エーセブンさんがメスキューくんを乗っ取ってから三十分後。
時刻は十六時を過ぎたあたり。
現在地は、生産棟の屋根の上。点検を目的として設置された安全ガード付きのハシゴに飛びつき、無理やり登りました。わたしの背がやたら高く、手足がむやみに長いことが役に立ちました。
エーセブンさんが乗っ取ったメスキューくんは、生産棟の出入り口に放棄しました。エーセブンさんの頭部は再び、わたしがシーツを結んで作ったショルダーバッグに収まっています。
看護人形とメスキューくんからなる捜索網をかいくぐり、わたしたちは十五分ほど前に地下から地上へと進出を果たし、残りの十五分間は屋根の上で待機していました。
貴重な十五分間を屋根の上で消費した理由は、たった七メートル下の光景にあります。
生産棟の出入り口付近には、看護B班の班長、アルブレット先輩をはじめとした看護人形が六体と、メスキューくんが二十体程度、集合していました。
何やら口頭で指示が下されたのち。看護人形とメスキューくんからなる捜索隊が、急ぎ足で放射状に散っていきました。
五分ほど待ち、誰も生産棟には戻らないことを確認してほっと一息。
ハーロウ:どうにか撒けたみたいです。
エーセブン:で、ありますか。
わたしとエーセブンさんは現在、彼が即興で構築したプライベートな看護網絡もどきを通じて意思疎通しています。
地下からの脱出方法は至って単純でした。地上部の生産棟を通って、堂々と。
奇襲を効果的に成功させる方法は、まさかやらないだろうと思わせておいて、それをやる。
まさかこんな間近、直線距離にして十メートル程度の距離にいるとは思いもしないでしょう。
かつてエリザベスさんがわたしに教え、あまつさえ実践してみせたことです。
生産棟以外にも、当院の敷地には地下への出入り口がいくつか存在します。ただし、まかり間違っても患者さんが地下へ入ってしまわないよう、厳重に隠されています。普段は医療物資輸送ユニットであるメスキューくんしか使いません。
エーセブンさんが看護網絡から盗聴した情報を総合すると、ジュリア看護長はその手の『隠された出入り口』へ対して重点的に網を張っていました。当然です。わたしが同じ立場であればそうするでしょう。
だからこそ、わたしは生産棟を脱出口に選びました。
生産棟の出入り口を張っていた三機のメスキューくんたちに「生産棟の内部でハーロウを発見。捜索に協力せよ」と偽の情報を流して扉を開けさせ、すれ違いざまに脱出したのです。
閉じられつつあった生産棟の巨大な扉をすり抜けた時は、肝が冷える思いをしました。
もしあの場に看護人形がいれば、こんな手は使えなかったでしょう。わたしたちの捜索に割ける看護人形の数には限りがありました。開放病棟の三班からそれぞれ二体ずつ、計六体が捜索に出されたことまでは把握できていました。
患者さんたちは宿泊区画の個室へと誘導されたようです。
エーセブン:まさに兵は詭動なり、でありますな。お若いのに見事なものであります。
ハーロウ:安心はできませんよ。もう盗聴はできないんですから。
わたしたちに騙されたメスキューくんたちは当然ながらわたしを発見できず、感づいたジュリア看護長から訂正の命令が下されました。その頃にはわたしたちは乗っ取っていたメスキューくんを放棄。悠々と屋根の上へ身を隠すことに成功しました。
もっとも、メスキューくんを失った以上、看護網絡の盗聴はできなくなってしまいました。ここからは推測と幸運を頼りに体育館の裏手までたどり着かなければいけません。
ハーロウ:急ぎたいところですが……あとどれくらい保ちますか?
エーセブン:自分に残された時間でありますか? 約三十七分であります。
ハーロウ:え。まだ一時間も経ってません。縮んでるじゃないですか。
エーセブン:なはは。ツクバの機械を動かすのが新鮮でありまして、つい。
つい、ではないのですが。
地上へ脱出されたことを悟ったジュリア看護長は、海岸線沿いにメスキューくんを再配置したことでしょう。もしわたしがジュリア看護長の立場だったらそうします。次に、看護人形とメスキューくんをいったん敷地の中心へ集め、外周に向かって着実に捜索します。いわゆるローラー作戦です。
確実ですが、素直です。
わたしたちが生産棟から脱出したのち、屋根の上でじっと留まる可能性は考慮していなかったのでしょう。
当院の半径は二キロメートル。あの急ぎ足であれば、ジグザグに歩いても三十分程度で外周へ到達するでしょう。
ここから体育館までの距離は約一キロメートル。中心から外周へ向かった捜索隊が、当院を囲うクロマツの防潮林へ入った瞬間が勝負です。視線が通りづらく、意識も木々の陰へ向きがちになります。
それまではここで待機。実質、わたしたちに残された時間は七分程度。
五分。
十分。
十五分。
過ぎていく時間が、とても長く、惜しく感じられました。
急く気持ちをこらえてじっと待機します。時間的な猶予が無いとはいえ、焦って先走り、発見されてしまえばおしまいです。
聞き慣れたぶっきらぼうな声がわたしの背にかけられたのは、そんな時でした。
「ハーロウ」
「――っ⁉」
振り返れば、点検用のハシゴをよじ登るメラニー。小柄ながらふくよかな体が、屋根の上へひょいと降り立ちました。わたしと同様にしゃがみました。
「……どうして、ここが分かったんですか?」
メラニーは太股に頬杖をつき、ふんと鼻を鳴らしました。
「見つからないなら、探してない場所にいる。それだけ」
ジュリア看護長でさえ出し抜いてみせたのに。
「……わたしの居場所を、通報しますか?」
「馬鹿? 通報するなら声なんてかけない」
それは、そうでしょうけれど。
「で。何があったの」
問われた瞬間、あれやこれやと出来事を想起しましたが、ぐっとこらえて言葉を整理しました。
「……わたしとエーセブンさんが、青十字の方々に呼び出されました。彼らはエーセブンさんを廃棄処分すると言いました。シェンツェン大図書館にはエーセブンさんの身代わりが置かれていて、彼が当院に来訪した事実は無かったことにされています」
メラニーは口元に手を当て、しばらく黙考しました。
「……セイカ先生は何て?」
「青十字の方々に賛同するとおっしゃいました。彼の代わりにシェンツェン大図書館から司書人形を搬送されることになりました。ミーム抗体が得られれば、それでいいそうです」
「ハーロウはどうするつもり?」
「エーセブンさんを当院の外へ逃がします。彼がそう望みました。誰が何と言おうと、わたしはわたしに託された患者さんの望みに応えます」
「エーセブンさんはどこ?」
「あー……その……何と言いますか」
わたしは斜めがけにしてお腹に抱えていたシーツ製のショルダーバッグを示しました。
「今はここにいます」
メラニーが眉根を寄せました。
「は?」
ショルダーバッグの中からエーセブンさんが声を発してくれました。
「どうもどうも。サイバネティクスの恩恵にあずかり、現在は首だけで稼働しておりますエーセブンであります。ちなみに残された稼働時間は約二十分であります。まさに風前の灯火でありますな。わはは」
わははではないのですが。
「……と、そういうわけでして」
メラニーは低く唸りながら眉間のしわを揉みほぐしました。じきにため息をつき、前髪を撫でつけました。受け入れたようです。
「……で、逃がすって、どうやって。二十分しかないって言ってる」
「エーセブンさんが乗ってきたポッドがありましたよね」
「体育館の裏手に置いたアレ?」
「そうです。あれに、予備義体が格納されているそうです。まずは彼の体を取り戻してから、脱出方法を考えます」
メラニーが再び眉根を寄せました。眉間のしわ、癖になりますよ。
「無計画。考え無し。馬鹿。怠慢。浅慮」
「し、仕方ないじゃないですか。今だって逃げるのに手一杯なんです」
「南太平洋の真ん中からどうやって脱出するの。脱出できても未病の治療だって終わってない」
「ええ、ええ、手段なんてまだ思いついてませんよ! 治療のことも考えてませんよ! まだ、ですけどね! それとも何ですか、メラニーには考えがあるっていうんですか⁉」
わたしがとうとう逆ギレしたところで、エーセブンさんが取りなしてくれました。
「あいや待たれよお二方。自分に考えがあります。予備義体を得ぬことには叶わぬ考えでありますが」
わたしは無い胸を反らし、ふんと鼻息をつきました。しゃがんだままなので、我ながら滑稽な仕草だとは思います。
「だ、そうです。文句ありますか」
「何を偉そうに……ま、分かった。じゃあメラニーは嘘の通報をする。今から十分後、第四層の南端で発見、西側に逃走された。時間的にもぎりぎり辻褄が合う。十中八九、生産棟は経由しない。どう?」
「どう? って……まさか、わたしに協力してくれるんですか?」
メラニーが眉をひそめ、わたしをねめつけました。
「何、不満?」
「だって、メラニーまで巻き込んでしまいます。あなたまで処罰の対象になります。セイカ先生に叱られてしまうんですよ」
「メラニーもハーロウと同じ誓いを立ててる。同じことをする。だから手伝う。セイカ先生からは何も指示されてない。だから知ったことじゃない」
胸の奥が、カッと熱くなりました。泣き出してしまいそうでした。
「ありがとうございます……!」
味方がいる、ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいだなんて。駆け寄って、思い切りメラニーを抱きしめたい。間違いなく嫌がられるのでやりませんけれど。
「勘違いしないで。これは貸し。もしメラニーが同じ状況になったら、協力してもらうから」
「もちろんです!」
「馬鹿。声が大きい」
「もし、メラニー殿。いったん捜索の手を地下に集めたのち、再び地上へと誘導を願えますかな? 自分の策がより確実になりますので」
再び地上へ? エーセブンさんは何を企んでいるのでしょう。
「努力します。けど約束はできません」
ショルダーバッグからわたしへ視線を転じ、メラニーは端的に、けれど心強い口調で告げました。
「じゃ、行くから」
「はい。あなたの協力は、絶対に無碍にしません」
「期待してない」
そう言い残して、メラニーは点検用のハシゴに取りつき、姿を消しました。
すぐに生産棟の扉が開き始め、低い音がわたしの足にまで伝わってきました。
わたしたちに残された猶予は、実質十分弱。ですが、真っ暗な海原に一体きり放り出されたかのような焦燥感は消え失せていました。
少なくとも、エーセブンさんの予備義体は取り戻せる。その確信が、わたしを勇気づけてくれました。
三分。
六分。
九分。
腰を上げようとしたとき、ふとエーセブンさんがショルダーバッグの中から尋ねました。
「ときに。もしや、メラニー殿も人形網絡へのアクセスモジュールをお持ちでない?」
「あ、はい。そうです。創造主は違いますけど、姉妹機みたいなものです。わたしたち二体だけなんですけど」
「左様でありますか」
素直に答えてしまいましたが、彼はどうしてそう思ったのでしょう。
「さて、そろそろ移動した方が良いかと考える次第であります」
「……そうですね。では、揺れます。聴覚以外はオフにしてください」
「合点承知であります」
生産棟の屋根から地上へ、七メートル程度の高さを一気に飛び降りました。
落下のエネルギーを脚と背筋に溜め、腱の反発力を推進力へと変換。
看護人形はとても丈夫なのです。骨が軋みましたが無視。
最高のスタートを切ったわたしは、遠くに見える体育館まで一直線に駆け出しました。
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