あのときクリスは、彼が自分を捨て駒のように利用する気だと思っていた。だから梅花に追われているとき、彼が自分を見捨てるだろうと思った。望ましくなかったが、合理的に考えれば助ける理由がない。だが結果彼は二人を追ってきて、今ここにいる。
「今のお前は一人の民間人だ。組織の掟に従えば、民間人の犠牲は避けなければならない」
「それだけ?」
彼は答えに迷っているようだった。暗闇で表情までは読めないが、こちらを見ずに宙を睨んでいる。そして間を置いたあと、話始めた。
「正直言うと、一度は見捨てようと思った。だが、ふと考えた。いや、最近思うことだ。この世界で本当に必要とされてるのは、俺達じゃなくお前なんじゃないかって」
彼は自嘲するように笑った。
「お前はアジャルクシャンに投資してきた。一見利益にならないような、教育施設やインフラを作った。スラムの人間を無償で教育して雇用して来た。それも計算の上だったんだろうが、世間からの人気が高まって業績は上がった。その成功を見た他の企業も真似し始めた。おかげでスラムは信じられないくらい縮小した」
クリスは、自分とその会社のことを他人――しかも、自分達を攻撃してきた組織の男が、全て見てきたかのように語るのを聞いて、ハッと目が覚める思いだった。さらに続く言葉も意外なものだった。
「……片や闇組織は綻びが見え始めてる。抗争が激化して、掟が機能していない組織や、民間人に危害を加える組織が増えた。市民からの風当たりも強くなってる。俺達も、他の組織のスパイに入り込まれる始末だ。組織はもう、役割を終えつつあるのかも知れない。……なんてな。今の話は忘れてくれ」
なんて冷静に、客観的に時代の流れを見つめているのだろう――。八年前に会話したとき、彼は組織の意義に絶対の信念を持っていた。だが今彼が口にした疑問は、組織に忠誠を誓った幹部が決して抱いてはいけないものだろう。本音なのだろうか。
「なんにせよ、アジャルクシャンは豊かになっている。経済は発展し、市民の意識も変わりつつある。全てはお前が始めたことがきっかけだ。お前は真っ当なやり方で社会の仕組みを変えたいと言ったな。で、その通りにした。お前のやって来たことは間違ってない」
その言葉を聞いたとき、胸に何か、熱いものが込み上げた。
「間違ってないって、本当にそう思う……?」
「ああ」
これまで受けて来た非難や罵倒が、頭を駆け巡る。
――あのような無駄な投資が赤字を拡大させることは分かり切っていたのに。君の我儘は損害を広げるばかりだ。
――彼女は利益を独占したいがために税金逃れをしている。
――偽善者め!
――息子はあんたの身代わりに死んだんだよ! マフィアに屈しないって言う、あんたの会社の馬鹿げた理念のせいで!
――この人殺し!
――社員達が貴方のいない場所でなんて言ってるか知ってますか? 貴方はトップの器じゃないって。
耳を塞いで蓋をしてきたネガティブな感情。自分を信じたくても何処かで信じ切れず、今日まで身を硬くして耐えてきた。
熱いものが鼻を伝って目頭まで込み上げてきて、抑えきれなくなった。気づけばまた涙がポロポロと溢れ出る。
「うっ……ごめん……また、水分を無駄に」
「どうした?」
「今まで身内からも世間からも非難されてきて……だから嬉しくて。初めて理解してくれたのが宿敵のお前だなんて、複雑だけど」
クリスは泣き笑いしながらノアを見た。僅かな月明かりに互いの姿が薄らと照らされる。目が合ったかと思うと、彼は顔を逸らした。
「本当は今のも口実に過ぎなくて、ただ俺がそうしたかっただけかも知れないが」
心が熱くなる。内心では今すぐ彼の胸に顔を埋めて、これまでの辛い日々を忘れさせて欲しかった。昔星空の下で見たときと変わらず、魅力的だ。しかし、自制心が働いた。
彼が向こう側の人間でさえなかったら。今ほどそれを残念に思ったことはない。
クリスが静かに熱い思いを噛み締めている間に、ゆっくりと夜は更けていった。
遭難して六日目の朝を迎えた。起きた時、すでにノアの姿はない。小屋から出ると、地面の土に『網は仕掛けた』とメモが彫られていた。砂浜に突き立てられた棒の影の位置からして、もう昼前だ。
小屋の側の崩れかけた桟橋から、昨日までと違う場所の風景を眺める。最も、海の景色は北側も南側も同じだ。ただどこまでもスカイブルーの海が広がる。その上を、カモメが魚を求めて飛び回っていた。
いったいいつになれば救援が来るのだろう。黄龍会(ファンロン)との戦いを終えて一夜明けた今、気掛かりなのはそれだけだ。ヘリが墜落してから、もう六日経っている。会社に提出した旅程表通りなら、今頃とっくに帰路についているはずだ。
毎日山ほど届く電話やメールに一切返事をしていないのだから、会社は異変に気が付いていることだろう。
ノアは、秀英(シュウイン)が旅程について何か細工をしている可能性もあると言った。思い返せば、滞在先のホテルの手配などは秀英に任せていた。秀英ならば、捜索を撹乱するために嘘の証言をさせることも可能だろう。仮に会社がクリスの異変に気付けても、どのルート上で行方不明になったかが分からなければ探しようがない。
そう考えると、救援を待つのは極めて望みが薄い。ならば、通りがかる船や飛行機に助けを求めるしかない。ここは地中海、交通量は多いはずだ。しかし航路から外れているのか、今のところ全く通りがかる船や航空機を見かけない。たまに見えるのは、上空一万メートルを飛ぶ旅客機か、水平線の彼方に船影が浮かぶ大型タンカーくらいだ。合図を送っても、とても気付いてはもらえない。
だが、生きてさえいれば必ずチャンスは訪れる。それまで希望は捨てない。
そのためには水と食料だ。ノアは魚を取る網を仕掛けてくれたようだが、魚ばかり食べているので塩気にうんざりする。体は糖分を欲している。
クリスは島の中へ分け入った。歩きながら、食べられそうな木の実を探す。オリーブの実、ブルーベリーのような果実、豆などを採取し、ペットボトルのゴミで作った容器に入れていく。いずれも実は青く、熟してはいない。苦そうだが無いよりマシだ。
それから水源のある場所へ行ってバケツに水を汲む。数日前までは池だったが、今は小さな水溜りになっている。もうすぐ枯れそうだ。別の方法で水を得なくてはならない。
一度小屋へ戻り、海岸近くに穴を掘った。穴の中央にペットボトルの容器をいくつか並べ、穴の中に海水を流し込んだ。穴の上に、これまた拾ったゴミのビニール袋を被せ、石で固定した。
こうしておけば海水が蒸発してビニール袋に集まり、ビニール袋から伝った水滴が中央のペットボトルに落ちる。即席の蒸留機だ。上手く動いてくれることを祈る。
まだ日は高いので、じっとしてはいられず助けを求める手段がないかと考えながら島を歩き回った。いつしか北東の海岸へやって来た。島の中でも断崖が連なるエリアだ。
湾を見下ろせば、吸い込まれるようなスカイブルーの水を湛え、遠くの深い青へと美しいグラデーションを織りなしている。
崖の淵へ立って、思わずその煌めく湾に見惚れた。しかしふと、海上に異物を発見して目を凝らす。
岬の先端付近に、シルバーの金属板が浮かんでいるように見える。プロペラのような物も海面に突き出ている。――あれはヘリだ。
クリスは岬へ駆け寄った。あの機体の色には見覚えがある。間違いなく、自分達が乗っていたヘリだ。全てが始まるきっかけとなった――秀英がルーベンノファミリーを煽って正体を現すようけしかけ、銃撃の応酬が繰り広げられた。クリスは海上に投げ出された。
潮流で、墜落した場所から北東の岬まで残骸が運ばれて来たのだろうか。
そうだ、あの中に私の衛星電話が!
それを思い出した時、再び希望が舞い降りた。海に投げ出された時、自分のリュックを機内に残したままだったのだ。リュックの中には衛星電話があり、防水ケースに入れていた。電源さえ入れば、救助を呼ぶことができる。
採取した木の実を地面へ置き、崖の淵へ近付いてみる。崖の先端から更に先に、飛び石のように岩が二本連なって突き出ている。機体は岸から遠い方の岩に引っ掛かっているようだった。
岩には波が打ち寄せる。岩礁の間の潮流は少し速いが、海は穏やかだ。崖には足場も多く、問題なく降りられる。後は岩伝いに水の中を進めばすぐだ。
クリスは期待に胸を高鳴らせながら、ジーンズとタンクトップを脱いで、下着だけになった。
段差を両手で掴み、体を支えながら足場に足を下ろしていく。三メートルほど崖を降り、海面へ辿り着いた。岩礁付近に集まっていた色とりどりの魚が、クリスの姿を見て一斉に逃げていく。顔を上げると、機体はもう目の前だ。海面に出ているのは側面の一部だけだが、キャビンの形を保っているように見える。
――あそこに、カルロスもいる。
遺体があると分かっている場所へ行くのは勇気がいる。しかし、見知った相手だ。その真の姿は、アデンアンドアゾフに潜入しながらルーベンノファミリーに情報提供していた男だとしても、死んでしまった今は関係ない。できれば遺体を引き上げてあげたい。
海面に飛び出した岩を伝って、機体へ辿り着いた。キャビンの左側を上にして沈んでいる。岩に引っかかっているようだ。ハッチは無くなっており、入り口が開いていた。機体周辺にも中にも、沢山の魚の姿が見える。
クリスは水中に沈んだ機内を覗き込んだ。集まっていた魚が一斉に離れ、道を開ける。
カルロスが座っていた奥の座席には、何かが亡霊のようにゆらゆらと揺れていた。ボロボロになった布だ。その柄には見覚えがある。カルロスが着ていたシャツだ。シャツからはみ出て揺れている白い有機物のような何かは、彼の体の一部であろう。白骨化した腕も見えた。
そんな……。カルロス。
彼の遺体だ。もはや原型を留めていない。水中生物がよってたかって食べたのだろう。
クリスは機内を見渡した。客席のシートの後ろに、クリスの赤いバックパックが落ちていた。リュックが見つかって安堵する。水中へ潜って、リュックを拾った。一旦水面に出て中を開けると、防水ケースはそのまま入っていた。
よし、と心の中で呟く。衛星電話の電源は使用時以外オフにしていたから、まだバッテリーが残っていてもおかしくない。今度こそ期待できそうだ。
もう一度水中に潜って、カルロスの方へ赴いた。せめて遺品はないかと探すと、腕時計があった。それを拾って自分の腕にはめ、また浮上する。
明るく親切な男だった。彼を思い、両手を合わせ、目を閉じて合掌した。
リュックを背負って戻ろうとした時、海面から黒いヒレのような物が出ているのが見えた。イルカか、と思ったが違う。ゆっくりとこちらへ近づいて来るにつれ、水中の体が見えた。ゆっくりと体を左右に振りながら泳ぐその姿は、どう見てもサメだ。
サメはゆっくりと機体へ向かって泳いでいる。遺体の臭いに寄ってきたのだろうか。焦ろうとする心を鎮め、平静を保つ。
――落ち着け。サメは何百種類もいるが、人を襲うサメはほんの一部だ。そしてあれは……。
灰色の背に白い腹部、開いた真っ赤な口にスパイク状の大きな歯が並ぶ。そして四メートルはあろうかという巨体。――ホオジロザメだ。
サメの中で最も人を襲うことの多い、獰猛な種だ。刺激すれば攻撃することがある。クリスはすぐにその場を離れようと、岸へ向かった。
間もなく、海面に出ていたヒレは海中へ沈んで行った。姿が見えなくなってホッとしたのも束の間、それが捕食行動だと悟る。
動くクリスを餌だと認識したのだ。ドッと冷や汗が溢れ出す。
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