命題。わたしは、常に人形の味方である。
事実。わたしは、人形に仇成すものである。
事例。トニーくんの幸福を決めつけ、自己満足のために『治療』を試みた。
矛盾。命題と事実は同一個体に同居できない。
解決。わたしは常に人形の味方であるために、人形に仇成すわたしを討つ。
未遂。わたしはわたしを能動的に討つことを禁じられている。
検証。命題を演繹し事実を帰納せよ。
目を開けば。
横向きの視界に、いつもと変わらない保護室。
低いベッドと簡素なトイレがあるきりの、窓さえ無い狭い部屋。
壁も、床も、天井も、衝撃に反応してスポンジ状に変形し、対象の運動エネルギーを吸収する多態樹脂。
本人も含め、何者をも傷つけさせない、揺り籠に敷かれた毛布のような部屋。
そして。
くるぶしまで隠す長く黒いワンピースドレスと、白く小さなエプロン。
「ごきげんよう、ハーロウ様。本日も、腐臭ぷんぷんたる生ぬるいドブ川に首まで浸かって沈思なさっていらっしゃいますね。このドブ川のドブ川っぷりたるや、テムズの泥ひばりも裸足で逃げ出す始末」
お上品な発音には到底そぐわない、毒まみれの悪口雑言。
いつの頃からか。
エリザベスさんが、朝から晩までわたしの隣に佇むようになりました。
ベッドで縮こまるわたしの傍らに、ずっと立つようになりました。
なぜかは知りません。知ろうとも思いません。
「まさに陰の風、滅の雨。だあれが殺した? クック・ロビン、てな具合でございます。それはわたしと看護人形が言った。わたしの観察・理解・共感で。わたしがあなたを救います」
相変わらず、ぺらぺらと舌が回ります。疲れないんでしょうか。
「それでは六時のニュースでございます。まずはお天気情報。本日も雲量ゼロ。うんざりするほど真っ青な快晴でございます。最高気温は摂氏二十六度。最低気温は摂氏十八度。ま、引きこもっている限り関係ございませんが」
わたしは反応しません。
エリザベスさんの言うとおり、天気なんてわたしには関係ありませんから。
「続きまして院内のお知らせでございます。新年祭が近づいてまいりました。午後のワークショップでは飾り付けと催しの準備が進んでおります。古今東西における新年の催しを、コンクリートミキサーにかけてぶちまけることとなりますでしょう。ま、わたくしども人形に祈る神はおりませんので、ごちゃ混ぜにして叱る神もまたおりません」
季節感を失わないよう、止まり木の療養所では半年ごとにイベントが開催されます。
一月の新年祭。七月の冬祭り。他に、患者さんが自発的に出身地のイベントを開催することもあります。
でも、今のわたしは参加しません。わたしには、参加する資格がありませんから。
「最後に人事のお知らせでございます。これまで暫定的に看護長を務めていらっしゃったジュリア副看護長様が、昨日、正式に看護長を任ぜられました。看護D班のメラニー様は、郵便人形アイリス様に加えましてもう一体、南極鎮守のカルステン様の担当も任ぜられました。本日の入所者はゼロ、退所者もゼロでございます」
人事情報。当院にて円滑に業務を進めるうえでは、必要不可欠な情報です。
けれど、今のわたしが聞いても意味がありません。
わたしは、当院に必要ありませんから。
「以上でございます。では、良い一日を」
毎朝、一通り喋り倒したら、エリザベスさんはぷっつりと黙りこくってベッドの側に立ちます。
何をするでもなく、一言も発さず、六時から二十三時まで十七時間もの間、ただわたしの傍らで静かに立っています。わずかな身じろぎに伴う衣擦れの音が、やけにはっきりと聞こえます。
わたしは、何もしません。
人形の連続稼働時間は、最長で六十時間。六十時間を超えると強制的に意識が落ち、休眠状態になります。
わたしが気を失っている間に、エリザベスさんはわたしの稼働に必要な栄養素を点滴で与えます。
ずっと起きていられれば、朽ち果てることもできるのに。
どうして皆さんは、わたしを維持しようとするのでしょう。
与えられた役目を果たさず、いたずらに資源を食い潰して、数十兆の有機ケイ素微細機械を無意義に稼働させるだけの存在なのに。
わたしは役立たずの廃品予備群なのですから、いっそ壊してくれればいいのに。
「……ぷっ、ぷっ、ぷっ、ぽーん。不肖エリザベスが二十三時をお知らせいたします」
十七時間をじっと立って過ごしたエリザベスさんは、決まってこの言葉で一日を締めくくります。
「それではごきげんよう、ハーロウ様。良い夢を」
そう言い残して、エリザベスさんは保護室を後にしました。
良い夢、だなんて。
人形が休眠中に見る夢は、覚醒直前に整理していた記憶や体験の断片を繋ぎ合わせ、物語化して認識されるものです。
ここのところ何も新しいことを経験していないわたしは、夢を見ません。
ずっと同じ思考に潜り続けているわたしが、夢を見るはずなんてありません。
今のわたしの休眠は、気絶と同義ですから。
ああ、でも。
そういえば。
そろそろ、連続稼働限界の六十時間になるはず。
「……事実。わたしは、人形に仇成すものである」
ぼそぼそと呟いたところで、ぴったり六十時間。
言葉の短期記憶領域である『音韻ループ』におのずから思考手順を吹き込んでおけば、覚醒直後に沈思の続きを――
矛盾。命題と事実は同一個体に同居できない。
解決。わたしは常に人形の味方であるために、人形に仇成すわたしを討つ。
未遂。わたしはわたしを能動的に討つことを禁じられている。
検証。命題を演繹し事実を帰納せよ。
命題。わたしは、常に人形の味方である。
事実。わたしは、人形に仇成すものである。
事例。イリーナさんの異常を看破できず、無用の犠牲を強いた。
矛盾。命題と事実は同一個体に同居できない。
解決――
目を開けば。
日光を透かして全体が発光する、見慣れた天井。
肌寒さを覚えて、わたしはぶるりと一つ身震いしました。
視線を、天井から、壁との境目、壁へ。首をもたげて、爪先、膝小僧、お腹へ。
わたしは、全裸で仰向けに横たえられていました。元々痩せぎすなところ、脂肪組織も筋繊維もすっかり萎縮して、骨盤やら肋骨やらがくっきりと浮いていました。
「あら。お早いお目覚めでございますね。これはしたり。まだ清拭を終えておりません。黙ってお眠りになりやがってくださいまし、ハーロウ様」
清拭。患者さんの身を拭き清める作業。
わたしは反射的に身を縮めました。ぎゅっと、これ以上は小さくなれないというほどに。
「ああ……! らあい、え……っ!」
喉が粘ついて、激しく咳き込んでしまいました。
「わたくしに分かる言葉でお願いいたします」
「かいにゅ、きょうか――」
「介入共感機関でございましたら、ノープロブレム、でございます。今のわたくしにはあなた様の機能も及びません。わたくしのアンテナは例によって、遮蔽しておりますので」
言うなり、エリザベスさんは縮こまったわたしの手足を引き剥がしにかかりました。
「い……やぁ……」
抵抗しましたが、すぐに疲れて動けなくなってしまいました。最低限の栄養素しか摂取していなかったわたしは、たった十数秒で運動に必要なエネルギーを使い果たしてしまいました。
「カイワレの抵抗を許すほどやわではございません。はい、観念なさいませ」
わたしはベッドの上で、古びたロープのようにくったりと仰向けになりました。
「フムン。せっかくでございます。清拭ではなく、いっそ入浴にいたしましょう」
エリザベスさんはわたしをうつ伏せに転がしました。わたしの右腕を取ると、腋へ潜りこむように首を差し込み、わたしのお腹を首の後ろへ載せるように持ち上げました。
「よい、こら、せっと。さすがはカイワレ、命と同じくらい軽うございますね」
ファイヤーマンズキャリーという、人体を素早く担ぎ上げる技術です。
「はな、して……っ!」
「ご安心ください。わたくし、家政人形を務める身ではございますが、いくらか、看護の心得もございます。どうかご遠慮なさらず、患者様になったおつもりで、御身をお委ねくださいませ」
かつかつと革靴の音を立て、エリザベスさんは廊下へと向かいます。
「おねがい、ですから、やめて……ください……」
息も絶え絶えに懇願すると、意外にもエリザベスさんは立ち止まってくれました。
「入浴を拒否なさる合理的な理由がございましたら拝聴いたします」
「は……ずかしい、です……」
何せ素っ裸ですし、担ぎ方が担ぎ方なので色々と丸見えです。せめて、せめて頭部のアンテナくらいは隠したい。
「なるほど」
安堵はつかの間でした。
「お断りいたします」
ずんずんとエリザベスさんは歩を進め、閉鎖病棟の回廊へと出てしまいました。
「わたくし、思い立ったらすぐ行動がモットー、でございます。目的は入浴。お着替えの時間さえ惜しゅうございます。何より、恥など今更でございますよ、ハーロウ様」
回廊の内側、自在調光ガラスに囲まれた中庭には、郵便人形のアイリスさんとメラニーがいました。二体とも芝生に立って、変なポーズで陽光を浴びていました。
メラニーと目が合ってしまいました。メラニーは一瞬だけ、ぎょっと目を見開いて硬直。直後、ふっくらした頬がカッと真っ赤に染まり、わたしから目を背けてしまいました。
「……死にたい」
「死にたいと言えるうちはだいたい死なないものでございます。死ぬこともございますが」
幸か不幸か。道中では患者さんともメスキューくんとも出会いませんでした。
脱衣所を素通りして閉鎖病棟の浴室へ到着。浅い浴槽が三体分と、三つのシャワーつきカウンター。エリザベスさんは浴槽に湯を落とす蛇口のレバーを上げてから、わたしをカウンターの前に座らせました。
「看護の原則は清潔、消毒、殺菌。心得ております。何よりわたくしは万能女中。洗濯女中の真似事も完璧にこなしてご覧に入れましょう」
正面の鏡に、わたしのような何かが映っていました。顔は青白く、頬はこけ、目はうつろ、薄水色の髪は色が濁ってぼさぼさ。我ながら、酷い風体です。
「湯をおかけいたします。目をお閉じになってくださいまし」
シャワーからぬるいお湯がざっと降り注ぎました。泡立てたシャンプーを乗せたエリザベスさんの指が、髪を梳くように洗います。髪の根元は揉み洗い。
「お痒いところはございませんか」
「アンテナ……さわらないで、ください」
エリザベスさんは嘆息を一つ。
「まだお分かりになりませんか、ハーロウ様」
シャワーで丹念にシャンプーを洗い流しながら、エリザベスさんは告げました。
「全て、あなた様が患者様へなさっていたことでございますよ」
言いつつ、髪を梳くようにトリートメントを馴染ませます。
「……そう、ですね」
返す言葉がありませんでした。わたしはかつて、技能人形のマヒトツさんにアームロックをかけて強制的に入浴させたことがあります。
どういうわけか、エリザベスさんは再び嘆息を一つ。
「フムン。どうやらお分かり頂けていないご様子」
「……分かって、ませんか」
最後にリンスでコーティング。毛先に揉み込んだらすぐに丁寧に洗い流します。
「意図、言語、解釈は、必ずしも一致いたしません。意図と解釈の一致は、わたくし単独では力が及びません。わたくし、あえて事細かなご説明はいたしません」
強制的な入浴という一大事件で既に疲れ切っていたわたしの思考は、エリザベスさんの物言いをさっぱり理解できませんでした。
「体験を伴わねば理解できないこともございます。あなた様には体感が伴っておりません」
続いて体の洗浄。ボディソープをスポンジで泡立たせ、優しく撫でて表皮の老廃物を落としていきます。手際よく、隅から隅まで。首筋、腋、股間、足は特に丁寧でした。
全身の泡を洗い流したら、最後に湯浴み。
「お立ちになられますかなられませんね、お支えいたします」
水没防止用のエアクッションを首に着けられ、浅いぬるま湯に沈められました。揺らめく水面の向こうで、細く長い手足がぐにゃぐにゃ曲がっていました。
目を閉じ、体温と同程度のぬるま湯にたゆたっていると、水と皮膚の境目が曖昧になっていきます。
このまま溶けて消えてしまえるのではないか。溶けるまではいかなくても、わたしを構成する微細機械がほどけてバラバラになってくれはしないか。
などと言葉にもならない感想を抱いていたところ、エリザベスさんの一声で現実に引き戻されました。
「ご気分はいかがでございますか、ハーロウ様」
目を開ければ、日光を取り込んでぼんやりと輝く清潔な天井。
「……手慣れてますね」
「そんなことはお伺いしておりません。わたくしは万能女中。何事も、できて当然でございます」
たびたび思うのですが、エリザベスさんの自信はいったいどこから湧いてくるんでしょう。
「久々のご入浴でございましょう。身ぎれいになさったご気分はいかがですか、と申し上げております」
「……悪くは、ないです」
看護の原則は清潔、消毒、殺菌。
清拭でも衛生状態を良好に保つことはできますが、やはり入浴には何物にも代えがたい清涼感があります。
「でも、疲れました……」
「左様でございましょうね。本日はごゆっくり、お休みくださいませ」
「……ずっと、休んでます」
「いいえ。あなた様は長らくお休みになっていらっしゃいません。ですので本日くらいはごゆっくりお休みくださいませ」
やっぱり、わけが分かりません。エリザベスさんはつむじ曲がりのひねくれ者ですから、特に理由もなくイエスと言ったりノーと言ったりするのです。きっと。
「さて。きっかり十五分でございます。お上がりなさいませ」
エリザベスさんに支えられ、浴槽から出て脱衣所へ。
脱衣所の簡易ベッドに寝かされ、全身の水気を丁寧に拭き取ってもらいました。
最後にうつ伏せにされて髪をブロー。ヘアドライヤーは、傘と並んで根本的な機能変化が無く、かつ人形で代替できないたぐいの道具です。
首元に当たる温風が心地よく、極度の疲労も相まって、わたしはいつの間にか寝入ってしまいました。
意識が再び休眠へと潜る直前、わたしの無意識が自動的に唇を動かし、音韻ループへ思考手順を吹き込みました。
「命題。わたしは、常に人形の味方である――」
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