穏やかな春のうらら、少女の頬を風に舞った桜が撫でつける。
柔らかな陽光、優しい風。
整備された芝生の絨毯は、桜並木の向こうまで広がって、鮮やかな碧を風に遊ばせる。
――あれ?
少女は怪訝に想う。
なんとなくいつもと違う感覚と視点。視界は低く、目にするもの全てが頭上にある。
隣を歩く女性も、こちらの手を上から引いていて、そちらを見上げれば陽光に光る銀をまぶした蒼い髪。
「あら? どうしたの、ステフ。少し疲れちゃったかしら」
優しい声は、とても聞き覚えのあるもの。
「えーと……」
少女は頭の片隅にあった疑念を、必死に手繰ろうとする。だが――
「んーん、なんでもないの、お母さま」
少女は軽く微笑んで答えてしまうと、それを境に疑念は全て消失してしまった。
少女の母も優しく微笑んで、共に視線を先に向けると、満開の桜の下でカラフルなシートを敷き詰めて、見知った人間が数名、座っている。
「ああ、おいでになりましたね」
肩までの黒髪を揺らして、座っていた人物の一人がこちらを向いていた。
「スレーム、お待たせしました」
母は、家族に話しかけるような気軽さで、黒髪の女性に声をかけると、少女の手を離した。途端に、少女は前に駆けだして、スレームと呼ばれた女性、その広げた腕の中に飛び込む。
「おやおや。ステフ、レディーがはしたないですよ」
諌めるように言うも、飛び込まれたスレームはまんざらでもないようで、柔らかく笑っていた。
「まったくです。姫様も五歳となられるのですから、それなりに王女としての素養を身につけていただかないと」
スレームの隣で、料理の入った重箱を簡易のテーブルに並べている女性が言う。この女性、白と黒を基調としたエプロンドレスをきっちりと着こなしており、その所作はどことなく隙のないものを感じさせる。
年の頃としては、恐らく二十代後半といったところだろうか。
背中あたりまで伸びたブロンドの髪は、自然とウェーブが掛かっており、それをきっちりと襟のあたりで一つに束ねていた。
「あいかわらず厳しいな、ケリー」
少女のよく知った声――独特の存在感がある中低音が、エプロンドレス姿の女性に軽い笑いをこめて申し向ける。シートの上に無造作にあぐらをかいていた少女の父、アーク国王リドルだ。
「陛下、私はメイド長として当然のことを言っているだけです」
「やれやれ……。ん? もう一人も来たようだな」
スレームのところを離れて、自分の膝の上に座りだした娘を受け入れながら、リドルは視線を右の方へと向ける。ステファニー達が歩いてきた方向とは別の方向から、ライトブラウンの背広をきちんと着こなした男性が歩いてきていた。
「陛下、レイナー様、この度はお招きいただき、光栄の至りにございま……」
「やめろレオ、気持ち悪い」
背広の男性がリドル達の前に来るや、片膝をついて挨拶をし始めたのだが、それを強引に遮るように、リドルがぶっきらぼうに応じる。
頭を垂れていた男性のこめかみに、青筋がくっきりと浮き上がった。
「あ? 折角国王らしく持ち上げてやってんのに、気持ち悪いだと?」
突然人が変わったように、荒っぽい言葉で背広の男性が問い返すが……。リドルはニヤリと笑って、そばに置いてあったグラスを手にし、男に放る。
男は無造作にそのグラスを受け取り、リドルの前にあぐらをかいて座すると、先ほどのメイド長が、そのグラスに麦酒を注いできた。
「ふん。堅苦しいなりで来たと思えば、虫唾が走るような挨拶しやがって」
リドルも、手にしたグラスに麦酒を注がれながら、さらに悪態を吐く。
「チッ……堅苦しいのは、モーラの奴がうるさいからだ、ちくしょうめ!」
悪態を吐いた後、グラスをリドルの方に掲げ、リドルもそれに応じ乾杯、共に冷えた麦酒を喉に流し込む。
「……モーラも息災のようね、中佐殿」
メイド長は、一気に空になった二人の男達のグラスに、新たに麦酒を注ぎながら尋ねる。レオと呼ばれた男、アーク王国軍中佐ジョセフ・レオ・リーガルは、自身の妻モーラの元・上司に視線を向けて、ニヤリと笑うと……。
「アンタの教育がよっぽど厳しかったらしくな……海竜より厄介だぞ」
おどけたようにリーガルは言う。
「ベタ惚れして、王宮から国賊覚悟でかっさらっていった割に、ひどい言いようだな」
「うるせー。嫁に欲しくて、神界に乗り込んで女神かっさらってきた奴に言われたくねーよ」
リドルの言葉にリーガルが言い返すのを、リドルの膝の上で聞いていた少女が、その母に琥珀の視線を向ける。
「お母様? 女神って……」
少女の疑問に、何故か顔を赤らめていた母親は、とりあえず取り繕って優しい微笑みを返した。さらに少女の視界の外で、父リドルが若干バツの悪い表情をしているが。
「あー。それより……貴様、身体の方はどうなんだ?」
リドルは話題を切り替える。それに、リーガルも苦笑いして応じるように「問題ねーよ」と答え、その後は《理力核》がどうのと二人で話し始めていた。
当然、少女には父達の会話の内容はわかるわけがなく、つまらなそうに父の膝から母の元に移動する。
「あれ……、あ、綺麗」
母の元に来た少女は、母の手首に光るブレスレットに気がつき、そこに魅入る。
「あ……。そういえば、コレをするのは久しぶりだったわね。ステフ、気になるの?」
母は、少女の眼前にブレスレットを持ってくる。少女の琥珀の瞳に、シルバーのブレスレットとそこにはまる緋色の宝玉が映り込んだ。
「お母様、この赤い石、なんか不思議な感じがするー」
無邪気に言って、少女はブレスレットの緋色の宝玉に手を触れた。――次の瞬間。
――ようやく、この刻が来ましたね。
少女の頭の中に、女性の声が響き――。
少女の目の前は、一瞬強く輝いて幻惑し、気がつくと……。
「あれ?」
少女の目の前にいた母親も、一緒にいた父やメイド長、スレームも姿を消し、周囲は満開の桜の木々が生い茂るだけだった。いや、むしろ。
満開の桜は先ほどよりも数を増し、花弁のみをつける種や、幾重にも花びらを重ねた種、若葉と同時に咲き誇り、優しくも微かに甘酸っぱい香りを放つ種など、あらゆる桜の木に少女は取り囲まれてた。
「お母様、どこ?」
幼い少女の視界には、桜、桜、桜。
吹雪く桜花が薫る世界に、幼い少女・ステファニーは迷い込んでしまった。
――さあ、私たちの絆を結ぶ宝玉を生成しましょうか。
ステファニーの頭に女性の声が聞こえてきて……右手の中に自分とは違うぬくもりが生じていた。思わずそのぬくもりを確かめるように強く握ると――
「え……? ここ、どこだ?」
ステファニーと手をつないでいたのは、蒼い髪の少年。
「え? …………ダーン?」
蒼髪の少年を認めた瞬間、幼かったステファニーが、いつの間にか十歳の姿に戻っているのだった。
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