと向ける。透き通った大気の向こうに、瞬く星の光を掻き消すかのような明るい銀が真円を描いていた。
今夜は満月だ。
初夏の夜、よどみのない月光は遙かな高みから二人を照らしている。随分と遠くに見えると感じて、ダーンは視線をステファニーに下ろした。
「あ……」
思わず声が漏れた。
染めた黒髪は桜をモチーフにした髪飾りで結い上げられていたが、束ねられていないその前髪は、月の銀艶に梳かされて柔らかに風に舞う。その瞬間に彼は心を奪われていた。
「どうしたの?」
そのダーンの様子に怪訝に感じたステファニーが問い返す。
「あ、いや……すまん、なんでもないんだ。その……寒くはないか?」
自分でも失笑してしまうくらいに、ダーンは辿々しくはぐらかした。ステファニーもなんとなくはぐらかされたことに気がついたが、あえてそれは追求せずに、夜風に軽く流れていた前髪を左手で押えながら、ダーンの方に振り返る。
「そうね……でもこのくらいなら平気」
「そ、そうか」
短く答えて……いや、それ以上言葉をつなぐことか出来なくて、ダーンは再び天を仰ぐ。
彼らのいるバルコニーは、王宮の庭園に設けられた人造湖に張り出した構造となっていて、迎賓室から漏れる光以外に月明かりしかない。そんな薄暗がりの中、白亜の大理石で設えたバルコニーに、白を基調としたドレス姿の少女が、月の銀が照射するスポットライトに浮かんでいた。
髪を押さえた仕草、その何気ない仕草に魅入ったダーンには、結い上げて露わになっている白いうなじが毒となる。
それは、甘酸っぱい香りを孕んだ、人の心を奪う魅惑の毒。
「心配してくれたの? ダーン」
毒に気がついて視線を外していた少年に、はにかんだ少女の声は、追い打ちをかけるかのようだ。
「……これは、なんというかダメなヤツだな」
「え?」
「いや、こっちのことだ。そうだな、心配はするぞ、護衛だからな」
火照った吐息を吐き出して、ダーンはクールに徹しようとする。
「む。なんか、素っ気ない。さっきまで、手を取り合って躍っていたのに」
対するステファニーも負けてはいない。先ほど知った彼の不得手に乗じて少年の冷静さをかき乱してやろうとしてくる。
「……それは、嫌みか? あれは、踊っていたのではなく、躍らされていたというか……」
すぐに鉄面皮ではいられなくなって、ダーンは眉根を吊りあげた。
「まあ、躍れてはいなかったかもねー」
「ぐぬ……。け、剣舞ならいけるんだぞ」
「あんなフォーマルなところで殺伐と刃振り回す気? まったく、養子とはいえ一応貴族なんでしょ。ダンスくらい身につけなきゃよ」
「……確かに、おんなじ言葉をリリスから……」
ダーンから金髪ツインテールの名前が出て、少しステファニーの表情が堅くなる。
「今度会うときまでに、ちゃんと練習しておいてよね」
ステファニーは少しムッとしたままダーンに言いつける。そのダンスだが……。
まだ晩餐会が中盤の頃、居合わせたゲストが思い思いの相手を作り、宮廷音楽に合わせたダンスがいつの間にやら始まっていた。その場に、子供の二人がいたわけである。
尻込みするダーンの手を引き、半ば強引に中央へ歩み出し、彼女は見事に舞ってみせたのだが……。
相方のダーンは、ステファニーに文字通り躍らされるハメになったのだ。
「私も、あんなに靴踏まれたの初めてよ」
「うぐっ……め、面目ない」
ダーンが羞恥に顔を赤くし俯くのを見て、ステファニーは肩を揺らして笑う。黒い髪に降り積もったような月の銀砂が、それに合わせて煌めいた。
「くっ……次は完璧に躍ってみせる! そ、そんなに笑うことないだろう」
「あははは、ごめんごめん。でも、おかしくて……」
「むう……」
からかわれていると感じて、ダーンは唸るが――
「そして……とても愉しい……愉しかった」
突然、ステファニーの表情に影が差す。浜辺からの冷えた夜風が漆黒の髪を揺らし、ダーンの胸元の熱をも奪った。
「ステフ?」
「えへへ……この愉しい時間ももうすぐ終わりだね。また、アークでの……王宮での暮らしがあたしを待ってる。あ、別にそれが悲しいことでもないし、王宮には妹のカレリアもいるし、大切な人達もいるの」
「そうか……そうだな、俺も寂しくはなるが、だったら……」
ダーンの何気ない言葉に、実は彼の素直な気持ちがしっかりと込められていた。それをステファニーは感じ取ってしまったのだろう。
次の瞬間、せき止めていた本来の気持ちが、一気に溢れ出してしまった。
「でも! あたしはもっと! もーっと、色んなことに触れたいの。王宮の外の世界、あたりまえの世界を知りたいし感じたい! お母さまが愛したこの世界を……」
「ステフ……」
明らかに、それまでの彼女と違う雰囲気に、ダーンは息を呑んだ。
「アークの……王家の子供はね、完全にかごの中の鳥なの。世界最大の利権、その所有者の最大の弱点だから」
ステファニーが声を張り上げて吐き出す。それは、幼い頃からずっと溜め込んできたフラストレーションだ。アーク王国の第一王女、その肩書きに生まれてしまった悲運と、あまりにも恵まれすぎた才覚とが、彼女をこれまで締め付けてきた。
「その……王女という立場が君を縛り付けているのか」
「そうね。王家に生まれた者はきっと恵まれた環境、贅沢な暮らし、あらゆる羨望を受けると思うんだ。でもね、生まれながらにして、『義務』を負うの」
その話はダーンにも理解できていた。ステファニーの言う『義務』とは、その国によって多少違いがあるだろうが、王家の子女が生まれながらに背負うという点はおそらく万国共通だろう。
だが――理解できていることと納得できることは同義ではない。
「……それが……どうしたと言うんだ」
沸々とこみ上げてくる憤りが、彼に言葉を吐かせた。
「え?」
ダーンが絞り出すように言った言葉に、ステファニーは目を丸くする。
「俺は、王家のしきたりとか義務なんかよく知らない。でも、ステフ。君のことはよく知っている! この数日間だけのただのステフは本物のステフだ」
その吐き出された言葉は、ステファニーの胸を打つ言葉ではあった。しかし、実際は、その言葉を言い聞かせたのは彼本人だった。子供らしい『独占欲』も含んだエゴイズムを、大人びようとするいつもの自分自身に見せつけたのだ。
この数日間、彼にとっても、彼女の存在はとても大きかったのである。
普段覆い隠されていた熱い自分自身。二人の『抜き身』での語り合いは、後の二人の生き様を決めることとなる。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!