夜明けが近づき、まだ薄暗い朝靄の中で徐々に周囲の景色が浮かび上がった。あたりは静寂そのもので、昨夜の出来事が嘘のようだ。
クリスは木々の葉から滴る露を舐めた。喉が乾いていた。昨日からほとんど飲まず食わずだ。体を起こして思わず身震いする。夏の地中海とはいえ、朝は冷える。
幸い、あれから敵は襲ってこなかった。誰かが近寄った形跡もない。
一度木から降りたクリスは魚網を手にし、葉のついた枝をいくつか網目に編み込むように挿していった。こうして網の上を覆うように葉と枝を編み込んで、簡易的なカモフラージュができた。上から被れば、森の景色に馴染む。
それを被って、バケツを持って池へ向かった。身を低くして這うように、慎重に。池の周りはぬかるんでいるため、足跡を残さないように注意して水を汲んだ。貴重な水源だ、敵も足を運ぶかもしれない。一日分の飲み水を確保して、補給は最小限に抑えたい。
帰り道に、ナイフで木の実をいくつか採集した。あまり多くは見つからず、親指くらいのサイズの実を十個ほど摘み、ポケットに入れた。
剥き出しの腕には、草をかき分けたことによる切り傷やかぶれ、虫刺されが出来ていた。丈の長いジーンズを履いていたおかげで足の傷はまだマシだったが、寝ている間にヒルに噛まれたのか、出血していた。手足は疼くが、今は我慢するしかない。
寝床へ戻り、また木の上へ登った。頭上にいれば襲われても有利だ。ここでじっとして相手の出方を窺うのが最善の選択に違いない。それに、動き回るよりも体力の消耗を防げる。
葉擦れの音の中に時折、鳥の声が煩く響く。本当に同じ島に、マフィア達がいるのだろうか。このような状況でなければ、この上ない癒しの空間なのに。
クリスはナイフで硬い実を裂き、皮を取って中身を口にした。苦いが我慢して飲み込んだ。例えほんの僅かでも、体力の減退を遅らせなければならない。
残る一人は、いずれクリスを探してやって来る。そのとき、相手より先に接近を察知し、木の上から狙撃する。木の周囲には罠を張っている。ここで辛抱強く敵が罠に掛かるのを待ち、撃たれる前に撃つ。その一瞬が勝負だ。
とても長い間、クリスはじっとしていた。太陽が真上に来る頃には少し眠気も襲ってきて、小刻みにうとうとしていた。うつらな頭の中で、いつかの出来事が記憶から呼び覚まされた。
*
八年前のアジャルクシャン連邦共和国で、クリスは見知らぬ車に乗っていた。相手の姿は見えない。自宅のホテルへ戻る途中、何者かに車に押し込まれたのだった。
この国に事業を進出させてまだ間も無い頃だった。マフィアが経済を支配する国、アジャルクシャン。噂には聞いていたが、とうとう自分の身に起こってしまったのだ—と、このときはまだ、恐怖よりも現実味のなさが優っていた。
車が止まり、どこかの建物の中を歩かされた。目隠しをされているので転びそうになりながら、言われるがままにどこかの部屋へ入り、椅子に腰掛ける。
やっと目隠しが外された。
「初めまして。クリス・シロハナさんで合ってる? 俺はヴォズニセンスキーという者だ。手荒い歓迎でびっくりしただろう。すまないね」
シルバーブロンドの髪をした若い男の、人懐っこい笑顔が目の前にあった。あどけなさの残る笑顔だが、その青い瞳には他者へ何の思いやりも同情も宿っていないと、クリスは直感的に思った。
部屋は洋風の応接室。窓にはカーテンが閉まっている。男の後ろには、覆面をした男数人が控えていた。
「日本人なんだって? 奇遇だね。俺もヤポンチク(日本人)って呼ばれてるよ」
シルバーブロンドに青い目をしたその男には少しもアジア系の特徴はないが、マフィア流のあだ名の付け方なのだろう。
「うちから君の会社—BECに何度か交渉を持ちかけていたんだけど、さっぱり返事がもらえないんで、こうして来てもらったわけ」
「もう何度もお断りしたはずですが」
「あれ、そうだったかな? まあまあ、とにかく話をしよう」
ヴォズニセンスキーと名乗る若い男は向かいの椅子にラフに腰掛け、紅茶を勧めた。
彼は、BECの持つ物流網がアジャルクシャンでいかに重要な役割を担っているか、彼の経営する会社—実際にはルーベンノファミリーのフロント企業だが、その規模がいかに大きいか、そして、彼の会社とBECが取引を行うことでBECがどれほど利益を得られるかを説明した。
クリスがこれまで、彼らとの取引を拒否してきたからだ。
「すみません……でも何度聞かれても我が社の方針は変わりません。経営に関することです。誰と取引するかは私達の自由でしょう」
少なくとも話は通じる相手のようだ。クリスは緊張のあまり汗ばんだ手を握り締めながら、丁重に彼らとの取引意思がないことを伝えた。
「分かった。ただ、話はもう一つある。—君は外国人だから知らないと思うけど、その国にはその国の商慣習というものがある。この地域では昔から俺達が、市民の商売が上手くいくよう取り計らい、安全を守っているんだ。そしてその見返りに商人達は、地域で商売をする場所代を納めている」
要はみかじめ料の事だ。
「その場所代を支払っていないのは君だけだ。つまり、俺達が守り、取り計らっている貢献に対して、君はただ乗りしていることになる。言いたいことは分かるね?」
「そういう商慣習は何もこの国だけじゃない。貴方方のような人達がいることは知っている。でも、貴方方に何かして欲しいと頼んだわけでもないのに金銭を要求される謂れはない。失礼する!」
クリスは怒りに任せた勢いで立ち上がった。自分がいる場所がどこなのかも、どうやってこの屋敷から出るのかも分からない。ただ一刻も早く立ち去りたかった。この時はまだ、自分が断固として突っぱねれば家へ返してくれるだろうという、甘い考えがあった。
ヴォズニセンスキーが立ち上がり、クリスの目の前に歩み出る。その途端、左足に鋭い衝撃が走る。見ると男の手にナイフが握られ、ズボンの太腿辺りに切れ目が入っていた。
呆然としている間に、切れ目から血が溢れてズボンに赤い染みを作った。
「あ、これはいけない! 失礼。今手当を」
たった今自分を刺しておきながら、白々しい笑顔で気遣うそぶりを見せる。正気とは思えない男の態度に、現実味を帯びた恐怖が襲ってきた。
「や……やめ……!」
震える声で小さく叫び、後ずさった。覆面の男が後ろからクリスを掴む。
「傷が治るまで、ここでゆっくり過ごしたまえよ。泊まる場所は用意するからね」
「あの……貴方達は知らないと思うけど、私はCEOだからといって何の権限もないんだ」
いつになく早口で、勝手に口が回る。
「議決権を持ってる役員が他にいて、彼らはその気になれば私を解雇することだってできるんだ。私は力のない社長だ……! だから、このことは私だけじゃ約束できない……ここから帰して……! そうすれば役員達に相談するから。お願い……」
途中からは懇願になっていた。その場を逃れたい一心から出た言葉だったが、全くの出まかせというわけでもない。
「そんな必要はないさ。必要経費として帳簿に書き加えるだけだ。簡単なことだろ?」
ヴォズニセンスキーは変わらぬ笑顔のままクリスの肩をポンと叩き、背中を向けた。部屋の後ろに立っていたもう一人の覆面の男に、何かを耳打ちしたようだった。
それから覆面の男達に連れられ、部屋を移された。今度は無機質な、灰色のタイル張の部屋だった。白いライトに照らされた部屋にはホースと蛇口がある。床の隅に排水溝があり、その周辺は液体の跡で黒ずんでいた。肉の解体場のようにも見え—ぞくりと寒気がした。
ヴォズニセンスキーから耳打ちされた覆面の男が、前へ歩み出る。
—ここに心ある人間はいないのだろうか。クリスは男の目を見た。紫色の、ヴォズニセンスキーよりももっと冷たい目に見えた。
「この世界の掟を破ったお前には、今から死に方を選ばせてやる」
スラブ訛りの低い声だった。顔は見えないが、少しの憐れみもないのだろうか。拒否するように首を横に振った。体が震え、動かない。動悸が早く、呼吸がうまくできない。目に涙が滲む。
「死にたくない? 大丈夫だ、すぐに死にたくなる」
「私を殺しても何も変わらない。社の方針で決まってることだから……。貴方も同じ人間だろ……? 暴力で支配して人を苦しめて、何も感じないのか……?」
クリスは涙で赤らむ瞳で、紫色の目を睨み続けた。その男もまだ若いように思えるが、同じ人間なんかじゃない。瞳に何の揺らぎもない。違う世界からやって来た怪物だ。これがこの世界の人間なのだ。このとき、思い知らされた。
*
はっと目が覚め、思わず身震いした。木の上は心許ない。
その男は圧力をかけるのが目的だったようで、結局それ以上身体に危害を加えられることはなかった。その男こそルーベンノファミリーのNo.2、ノアだった。
八年経った今でもあの恐怖は忘れることができない。
クリスは木の実を数回に分けながら食べた。することがなくて、ぼうっと舞広がる木の葉を眺めたり、木の間から一生懸命獲物を取り出そうとする小鳥、葉を齧るてんとう虫、枝を這う尺取虫を観察したりしていた。
鷹が急降下して、地面をすばしっこく走り回るネズミを一撃で捕獲する。そのネズミに、自分の姿が重なった。ネズミだけではない、小鳥に食べられる小さな虫、蜘蛛に捕まるハエ、あれは自分だ。
基礎的な護身術くらいは心得ている。しかし、戦闘訓練を受け修羅場をくぐってきた人間達に対しては圧倒的な弱者だ。
クリスの本来の臆病な性格が顔を出す。いくら財産を持っていようと、数千人の従業員を従えて自信たっぷりに振る舞おうと、何の強さの証明にもならないことを知っているから、普段から人前に顔を出さないのだ。この島のどこかにいる狩人にとって、自分は小さく貧弱な獲物なのだ。
やがて日が暮れ始めた。クリスは一層神経を研ぎ澄ませ周囲の音に気を配った。風が吹くと葉の囁き、梢枝のぶつかり合う音が聞こえる。遠くには微かな波の音。
夜の闇はまるで永遠に続くような気がした。今夜は月がなく、闇に覆われている。見えないことが、誰かが闇の中から突然襲ってくるかもしれないという想像をより掻き立てた。どれほど時間が経ったか分からない。眠気で夢うつつになるたびに、飛行服を着た男が闇の中から襲いかかってくる夢を見て飛び起きた。それを何度繰り返したことだろう。
その晩もクリスは、神経を集中させたまま、ほとんど一睡もせず夜を明かした。
三日目の夜明け前には、飢えと寒さ、睡眠不足により、確実に体力を奪われていることを痛感していた。
三日も経って何の人影も見えないなんて、いったいどうなってる?
ここで敵を待ち伏せして狙い撃ちするのが、クリスの作戦だった。相手も同じことを考えているかもしれない。辛抱強く耐えた方が勝つのだ。
だが、これほど待っても人の気配すらないとは、何か事情が変わったのかもしれない。もうとっくに諦めて、島を脱出しているかもしれない。—そうであって欲しい。
敵が島にいる限り睡眠も取れないし、助けを呼ぶために火も焚けない。そうすれば居場所がバレて襲われるし、木の上に留まっていれば体力の限界がきて弱ったところを襲われるか、その前に死ぬ。もしかすると居所はとっくに知られていて、体力が弱るのを待っているのかも知れない。
……秀英は無事だろうか。生きているんだろうか。
体力が限界に来ており、このままでは死を待つだけだと悟る。太陽が辺りを照らし始める前に、クリスは木を降りる決心をした。
十数時間振りに踏む地面に思わず足が震えてよろめいたが、軽く体を動かした後しっかりと地に足をつける。
手製のカモフラージュを被り、向かう先を考えた。現在地は南西寄りの森の中。これまでに歩いた場所は島の南西半分のみで、北東部分は未知の領域だ。どれくらいの面積が広がっているかも不明だ。
まず野営地の近くから踏破することにした。南の海岸から始め、徐々に北へ移動する。相手も人間だ。島に二日以上もいれば、生活の痕跡が出る。食べる、寝る、排泄などだ。地面を注意深く観察した。
いつでも対処できるよう、手にはカルロスの自動拳銃—P220を準備する。
真水のある池を通り過ぎ、とうとう漁業者の小屋の付近までやって来た。これまでのところ人の痕跡はない。クリスは北へ足を向けた。
今度は北の海岸沿いに歩いてみる。北の海岸はより険しい岩礁地帯になっていて、大きな赤い岩が連なっていた。スカイブルーの波が激しく岩に打ちつけ、砕ける。
ふと、背後で鳥が羽ばたく音が聞こえた。振り返ると、鳥達が一斉に鳴きながら飛び立つのが視界に入った。驚いて思わず銃を構えようとする。
後ろから何者かに口を塞がれる。咄嗟にもがくが、右腕も掴まれ後ろから締められている。
見つかった! 奴がいた!
そう思ったとき、耳元で聞き慣れた声がした。
「静かに、僕ですよ」
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