盛夏はすっかり過ぎ去って、庭園の落葉樹がほのかに色づき始めた、初秋。
わたしがその日の夜勤を終えて、何とはなしに朝の散歩に出ていた時のことでした。
当院の敷地を覆う芝生に、見慣れない人形がぽつねんと座り込んでいました。
遠目から見ても分かるほど、その人形は不安そうにきょろきょろとあたりを見回していました。
さく、さく、と芝生を踏んで、ゆっくりと近寄ります。なるべく警戒感を抱かせないよう、自然に。大きすぎず、小さすぎない足音を心掛けて。
わたしの足音に気づいた男性型の人形はぎょっと目を見開き、座ったままじりじりと後じさりしました。
頭部のアンテナを隠すシンボルは、麦わらで編んだ中折れ帽。野良作業に適したカーキ色の上着、厚手の黒いカーゴパンツ、脛をすっぽりと覆う茶色のロングブーツ。
ひときわ目を引くのは、大事そうに抱えたクエスチョンマーク型の杖。?の曲がったところに、小さなベルが吊られています。
たしか、羊飼人形だったでしょうか。人里離れた牧草地にて家畜の放牧を担う、農園人形の親戚です。仙丹で生成される人工タンパク質や人工羊毛が気に入らない方々のために、天然物のお肉や動物性繊維を生産する人形。
三歩ほど離れた距離から、わたしは声をかけました。
「初めまして、こんにちは」
ひゅっ、と羊飼人形さんが息を飲みました。チリン、と杖のベルが鳴りました。
「ああ、落ち着いてください……と言っても、無理な話ですよね。でも、どうか安心してください。ここは落ち着いても大丈夫な場所ですよ」
まったく、青十字ときたら。相変わらず人の心が無い。
患者さんを搬送したなら、ほったらかしにしないでわたしたちに一報を入れていただきたい。何のために監視役を当院に置いているんですか。後で文句を言っておかないと。
「ここは止まり木の療養所です。わたしはご覧の通り、看護人形です。ハーロウといいます」
「療養、所……? 看護、人形……?」
「はい。療養所で、看護人形なんです」
わたしはちょっとおどけて、両手の示指でナースキャップを示しました。型押しの、丸みを帯びた十字の両脇に、向かい合う小鳥をあしらったエンブレム。
「突然のことで、さぞ驚かれていることでしょう。すみません、うちの者はそそっかしいもので。何か乱暴など、されたりしていませんか?」
羊飼人形さんはゆっくりとご自身の体を見回して、それから首を弱々しく横に振りました。
「いえ……気づいたら、ここにいました。他には、何も……」
フムン。わたしに対する反応を見るに、青十字のことはご存じでない様子。重畳重畳。あんな方々のことを知るだなんて、記憶野の無駄遣いですからね。
「ここは、一体……? シティ・ヴェアンでは、ないんですか?」
シティ・ヴェアン。ユーラシア大陸の西側、山岳部に位置する都市だったでしょうか。
「いいえ。ここは止まり木の療養所といいまして。簡単に言うと、人形のための病院です」
「病院……僕は、病気なんですか?」
「どうでしょう。わたしはお医者様ではありませんので、あなたが病気なのかどうか、診断はできません。あなたをここに運んだ方々の勘違いかもしれません」
どこかで聞いたような会話をしていますね、わたし。
「ご安心を。当院には、世界屈指の医師が四人もいらっしゃいます」
「医師……ですか? 技師、ではなくて?」
「はい。絶滅危惧種の医師です。もちろん一等人形造形技師でもあります」
だいぶ混乱なさっているご様子。無理もありませんが。
けれど、わたしやこの場に対する警戒心は薄れてきたようです。
「まあ、詳しいことは医師の先生方に診ていただくとして」
わたしは静かに一歩、二歩、と歩み出て、片膝を着きました。長い手を差し伸べて、友好の意を示しました。
「改めまして。わたしは看護人形のハーロウです。まずは、あなたの個体識別名称をお聞かせいただけませんか?」
羊飼人形さんは片手に杖を持ったまま、もう片方の手でおそるおそるわたしの手を取りました。ゆっくりと引っ張り、立ち上がってもらいます。
うーん。わたしのほうが背が高い。彼も背が低いわけではないのに。威圧感を与えていなければいいのですが。
「ええと……僕の個体識別名称は、ダヴィッドです」
「はい、ダヴィッドさん。止まり木の療養所は、あなたの来所を歓迎します」
ダヴィッドさんの手を引いて、開放病棟へと案内します。
「短い間かもしれませんし、ちょっと長くなるかもしれませんが。どうか、わたしと仲良しになってくれませんか?」
「はあ……」
戸惑っているご様子。出会ったばかりの人形に「仲良くしてくれ」と言われれば、それはまあ戸惑うでしょうね。
「大丈夫ですよ。時間はたっぷりありますから。さ、こちらへ」
ダヴィッドさんの手を引きながら、わたしはふと、初秋の空を見上げました。
抜けるような、高い高い青空。
外部からの干渉を受け付けず、外部への干渉を許さない、どこでもない場所。
あの高い高い空から見れば、わたしは南洋に隔離された魔女です。
人形を支配する権能を有し、人形網絡の信頼性を根底から覆す、異分子です。
けれど。わたし自身は、常に一介の看護人形を任じます。
現に、今のわたしが手に握っているのは、世界の命運などではなく、今ここにいる新たな患者さんの体温。
これこそが、わたしが大切にすべきこと。世界のことなんて、わたしの知ったことではありません。
一歩、また一歩と歩くたび、手に伝わる、ダヴィッドさんのおぼつかない、不安そうな身体操作。どうやら杖を使うことさえ忘れているようです。
わたしは手を軽く握り直して、大丈夫ですよ、と言外にダヴィッドさんへ伝えます。
チリン、と杖のベルが鳴りました。
ようやく杖を使うことを思い出してくれたようです。チリン、チリン、と歩調に合わせてベルが鳴り始めました。
わたしは悟られないようにこっそり微笑んで、開放病棟の出入り口を目指します。
わたしたちの日常は、これからも続いていきます。
観察・理解・共感の繰り返しを、わたしたちが続けていくのです。
ですから。
もしいつか、あなたが心身に不調をきたしたなら。
あなたがあなたの使命を遂行できなくなったなら。
どうか当院に来所なさってください。
止まり木の療養所は、いつでもあなたの来所をお待ちしています。
あなたがいっときの休息と静穏の時間を過ごして、いつかまた、飛び立つ日のために。
人形たちのサナトリウム - オーナレス・ドールズ -
完
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