人形たちのサナトリウム

- オーナレス・ドールズ -
片倉青一
片倉青一

7-7「人形の意識と無意識」

公開日時: 2021年5月18日(火) 18:00
更新日時: 2021年12月15日(水) 15:33
文字数:4,516

 人形網絡シルキーネットに繋がない限り、人形は目覚めない?


「どういう……ことですか」

「人形の精神構造設計が、唯識論をベースにしていることはご存じでありますか?」

「あ、はい……精神構造設計を抽象的に表現した基本思想フレームワークですよね」


 研修期間、バンシュー先生から学びました。

 唯識論を大雑把に説明すると、心の働きは八つの『識』に分解でき、それらが相互作用している、と考えるものです。


 表層の『識』が六種類。

 うち、げんしきしきしきぜつしきしんしきの五つは、いわゆる五感に対応します。

 前五識と呼ばれるこれら五つの働きを統括するのが、第六の識、意識です。


 深層の『識』が二種類。

 末那まなしき阿頼耶あらやしき

 末那識は自己を定義し、自己に執着します。人形が意識を落とした休眠状態から目覚めても自己が連続していると感じられるのは、末那識の働きによるものです。

 阿頼耶識は、いわば情報の貯蔵庫です。表層の意識が得た情報をことごとく蓄え、必要に応じて表層の意識へ情報をフィードバックします。


 人形は表層の前五識から得た情報のうち、当座の活動に必要な情報を意識で利活用します。一方で、表層の六識で得られた情報は全て阿頼耶識に収蔵され、阿頼耶識はふとした拍子に表層の意識へ情報を渡します。

 表層の意識と深層の意識との間で相互に情報をやりとりする働きを、しゅうくんじゅうと呼びます。例えば、直観やひらめきは、阿頼耶識から情報がフィードバックされることによって発生する現象です。


 バンシュー先生が言うには、四分三類境によって『識』の性質を詳細に分類できるとか。あとは『識』の働きも実際には『くう』であって、実体を持たない見せかけの作用に過ぎない、とか何とか。このあたりになると、まだわたしの理解が追いついていないのですが。


人形網絡シルキーネットは、人形の阿頼耶識であります」


 まさか。


「人形は無意識を共有しているってことですか?」

「まさしく。より正確に言えば、個体ごとの阿頼耶識が、人形網絡シルキーネットという阿頼耶識と接続している、と言うべきではありますが。目覚める前の人形に関して言う限りでは、人形網絡シルキーネットのみが阿頼耶識であります」


 そんな馬鹿な。


「嘘ですよ。だって、そんなことをしたら、心の個性が無くなってしまうじゃないですか」

「逆であります。自己を定義する末那識と阿頼耶識のコントラストこそが、人形における心の個性であります。意識の標準フレームワークがあるからこそ、人形は個性を獲得できるのであります」


 まるで、ユング心理学における集合的無意識です。ヒトにおいてはもはや疑似科学、あるいはオカルトと見なされた概念ですが――

 ……いえ。今は集合的無意識がどうの、というのは重要ではありませんね。


人形網絡シルキーネットが人形の阿頼耶識であることと、『人形の目覚め』がどう関係するんですか?」

「成長の過程を経ずに製造される人形は、中身が空っぽであります。ゆえに、表層の意識と深層の意識との間で情報を交換するサイクル、いわゆるしゅうくんじゅうが働き始めるきっかけを持たないのであります」


 確かに、しゅうくんじゅうが働かなければ人形の『心』は成立しません。


人形網絡シルキーネットは、いわば出来合いの阿頼耶識であります。人形を目覚めさせる際、人形網絡シルキーネットはブートストラップローダとして利用されるのであります」


 エーセブンさんの解説は、筋が通っています。

 ヒトは成長の過程を経ることで、常に外部からの刺激を得ます。意識と無意識の間で行われる情報の交換サイクルが、成長という時間変化によって半ば自動的に引き起こされるのです。

 一方、人形は肉体的に成長しません。心が成立するためには、情報の交換サイクルが発生するトリガーが必要です。人形網絡シルキーネットへの接続は、確かに目覚めのトリガーとなるでしょう。

 けれど、わたしには、目覚めたときから介入共感機関がありました。元々は人形網絡シルキーネットへのアクセスモジュールがあった、とも考えづらい。介入共感機関は五感全てに作用します。こんなもの、生まれつき持っているのでなければ、御することさえ困難です。


 エーセブンさんが興奮した面持ちでまくしたてます。


「実に、実に興味深くあります。もし本当にハーロウ殿が人形網絡シルキーネットへアクセスしたことが無いのであれば、人形製造の常識を覆す斬新な手法が存在することになります」

「……と言われてもですね。わたしは人形の精神構造についてそれなりに知ってますけど、あくまでそれなりです。人形造形技師ほどの知識はありませんよ」

「何でも構わないのであります。そう、ちょっと変わった機能モジュールを積んでいる、と言っておられましたな。一体何を積んでおられるのでありますか?」

「それは……」


 できれば、介入共感機関については言及したくありません。

 わたしは、銃よりも暴力的なこの介入共感機関が大嫌いです。だってわたしは、人形の味方です。そんなわたしが人形を害しうる機能を持っているだなんて、許されるなら誰にも見せたくありませんし、自分で再認識するのだってまっぴらごめんなのです。わたしは、患者さんに怖がられたくありません。

 あるいはエーセブンさんなら、嬉々として耳を傾けるかもしれません。患者さんから求められれば、可能な限り応じるのが看護人形の務め。けれど、やっぱり介入共感機関については――


 と。

 それまで黙っていたラヴァさんが割って入りました。


「はい、そこまでにしよう、エーセブンさん。ハーロウちゃんが困ってる」

「しかし、であります。これはともすれば世紀の大発明であり――」


 温和なラヴァさんが、珍しく引き下がりませんでした。


「どのように造られたのかなんて、どうでもいいじゃないか。俺も人形、君も人形、彼女も人形。人形は与えられた仕事をこなせばいい。お互い、仕事の邪魔はされたくないだろう? お互いに折り合いを付けるってのが人形同士の約束だ」


 エーセブンさんが二度、三度と瞬きをしました。じきに、気まずそうに眉尻を下げました。


「……は。失敬しました。ハーロウ殿、出過ぎた真似をしました」

「いえ、大丈夫です。今のエーセブンさんは、そういう状態ですから。わたしがちょっと変わった人形であることも事実ですし」


 内心ではほっとしていました。いつか介入共感機関について明かさなければならない時が来るでしょう。けれど、できれば先送りにしたい。


「確かに、自分の思考傾向は暴走気味なようであります。自分の役目は、ここ、止まり木の療養所がどのような施設であるか記録すること。再確認しました」

「はい。失念していたらまた止めますね。ラヴァさんもよろしくお願いします」

「あいよ。で、次はどこに行こうか」

「まだお昼を過ぎたばかりですから、海岸沿いを歩いてみましょうか」


 三体連れだって、二キロメートル先にある松林を目指して歩き始めました。

 エーセブンさんはわたしに遠慮したのか、ラヴァさんに質問を投げ、ラヴァさんでは分からないことにだけわたしに質問が振られました。


 おかげでわたしは思考リソースを先ほどのエーセブンさんの発言に割くことができました。

 わたしはかつて、レーシュン先生に尋ねたことがあります。緩慢に壊れていくトニーくんを、どうにかすることはできないのか、と。

 レーシュン先生はこう答えました。



 ――アンソニーの模倣脳を丸ごと新品に取り替え、末梢神経との較正キャリブレーションを施し、人形網絡シルキーネットに接続すれば、模倣脳は目覚める。



 あの時のわたしは、トニーくんのことで頭がいっぱいで、レーシュン先生の発言をじっくり吟味できませんでした。

 けれど。

 レーシュン先生はいつだって、物事を正しく端的に述べます。あの時に答えてくださった内容も、技術的な手順を正しく端的に述べたに違いありません。


 だとすれば。

 やはり人形網絡シルキーネットに接続しなければ、新品の模倣脳は目覚めない?

 だとすれば、バンシュー先生やセイカ先生は、わたしやメラニーをどうやって造ったのでしょう。何のためにそんな造り方をしたのでしょう。

 なぜ、わたしたちにはそのことを教えてくれなかったのでしょう。

 ジュリア看護長から看護網絡ナースネット経由でわたしに呼び出しがかかったのは、そんなときでした。



ジュリア:@ハーロウ セイカ先生が呼んでる。エーセブンさんを連れてきて。

ハーロウ:@ジュリア あ、はい。分かりました。



 返事をしつつ周囲を見回して、自分の沈思ぶりに我ながら呆れてしまいました。

 まだ海岸にさえ着いていませんでした。現在地は、開放病棟からほど近い庭園。庭園を造成した建設人形レイバーさんについて、エーセブンさんがラヴァさんを質問攻めにしていました。

 この様子だと、わたしはろくな返事を返せていなかったに違いありません。

 看護人形が患者さんではなく自分のことばかり考えていただなんて。

 わたしはまだまだ未熟者です。

 ラヴァさんを質問攻めにしているエーセブンさんへ声を掛けました。


「エーセブンさん。セイカ先生が呼んでいるそうです。わたしについてきてくれますか?」

「は。承知しました。いやあラヴァ殿、ご回答に感謝であります」

「どういたしまして。ハーロウちゃん、俺はどうすればいいかな」

「ラヴァさんは自由時間をお好きに過ごしてください。同行ありがとうございました」

「じゃあ日なたぼっこでもしていようかな」


 特段の用事が無いとき、ラヴァさんは決まって敷地内の芝生に座り、空をぼんやりと眺めています。

 手を軽く上げてラヴァさんが立ち去り、さて、とお互いに一息つきました。


「それにしても、昨日の今日で召喚とは、一体何用でありましょうか。自分はおよそ話せることを全て話したはずでありますが」

「それもそうですよね……ちょっと聞いてみます」


 看護網絡ナースネット経由で、ジュリア看護長に再びチャットを投げました。



ハーロウ:@ジュリア エーセブンさんからことづてです。ご用件は何ですか?

ジュリア:@ハーロウ お客様だよ。

ハーロウ:@ジュリア お客様? 当院にですか?

ジュリア:@ハーロウ いいから連れてきて。



 ……嫌な予感がします。

 当院の患者さんに、お客様なんて来るはずがないのです。



ハーロウ:@ジュリア 分かりました。場所はどこですか?

ジュリア:@ハーロウ 第五層。生産棟から階段一本の区画。権限は渡してある。

ハーロウ:@ジュリア 分かりました。すぐに向かいます。



 通信を打ち切り、わたしは眉間を揉みました。


「して、何と?」

「……お客様、だそうです」


 エーセブンさんはひょいと首をかしげました。


「はて。自分に客人、でありますか。実にきな臭くありますな」


 きな臭いと言いつつ、明らかに楽しんでいます。好奇心、やっぱり暴走してますね。


「エーセブンさん」

「は。何でありましょうか」

「わたしは常に、あなたの味方です。あなたがどのような存在であろうと、わたしはあなたを肯定します。あなたが求めるなら、わたしはあなたのために全てを捧げます」

「急にどうしたのでありますか?」

「念のため、です。どうかわたしを信じてください。わたしもあなたを信じますから」

「ふむ。あい承知しました。ハーロウ殿を信じます」

「では、生産棟へ。用事が終わったら、ついでに当院の『二大株』でも見ていきませんか?」

「ほうほう、二大株でありますか。それは嬉しい提案でありますな」


 どうか、杞憂に終わればいいのですが。

 どうにも、今回ばかりは外れる気がしない予感でした。


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