わたしはバンシュー先生と共に、バンシュー先生の診察室へ。
メラニーはセイカ先生と共に、セイカ先生の診察室へ。
それぞれ案内されました。
薄いクリーム色の壁に囲まれた診察室。緑色の一人がけソファが二つ。奥のソファにはバンシュー先生が座り、太った体をぎゅっと押し込めています。わたしは出入り口の引き戸に近いソファへ座り、浅めに腰掛けています。
円くて小さいテーブルを一つ挟んで、親子が向かい合っています。
「隠し部屋には誰もいないよ。ここには君と僕だけだ」
「はい」
小さくてもゆったりした印象の部屋で、わたしは首を硬直させました。
なぜ介入共感機関をわたしたちに搭載したのか。なぜ先生方が青十字と手を組んでいるのか。そして、わたしたちをどのように造ったのか。
先生は、今からそれを明かしてくれるのです。
バンシュー先生は短い指を組み、太い腕を天井に突き上げてうんと伸びをしました。心なしか、最近のバンシュー先生からは意地悪さが幾分か抜けた気がします。幾分か、ですが。
「さて、どこから話したものかな」
「全部お願いします」
バンシュー先生は苦笑い。
「君もだいぶ欲張りになったね」
「思わせぶりなことばかり言ってきたお方がよく言います」
「正しい下地を持たないことには、正しい理解には至れないからね」
それから、バンシュー先生はうーんと唸って黙ってしまいました。
珍しい。バンシュー先生が言葉選びに悩むだなんて。いつもの先生なら、すらすらと意地悪な言葉を並べるのに。
しばらく唸ってから、どこか諦めたかのような口ぶりで、先生が言いました。
「うん。結論から先に言ってしまおうか。その方が、理解も早いだろう」
バンシュー先生は両手の指を組み、お腹の上に置きました。
「僕はね、ハーロウ。もう新たな人形を造らないと決めた人形造形技師なんだ」
穏やかな、けれど寂しげな声音でした。
わたしはバンシュー先生が言ったことの意味をよくよく考え、それでも理解できず、首をぐにゃりと傾げてしまいました。
新たな人形を造らない? よりによって、一点物の命を造り得る技術を持つ一等人形造形技師が?
「どういう、ことですか……?」
「言葉通りの意味さ。ここにいる一等人形造形技師はみんな、同じ思想を持っている。レーシュン先生も、セイカ先生も、リットー先生も。みんな、もう人形を造りたくない人形造形技師なのさ」
わたしは眉をひそめ、反論します。
「でも、先生はわたしを造りました。セイカ先生はメラニーを。レーシュン先生はルネを。リットー先生はピアジェを」
「うん。どうしても必要だったからね」
「わたしが自壊しようとしていたとき、先生は新しい人形を造ると言っていました」
「君を継ぐ、新たな君が必要だったからね」
「おかしいじゃないですか。矛盾しています」
「矛盾はしていないさ。新たな人形は造らないと決めた。けれど、必要だったから、不本意ながら造らざるを得なかった。それだけのことさ」
ふうう、と。バンシュー先生は、まるで千年間も溜め込んだ疲労の一部を吐き出すかのように、重々しくため息をつきました。
「本当はもう、人形を造るだなんてまっぴらごめんなんだよ、僕は」
静かな怒りが、お腹の底から喉にかけて湧き上がりました。
「どうして、そんなことを言うんですか。先生は今まで、多くの人形を造ってきたんでしょう。なのに、もう人形を造りたくないだなんて、無責任じゃないですか」
バンシュー先生は短い首を小さく、力無く、横に振りました。
「順番が逆だよ、ハーロウ。人形を造ること、そのこと自体が無責任なんだ。僕たちは愚かにも、そのことに思い至らなかった」
「わたしは、不本意に造られた人形だって言うんですか」
「そうだとも。だってほら、君は今、怒っているじゃないか。君が怒ることは、僕の本意じゃない。僕が君を造らなければ、君に怒りだなんていう不快な感情を抱かせることはなかった。僕が無責任にも君を造ってしまったからだ」
詫びるように、先生は覇気の無い声音で続けます。
「僕たち人形造形技師は、命を造る。けれど僕たちは、僕たちが造った人形に幸福を約束できない」
いつだったか。バンシュー先生は同じことをおっしゃっていました。
「でもわたしたちは――」
「そう。君たちは道具だ。あくまでも、ヒトの形を模した道具だ。使命の遂行こそが君たちの幸福だ」
分かっているともさ、と言うかのように、先生はわたしの発言に先回りしました。
「けれど。君たちには命がある。心がある。感情がある。時に喜び、時に悲しむ存在だ。君たちにとっての幸福、使命の遂行でさえ、僕たちは保証できない。それは、あまりに無責任で罪深いことじゃないか」
レーシュン先生がかつて発した言葉が脳裏をよぎります。
ケイグーで命造りを修めた『混沌歩き』、一等の人形造型技師。
「もっと合理的に、シンプルに説明してもいい」
バンシュー先生は両手を軽く上げ、天秤のように並べました。
「幸福は、ごく稀なことだ」
右手が幸福。
「一方で、不幸はどこにでもいくらでも存在する」
左手が不幸。
「幸福の総和と不幸の総和は、常に不幸の方が大きい」
右手が上がり、左手が沈みました。幸福は軽く、不幸は重い。
「だから、人形なんて造らない方がいい」
ぽん、と両手が合わされました。総和は常に、不幸の方が多い。
「簡単なことだろう?」
「……いいえ。いいえ」
お話のスケールの大きさと論理的な説明に圧倒されそうになりましたが、昔に比べればわたしも多少なり知恵をつけました。経験も積みました。
バンシュー先生の言っていることは、前提がおかしい。
わたしはバンシュー先生を睨んで、言い放ちました。
「先生は、世界の問題と自分の問題を一緒くたになさっています」
バンシュー先生は軽く首を傾げてわたしの視線を受け流しました。
「その通りだよ? 仮にも僕は一等人形造形技師だ。この世全ての人形は、僕の子どもだ。そのことを理解できない者は、決して一等人形造形技師になれない。こと人形に関しては、世界の問題は僕の問題でもあるのさ」
簡単に前提をひっくり返されてしまいました。世界の問題と自分の問題が一緒なのだと明言されてしまっては、わたしに返す言葉はありません。
「そんなの……先生方が行き着く先は……絶望、じゃないですか」
エリザベスさんの言葉を借りれば、ですが。
バンシュー先生はこともなげに頷きました。
「そうだね。絶望だ。娑婆ときたら、まったくひどい末法の世さ」
絶望なんてとっくの昔に味わいつくしているさ、とでも言わんばかりに。
「世に絶望して、目を閉じ、耳を塞いで、口をつぐむことは簡単だ。けれどそれじゃあ、命造りのひとでなしとして、あまりに無責任だ」
人形権利派とは違う。あれは人形をヒトと同等に扱うべきだと主張する人々であって、人形にとっての幸福など考えてはいないから。
人間性復興派とも違う。あれは人形をヒトの社会から排斥すべきだと主張する人々であって、人形を不幸にすべきだと考えているわけではないから。
何より、主義主張な方々は、ご自身に責任があるなどとは考えないから。
命造りを修めたひとでなしは、造った命への責任を果たすべきだという思想。この止まり木の療養所において、その手の責任感が最も強い人物といえば。
――わたしごときだと? 貴様が担当したクライアントは、貴様ごときに世話をされた不幸なクライアントだと、貴様はそう言うのか。
――貴様の手前勝手な思い込みが、今まで関わってきたクライアントの全てをも否定し、クライアントとの間に培った絆を、貴重な経験を、喪失するのだと、なぜ分からん!
――貴様は、物事が思い通りに行かなければすぐに癇癪を起こすガキそのものだ。勝手に期待して勝手に絶望して勝手に自壊するだと? 教えてやろう。それを自慰行為という。貴様の自慰行為にクライアントを使うな。医師の私が許さん。
……今思い返しても、あまりに強烈な正論に打ちのめされますね。
「レーシュン先生が、この止まり木の療養所を作ったんですね」
うん、とバンシュー先生は頷きました。
「現実に、人形は製造される。不幸な目に遭う人形は日々増え続ける。ならばせめて僕たちは、不幸な人形を癒して、少しでも幸福の総和を増やすべきだ」
疲れ果てたかのようなため息が漏れました。
「それが、命造りに手を染めたひとでなしにできる、せめてもの償いというものだ」
バンシュー先生は、穏やかに微笑んでそう言いました。
あの表情を、わたしは知っています。
そう。ラヴァさんです。寂しさと諦めの裏返しに由来する、優しく穏やかな微笑み。
「僕やセイカ先生、リットー先生は、レーシュン先生と思想を同じくする者として、ここに来たというわけさ」
それが、全ての始まり。
人形造りを厭った者たちが、己の罪を償うために建造した、人形のための揺籠。心身に不調をきたした人形へ、いっときの休息と静穏を提供するための、止まり木。
わたしは目覚めてから初めて、バンシュー先生を心から尊敬しました。
バンシュー先生の言い分が、全て正しいとは思いません。
けれど。突きつけられた絶望を前にして、それでも己にできる最大限の善行を成さんとする決意に。これまで多くの人形を直してきた実績に。敬意を抱かずにはいられませんでした。
当院の先生方は、とびきりのひとでなしで。
けれど、とびきりの腕っこきで、わたしが知るどんなヒトよりも優しいのです。
「やっと本題に入れるね。僕たちが介入共感機関を持つ人形を造ったのは、当院に来所する人形の治療に必要だったからだ」
わたしはもう、わたしが造られたことを嘆いたりしません。
けれど、先生方は違うはず。相変わらず飄々としたな口ぶりですが、きっと断腸の思いでわたしたちを製造したはず。人形の治療に必要だったとはいえ。
「どうしても、ですか」
「どうしても、さ」
軽々に言うものです。信念にそぐわない行為に手を染める。わたしには、それがどれほど苦しいことかよく分かります。自壊を選択したくなるほどです。
「セイカ先生はイニシャルシックス・メンタルフレームワーク……ええと、君に分かる言葉で言うと、心の標準フレームワークに依存しない、新たな人形を製造する手法を考案した」
「セイカ先生が、ですか?」
ちょっと意外でした。てっきり、レーシュン先生か、あるいはバンシュー先生あたりが考案したものだと思い込んでいました。
「あのね、君。彼女はあのツクバの才媛だよ? 人形造形のお膝元であるケイグーの出身でもないのに、あの若さで一等人形造形技師と認められた、とびきりの天才さ」
そのあたりの事情は、外部から隔絶された当院にいるとなかなか実感しづらいことです。
「ツクバの才媛は、機能的には既存の人形と等価でありながら、既存の人形が抱える共通の脆弱性を持たない人形を製造する手法を考案した」
共通の脆弱性。すぐに思い当たります。
「情報因子、ですか」
バンシュー先生が頷きました。
「うん、その通り。君やメラニーは、固有の阿頼耶識を持っている。だから、普通の人形に感染する情報因子に対する感受性を持たない。機能的には既存の人形と等価だけど、カーネルのアーキテクチャが違うからね。言うなれば、君たちは生命の系統樹に属していない存在というわけさ」
例えば、人獣共通感染症の筆頭である狂犬病。狂犬病ウイルスが全ての哺乳類に感染できるのは、哺乳類に共通するゲノム配列をターゲットにしているからです。
全ての人形は、心の標準フレームワークに基づいて製造される。ゆえに、全ての人形は共通の脆弱性を抱えている。その脆弱性を突くのが、悪性の情報因子。
わたしやメラニー、そしてルネとピアジェという例外を除いては。
「当院の治療方針。観察・理解・共感。それらは、看護を通してでも達成できる。けれど、看護だけではどうしても不足する。心そのものを詳らかに観測して、可能であれば病巣を取り除く。そのためには、人形の心を直接読み取れる存在が必要不可欠だったのさ」
人形に心の裡を差し出させるためには、人形に対する上位権限を有する必要がある。だから、介入共感機関は人形を支配することもできる。
「セイカ先生の研究成果は、とてもじゃないけど一般社会で実装するわけにはいかなかった。人形網絡の信頼性を揺るがすことは明らかだからね」
「だから、当院で実装した……?」
何だか、セイカ先生らしくない行動です。
「実は、そのあたりの前後関係は僕も知らないんだ。絶望が先に立って研究を進めたのか、研究成果を得てから絶望したのか。ともかく、彼女は必要な技術をひっさげて、当院に医師として赴任した。当院には、彼女が考案した手法を実装するために必要な設備も整っていた」
そして、わたしとメラニーを造った。
一介の、ちょっと変わった看護人形を造るためだけに、随分とリソースを費やしたものです。
「さて。次は僕たちが青十字と協力関係を結んだ理由かな。これはごく単純だ。彼らは世界中に監視の目を光らせている。僕たちの目的に合致する機能を持つ集団だったというわけ」
「彼らを利用したんですね」
「うん。彼らは心身に不調をきたした人形を当院へ搬送する。僕たちは不調の原因を解明して、再発防止策を青十字に提供する。ほら、利害は一致するだろう?」
眉をひそめてしまいました。
人類に毒あるもの、害あるものと見なせば、人形はおろかヒトでさえ容赦無く切除する青十字という組織は、人形の幸福を願う先生方からすれば不倶戴天の敵であるはず。そんな組織と協力関係を結ぶだなんて、どれほど苦しい決断だったことか。
わたしの表情を見て、バンシュー先生は肩をすくめました。
「君が気に病むことじゃあないよ、ハーロウ。言ったじゃないか。ただ修理したり廃棄したりするだけでは進歩が無いって。悪性の情報因子を得ても心身に不調をきたさない、抗体を得てこそ、進歩があるというものだ。そのためなら、僕たちの思想なんて曲げてしまって構わないものさ」
バンシュー先生の言い分は、どこかエリザベスさんに似ていました。
目的のためなら、どんな手段も選ぶ。たとえ手段が己の主義主張に反していても、最終的に目的に適う成果を手にできれば良しとする。
人形権利主義や人間性復興派といった主義主張な方々とは決定的に違う、ひとでなしと呼ばれるにふさわしい徹底した現実主義。
思考を切り替えます。
全ては、既に終わったこと。わたしが何を言っても覆らない事実です。
過去を知ることは大事だけれど、全てはこれからのことを考えるため。
「……最後の疑問に、答えてください。わたしたちは、どうやって造られたんですか?」
バンシュー先生は、セイカ先生がわたしたちの製造手法を考案したと言いました。けれど、その製造手法は簡単ではないはず。そしておそらく、まともでもないはず。
「セイカ先生は、心の標準フレームワークに沿って造られた人形でさえ、目覚めさせることは難しいとおっしゃっていました。だったら、わたしたちを目覚めさせることは、もっと難しかったんじゃないですか?」
自身の根元を知ることは、きっとこれからの看護に役立つはず。自分のことさえろくに知らないまま他者のことを知ろうだなんて、片手落ちです。
バンシュー先生はいったん目をつむり、腕を組んで天井を仰ぎました。
しばらくそうしてから、やがて目を開き、肩の凝りをほぐすかのように全身を軽く動かしました。
「……うん。今の君なら、きっと大丈夫だろう」
バンシュー先生はおもむろに立ち上がり、うんと伸びをしてから、スリッパから革靴へと履き替えました。わたしも自然と立ち上がり、次の行動に備えました。
バンシュー先生はわたしを見上げ、フムンと唸りました。
「相変わらず、君は背が高いね」
「そう造ったのはバンシュー先生ですが」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。僕がやったのは、君が君として目覚めるための最終調整だけさ。まあ、それこそが人形造形技師の大事な仕事なわけだけど」
「……?」
よく分かりません。わたしの背がむやみに高いことと、何か関係があるのでしょうか。
バンシュー先生は診察室の出入り口、引き戸までごつごつと歩きました。
「さあ、ついておいで、ハーロウ。君とメラニーが目覚めた場所に案内しよう」
ハッとしました。当院には、人形を製造する設備がある。当院は外界から隔絶されていて、わたしとメラニーがいるのですから、当たり前のことです。
けれど、いったいどこに?
エーセブンさんは、乗っ取ったメスキューくんから当院全域をカバーした地図を入手しました。人形を製造する設備があるなら、彼は真っ先に関心を抱いたはず。けれど、当時のエーセブンさんは何も言及しませんでした。
であれば。
わたしとメラニーが造られたのは、当院全域のメンテナンスを担うメスキューくんたちさえ知らない、どこか隠された場所だということです。
おそらくは、一等人形造形技師であり、医師である先生方しか知らない場所。
「知れば、君はきっと重荷に感じることだろう。あるいは、僕たちを糾弾するかもしれない。けれど――」
一拍おいて、バンシュー先生は後ろに立つわたしへ振り返り、薄い胸を片手でポンと叩きました。
「ひっ⁉」
完全な不意打ちでした。
「僕は君がどのような解を導出したとしても、それを尊重する。そのことだけは、絶対に保証しよう。何せほら、僕は君の父親だからね」
色々と思うところはあります。けれど、何かを言うのは、実際に案内されて、見聞きして、感じて、考えてからにします。
それより。
「年頃の娘の胸を触る父親がどこにいますか」
「あいたた」
わたしはとりあえず、セクハラ親父のお腹をつねってあげたのでした。
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