そこはまるで水の中の世界だった。
広大な逆四角錐の空間で、四方から大量の水が大瀑布となって中心へ集まっている。
その滝壺の真上に浮かぶように円筒型の構造物があり、そこに巻き付く形で螺旋階段が設けられていた。
階段の幅は割と広く、大人が並んで立っていてもまだ余裕があるくらいだが、完全に剥き出しの足場であるため、踏み外せば運悪く滝壺に落下という可能性もある。
見渡す限りは水の奔流と沸き立つしぶきの空間だった。
初めてこの神殿に足を踏み入れたときにいた場所と似ている。
見上げると、透明に透き通った氷のような足場が上空に見えた。
なるほど、最初に入ったあの大瀑布の空間のさらに下層、滝壺の方に近い場所のようだ。
先頭を歩くカレリアの黒髪を見下ろしながら、緩やかに螺旋を描く階段を下っていくステフ。
そのとなりにダーンもいる。
足場となっている階段の床や、階段内側の円筒壁など、全てが水を固体化したような透明な素材で構成されていた。
彼らが目指すのは水神の姫君の祭壇場である。
血糊で汚れたルナフィスとスレームを神殿内の温泉において、ステフとダーンはカレリアの転移によってその場に来ていた。
ちなみに、ケーニッヒは一人、外の武道台があった岩場で見張りにあたっている。
てっきり、こちらについてくるか、何がなんでもルナフィス達と裸で混浴する旨を言い出すと思っていたステフだが……。
この見張り役はケーニッヒ自身が必要な対策だと言って自ら買ってでた。
その際ステフが、彼のことだから、何かふしだらなことを企図しているのでは……と勘ぐったりもしたのだが。彼をよく知るカレリアが「彼に任せておけば問題はないでしょう」といって、最悪見張りをするように見せかけ、ルナフィスの入浴をのぞくかもしれないとまで耳打ちしたステフの意見を一蹴した。
――考えてみれば、妙な関係よね?
妹のカレリアと客人剣客のケーニッヒ。
カレリアが王立研究所の企画七課で、海外からの研究員を秘書的な扱いで登用したというのは、以前から聞いていた話だ。
以前ちらっと見かけたとき、その秘書的な男は五十代位の渋いおじさんだったが、名前は確かケーニッヒだった。
ダーンから、ケーニッヒが変装しそのような姿でいたことや、エルモ市の温泉に移動する際に使ったタクシーの運転手だったことも聞いている。
そして、剣士としての実力についても……。
あれほど強くなったダーンが、稽古をしてほとんど一本奪えないと言う人智を超えたレベルの達人。
妹がそのような人物と知り合った経緯も気になるところだが――はたして、どんな関係なのだろう?
傍目で見ている限り、お互い遠慮のないやり取りをしているように見えるが、彼女の秘書という立場ならば、当然、自分たちが王家の者と知っていることだろう。
それでいて、あのように気負うことなく接しているというのは、カレリアとしても悪い気分ではないはず。
そう考えると、少しうらやましい。
自分たちが王家の人間と知っても屈託なく接してくれるというのは、息苦しい王宮生活に辟易していた者からすればありがたい話であるし……。
そう考えて、ふと瞳だけ動かして隣を歩く蒼髪の剣士に視線を向けた。
既に傷ついた服を着替え、瀕死の重傷を負ったことなど嘘だったかのような姿。そして、身長差のせいで歩調が違うはずの自分たち姉妹の足取りに合わせて歩いているのがわかる。
ルナフィスとの戦闘の際、かなり無理をしてくれたが、それは自分の《治癒》の力を信じてくれたからでもあるのだろう。
こうして、となりで歩調を合わせて歩いていてくれるだけで、何故かとても心地がいい。
でも――
彼は、自分の祖国が最も重要な同盟国として位置づけて、国政の全てにおいて最大級の傾注をしている対象、世界最大の王国、その第一王女がとなりにいると知ったら、同じように接してくれるだろうか?
未だに自信がない。
ここに至るまで、一週間程度とはいえ毎日顔を合わし、一緒に温泉にまで入ったり、一緒のベッドで寝たりした――単に並んで眠っただけだったが――こともある関係だ。
これ程自分に接近した異性など、他にはいない。
だけど、その距離感が心地よいからこそ、全てを打ち明けたときに、どのようなこととなるかが怖い。
現に、自分は彼を欺いている。
自分の身分と本名を隠し、存在しない人物として接しているのだ。
実は、誰よりも本当の自分として接しているはずなのに、表向きは偽ったもの。
そんな危うい関係だが――――ここまで歩んできた絆を信じたい。
この後、《水神の姫君》の異名を持つ水の精霊王、実の妹でもあるカレリアとの契約が待っている。
それが無事に果たされれば、その後はダーンの本来の目的――アーク国王への謁見を手配してあげなくてはならない。
そうなれば、否が応でも自分が王女であると明かされてしまう。
当然、その前に、彼には自分の口で身分を明かさなければ、最悪の結果になりかねないが。未だその勇気が湧かなかった。
もしも、自分がアーク王国王女と知った瞬間、ダーンがその場で跪き、王宮で接していた衛兵や大臣達と同じような態度を取ったら――
ちなみに――
アーク王国の王家は、国王やその妃、そして次期国王候補として王位継承権の一位を指名された者以外は、公に政務や諸行事に参加しない風習があった。
特に、王家の未成年者は、一般にはその姿を公表されない。その出自がわからないよう親類貴族の養子として学校に通うなど、秘匿性があったりする。
これは、世界最大の王国であるが故に、様々なリスクを回避するための措置だった。
何世代も前になるが、王権を虐げようと誘拐された王子が、そのまま一貴族の子息として取り扱われ、犯人側の王家に対する要求を一切受け扱わなかったこともある。
結果的に、最悪の結末を迎えて王子は無残な姿で発見されたが、国葬などは行われず、ひっそりと王家の墓へと弔われた。
犯人グループは、その背後にいた小国家諸共、完全に消滅することにはなったが、その報復も秘密裏に行われたほどである。
あるいは、王位が継承される以前に王子に近付き、色香で惑わせて虜にした他国の姫君もいたが、その際も、同王子は王家の者ではなく一貴族の子息として、あっさりと国外追放されている。
現在のアーク王国は、その王権について現国王の方針から、これまでの絶対的な権限は影をひそめ、その政治的権限の大半が王国議会へと委譲されつつある。
それでも、アーク王家は世界最大の王国の王家だ。
特に他国の者からすれば、その存在はやはり世界で最も力のあるものなのだ。
そんな王家の、しかもいまだ王子が生まれない現状での第一王女。
さらに、その事実は秘匿された存在であり、国家の重大な秘密なのだから、それを知る王家側近の者達からすれば、その存在は触れるどころか視線にさらすだけでも神経が衰弱する。
王宮では常に腫れ物を扱うかのような待遇だったのだ。
まあ、一部の者達は例外だったが、そのメンバーにやはり男性はいない。
ステフは想像してしまった。
王女と知ったダーンが平伏して、腫れ物を扱うかのような態度をとった瞬間を。
――嫌だ! 絶対に見たくない。
自分の想像した幻視に、嫌悪感から身震いし肩を抱く。
と、その瞬間、階段を下っていた足下がおろそかになって、ステフはバランスを崩した。
一瞬平衡感覚を失い、周囲の景色が大瀑布の水の奔流であるため、そこに吸い込まれるかのような感覚がステフを襲う。
その瞬間――
「……大丈夫か?」
背中を厚い胸板が当たり――脇や胸元に鍛えた腕の逞しい感触。
倒れかけたステフを素早くダーンが抱き支えてくれていた。
まあ――その際にがっちりというほどではないが、彼の腕や掌の一部が乳房の下側を少し持ち上げるように触れているのは、気がつかないフリをしてあげよう。
「ありがと……ごめんね、大丈夫よ。ちょっと考え事してて、踏み外しちゃった」
適当な言い訳をして、それでもちょっと意地悪く彼に支えられるがままにする。
背中に伝わり始める体温と、腕の筋肉や指先の感触が胸の柔肌に食い込んでくる感触。
「そ……そうか。とにかく、その……だな、立てるか」
口ごもって、一生懸命にもたれかかっているこの身を起こそうとするが、どうやら彼も腕や指先の感触に気がついたようだ。
不意にステフは、ルナフィスとダーンの先刻のやり取りが頭に浮かんでしまった。
――頬にキスされたくらいでなによッ。てーか、あたしには『いい女』なんて一度も言ってくれないくせに!
直接肌が触れていない事を確認しつつ、心の中で悪態をつく。
強い念は、ダーンと直接肌が触れあっていると念話として伝わってしまうから、ステフは気をつけているのだ。
また《リンケージ》状態であるので、防護服に触れられるだけでも、ソルブライトが積極的に仲介してくれれば念話や意思の疎通は可能となるが、当然今はその状態にない。
そして気分を落ち着かせ、崩れた体勢を起こすついでに、彼の腕を抱え込んで、より柔肌に包み込んでやる。
「うおッ……」
ダーンが素っ頓狂な声を上げるのを聞き、あとから沸き上がってくる羞恥心に苦心しつつも、何となく妙な優越感に浸るステフ……。
その二人を尻目に捉え、先頭を歩く水の精霊王は、楽しげに肩を微かに揺らす。
彼女の黒髪が揺れる向こう側……螺旋階段の終着、《水神の姫君》の祭壇が見えてきていた。
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