飛行船の船体は、黒く舞う無数の小さな影に包まれていた。
飛行船 《レイナー号》は全長一八八メライ(メートル)、全幅二六メライ、全高三七メライの巨体を誇っていた。
その巨体の周囲を黒い雲のように影が覆っている。
《レイナー号》のブリッジでは、まさに恐慌状態となっていた。
数分前、アテネ空港を目前にして高度と速度を落とし、到着先の空港管制と、理力通信で入港の為の諸手続きを交信中、突然黒い影に船全体が包まれた。
それと同時に、交信は途絶し、理力エンジンの出力が低下、さらに各計器類も狂い始めている。
操舵士の手動操船により、かろうじて船の安定を保っているが、このままでは無事にアテネまでたどり着かないだろう。
ブリッジの船長席から立ち上がっていた初老の男は、鋭い眼差しで船外に舞う黒い影を見据える。
男の視線の鋭さは、単なる豪華客船の船長とは思えないものだ。
その彼の左頬には、縦に大きな傷跡がある。
今は船長の制服、その端正な服装の袖に隠されて覗うことは出来ないが、胸の前で組んだその両腕も、数え切れないほどの傷跡があった。
二十三年前の魔竜戦争において、海の戦場で最前線にいた男――ジョセフ・レオ・リーガル船長。
彼は、船外の黒い影の正体を見極めつつ、座席に備え付けられた内線交信機の受話器を取る。
そのまま特等客室の番号を入力した。
ほどなくして、目的の人物の凜とした声が耳に入る。
『こんばんは、リーガル船長。どうも雲行きが怪しいようですね』
船長は、聞こえてきた声に恐れや不安が一切感じられないことに、半ば感嘆。
しかし努めて冷静に報告をする。
「大佐殿、このような夜分に申し訳ありませんが、第一級の非常事態です」
明確に非常事態であることをいの一番に伝える。
悪いことほど早く……は、報告の鉄則だ。
さらに船長は報告を続ける。
「現在、当船は無数のコウモリに囲まれておりますが……。このコウモリ達が放つ特殊な音波が《理力器》の働きを阻害しているものと思料され、現在当船の自動航行システムや理力通信機などに支障が出ております。恐らく、いえ間違いなく、これは何者かが怪しげなコウモリを操って、当船の航行を妨害、あるいは拿捕するのが目的でしょう」
『そのようですね。私も今し方船外を見ていて確認できました。敵の目標はこの私でしょう。……ところで船長、この船の乗員は、私以外には何人いるの?』
「大佐殿以外に乗客は一二二名、乗務員は私を含め七八名です」
『了解。船長以外で私の乗船を知る人間は?』
「はい、私以外に副長と医務官の二名です。しかしながら、本国の管制室とアテネの管制室には乗船名簿があり、大佐殿は《ステフ・ティファ・マクベイン》の名前で記載されております。当然のことながら守秘対象の情報ですが……」
『情報が漏れた可能性も否定できないですね。本国からアテネへは、無線の理力通信で名簿が送信されたはずだから、どこかでキャッチされたかも』
「申し訳ございません」
『貴方のせいではないわ。むしろ、無理を言って乗船させてもらったのに、私のせいで船を無用な危険に晒してしまった。本当にごめんなさい』
内線で会話する相手の素性を知る船長は、その謝罪に対し声を若干こわばらせる。
「もったいなきお言葉であります。レイナー様の名を冠したこの船を任されたばかりか、さらに貴女様を乗せ航行できることは身に余る光栄でありました。むしろ、御身が当船に乗船されておられる中、このような事態に陥らせてしまった、私のふがいなさを嘆くばかりです」
『お気遣いありがとう船長。でも、ここで嘆いたり過去形で語ったりするにはまだ早いですよ。これから外の無粋な輩に一泡吹かせてやりましょう。お母様の名を冠したこの船、そう易々と思い通りにはならないことを教えて差し上げるの』
受話器から聞こえる声は、やはりというべきか、簡単に屈するような方では無いと船長は感じ、熱い声を持って、
「仰せのままに」
と、短く明瞭に返答する。
『今、手元の航路図を見ているのだけど……さっきまでの風景、多分この先に着水出来る湖があるはずです。下半分のコウモリ達を追い払うためにも、まずはこの湖に降りてほしいですが、出来るかしら?』
「確認します」
船長は航海士を呼びつけ、湖の位置などの確認を取り、操舵士と打ち合わせた。
「可能です、大佐殿」
『了解。それでは、できるかぎり急いで着水して下さい。それから、万が一のために持ってきた《アレ》を使います。船長の許可をいただけるかしら』
「まさか……大佐殿自らが…………」
『はい、私が迎撃にあたります」
「危険です。敵の目標は貴女自身なのですぞ。お父上からお預かりした御身を危険に晒すなど、船長の立場からも承服しかねます」
『お気持ちはとても嬉しいのですが、船長、今の私は国家と国民を守る立場の軍人です。貴方に乗員と船を守る責務があるように、私には国と民を守る責務があります。また我が儘になりますが、どうかお願いします』
交信機を通じて耳に入る凜とした声。
まだ若く、ほとんど戦いを知らないであろう彼女の言葉。
かつて戦いの海にその身を投じていた者にとっては、戦場の過酷さを知らない未熟者の綺麗事としか聞こえないだろう。
それでも彼女の覚悟は、船長の胸を焦がすに十分なほどであり、その使命感は本物のようだ。
「……了解しました。ご武運を」
海兵隊上がりの客船船長は、一抹の不安を残しつつも、王国軍大佐として彼女の使命感を尊重することを選んでいた。
船長との内線通信を切った《大佐殿》――アーク王国軍大佐、ステフ・ティファ・マクベインは、忌々しげに窓の外へと鋭い視線を向ける。
船体を包むように飛行する黒いコウモリの群れ。
その目を禍々しく赤に光らせ、縦横無尽に飛び回っている。
まともなコウモリであろうはずが無い。
この船の《理力器》に干渉する超音波を発していることもさることながら、この船を取り囲んで飛んでいること自体が不自然だ。
この船は、着陸のために速度を落としているとはいえ、未だ時速三〇〇カリ・メライ(キロ・メートル)以上で飛行している。
自然のコウモリが飛行できる速度ではない。
――魔法。
かつて父に聞いたことがある。
魔竜達が《理力器》を介さずに、高度で不可解な理力現象を発現させた法術。
太古に闇に落ちた神々との契約により行使される力だ。
おそらく、この不可解なコウモリ達は、何者かの魔法により使役されていることだろう。
そうなると、敵は魔竜かそれに匹敵する相手だ。
「もしかしたら、何らかのリアクションがあるとは思っていたけど……」
まさか魔竜クラスの敵と遭遇するとは想定外。
しかも、襲撃のタイミングは最悪だ。
もうすぐアテネ首都の空港に到着というのに。
ただ幸いなことに、先ほど見た航路図と外の風景などを確認して解ったことだが、着水を指示した湖は、準備を整え次第向かおうと思っていた場所に近かった。
何とか、敵に察知されないように下船し、そのまま目的地へ向かってしまえば、かえって手間が省けるかもしれないが…………。
自分がこの船からいなくなれば、敵もこの船にいつまでも執着しないだろう。
しかし、だからといって、今回の襲撃とは全く関係のない乗客を、正体不明の敵に囲まれたまま放置することは出来ない。
できれば、外の敵を撃退してから、目的地に向かいたいところだが……。
敵を撃退するのなら、もしもの為に、王立科学研究所長が用意してくれた《アレ》に期待するしかない。
――出来れば……というか、正直絶対に使いたくはなかったけれど。
ステフは、船外に飛び回る敵の脅威とは別のことで憂鬱な吐息を吐いていた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!