数日間の入院を経て現場に復帰したクリスは、社員達に花束で迎えられた。特に秘書のジェシカは人目も憚らず大泣きした。クリスは「恥ずかしいからお祝いなんて止めてくれ」と照れながら、内心では自分の椅子がまだあることにホッとしていた。無断で会社を留守にしている間にCEOを解任されている可能性も覚悟していたからだ。
執務室でパソコンを開いて業務に戻ると、「クリスさん、疲れたでしょ?」と言って秀英がコーヒーを持って来る想像をしてしまう。あの十三日間は非現実的な悪い夢にしか思えず、現実世界へ戻った今、彼もまたいつものように業務に励んでいるという空想に囚われた。その空想から完全に現実を受け入れるまでは、しばらくの期間を要した。
積み上がった膨大な仕事を進めるうち、会社の基幹となる業務はほとんど滞っていないことに気付いた。ラクシュミーを始めとした経営陣が各々で決裁を進めていたからだ。
ラクシュミーは予定の日程が終わっても、クリスのみならず秀英やカルロスとも連絡が取れないことで異常を把握し、捜索を要請していた。しかし案の定、アデンアンドアゾフの担当者が偽りの証言をしていたため、見当違いの場所を捜索していたようだ。
一方で、混乱を期さないためクリスの不在理由を上手く隠し、多くの社員や外部に向けては出張先で急病のためと説明してくれていた。
「私の留守をカバーしてくれてありがとう。それにしても、どうやら私は必要なさそうだな」
ラクシュミーを冗談まじりに褒めつつ、いよいよCEO解任説が濃厚になった、とクリスは思った。すると彼はいつものマジメ腐った調子で言う。
「いいかいクリス、良い会社というのは、上がいなくても回るんだ。君の仕事は正しい方向へ舵を取ることだ。覚えておきなさい」
「……はい」
気のせいかも知れないが、その言葉尻は柔らかかった。
「ラクシュミー、アジャルクシャンへの納税の件だが、増やさないしこれまで通りの方法で行う」
彼は口をへの字に曲げて複雑な顔で唸った。
「その代わり、浮いた金でスラム地区一帯を買い取って大規模な投資を行う。私達が、スラムを無くすんだ」
「そんなことができると?」
「私達の理念は『Make it a better place(より良い世界にしよう)』だろ。成し遂げないなら、私達はなんのために存在する?」
クリスがいつになく真っ直ぐに彼を見据えると、ラクシュミーはふんと呆れたように笑った。
「そう言われては仕方ないな」
去り際、彼はついでのように付け加えた。
「そんな君だから、私はCOOとして君の下に就くことを決めたんだよ」
彼にしては珍しいそんな言葉をかけられ、心に晴れ間が広がった。
島での遭難中、極度のストレス環境下に置かれたクリスは、精神科への通院が必要となった。しかし幸い大きな後遺症を残すこともなく、日常生活へ戻ることができた。島で何度もクリスの命を救い、生きる心の支えになってくれた人がいたことは、最後まで誰にも打ち明けることはなかった。
その人が死んだという噂を耳にしたとき、クリスは心底打ちひしがれた。組織犯罪を担当しているアジャルクシャンの刑事が教えてくれたのだ。
なぜ彼を置いて、あの場を立ち去ってしまったのだろう。せめて最期まで見届ければよかった。保身を優先して彼を置いて逃げた、自分を悔やんだ。
しかし、そんなクリスに前へ進む勇気をくれたのも、やはり彼の残した言葉だった。
――お前のやって来たことは間違ってない。
――不思議と、お前なら世界をより良くできる(Make it a better place)って、思えてくるんだ。
心から理解してくれたあの人がくれた言葉の数々を頭の中に繰り返せば、何度でも立ち上がれた。彼が今も内側から彼女を支えている。
忌まわしい何かから逃れるように忙しい日々を過ごし、気付けば再び夏が来ようとしていた。多くの社員が夏の休暇を取り始め、社内は閑散としている。
執務室で作業をしている秘書のジェシカからも、浮き足立っているのが伝わってきた。
「決めた、今年のバカンスはハワイに行ってきます! クリスはどうしますの?」
「少なくとも島と海だけは絶対に嫌だな」
ジェシカにならこんなジョークも飛ばせるほど立ち直った。
「ともかくバカンスなんて取らないよ、知ってるだろ」
「知ってます。休みも取らないどころか、もう三日も会社に寝泊まりしてるでしょう? 誰が洗い物と掃除をしてると思ってるんですの?」
この頃執務室のソファで寝泊まりし、着替えやコーヒーを飲み終えたマグカップをあちこちに放置しているせいか、ジェシカの風当たりがややきつい。
「分かった、分かった。家に帰るよ」
乱雑に散らばった書類を形だけまとめて片付ける。開封したまま放置した封筒の山を除けたとき、机の上に指輪が転がったのを見つけた。
「ジェシカ、忘れてるよ」
古びた小さな指輪を差し出す。
「あら、私のじゃありませんわ」
そう言われ、クリスはいったい誰の物だろうと首を傾げた。黒ずんだ銀のリングには古風な紋様が刻まれ、太い台座の上には、青色とも紫色ともつかない不思議な発色の宝石が光っている。――まるであの瞳の色のようだ。
クリスは慌てて手に抱えた封筒の束をもう一度広げ、その出所を探した。
「まあ綺麗。アレキサンドライトかしら? 年季も入ってるし、きっと大切な物ね」
ジェシカは指輪を手に取ってうっとりと眺めた。
ようやくそれが入っていたと思われる小包を見つけ出す。積み上がった書類の山を前にして、差出人も書かれていない小包に入っていた古い箱を、中を確認もせずに他の封筒の下に埋れさせていたことを思い出したのだ。
タイムカプセルを掘り出したようなブリキの箱の中には、一人分の往復航空券が入っていた。行き先はアジャルクシャンに近い小都市。表には走り書きで『ベガとアルタイルの物語をもう一度』とだけ記されている。こんなことを書くのは――。
指輪と一枚の航空券、たったそれだけだったが、思い浮かぶのはあの優しい人だった。小さな期待がとくんと胸を鳴らす。
夕暮れ時の家路を歩く。ふと立ち止まって上を見上げるが、高いオフィスビルに囲まれた隙間から見える空に星はない。都市の明かりが眩しく、ここで星空を見ることはできない。
しかしポケットの中で指輪を握り締めると、あの握った手の暖かさと、浜辺に寝転がって見た満天の星空が脳裏に蘇り、忘れかけていた美しい時間へと記憶が巻き戻っていくのだった。目を閉じれば今も、煌く天の川の上を駆けている。
完
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