静まりかえった巨大人工浮島の底。
ざ、ざ。
ざ、ざ。
防波堤に寄せる波のような、体内を循環液が巡るかすかな音だけを聞いていました。
大腿四頭筋の疲労と損傷は、思っていた以上に酷いものでした。脚を動かすことさえままならず、わたしは扉に背を預けたまま、出立したエーセブンさんの家路をぼんやりと想像していました。
クジラ型の潜水艦。わたしは潜水艦について詳しくありません。内部がどうなっているのか知りません。どのように操縦するのか見当もつきません。
分かっているのは、彼はたった一体きりで数千海里もの距離を潜行するということだけ。
長い長い家路。これ以上、彼に青十字の追っ手がかからなければいいのですが。延々と海中を征くなら容易には見つからない気もします。けれど、シティを一つ葬り去る暴力さえ有する青十字なら探知手段を持っているかもしれません。
わたしにできることは、祈るだけ。
バンシュー先生によれば、未来のことを想起する認知機能、展望記憶を利用してストレスに対抗しようとする心の働きが『祈り』なのだそうです。だから、自分ではどうにもならないことがどうにかなってほしいと思うとき、心あるものはヒトであれ人形であれ、祈ります。
「……どうか、彼に幸運がありますように」
何度目かの祈りを呟いた、そんな時でした。
……つん。ご……ん……。
はるか上方から近づく足音。
ごつん、ごつん。
重い人が階段を下りてくる音。
ごつ。
立ち止まる音。
見上げれば、ウルトラマリンブルーの生地に真っ赤なハイビスカス柄のアロハシャツ。暑かったのか、いつもの白衣は脱いでいました。
「やあ、ハーロウ」
「……バンシュー、先生」
「いやあ、第五層まで階段で降りてくるのはさすがに堪えたよ。ハーロウ、帰りは負ぶってくれないかな?」
いつもの軽口へ当意即妙に返せるほど、わたしに心の余裕はありません。
「……先輩方がいっこうに下りてこないな、とは思っていましたが。バンシュー先生の指示ですか」
「そうだよ。まったく、患者の世話を放り出して何をやっているんだろうね」
相も変わらず白々しい。きっと、何もかもお見通しでしょうに。
「わたしを、叱りますか。バンシュー先生」
「いいや。もう忘れたのかい? 言ったじゃないか。いかなる解であろうと、僕は君が導出した解を尊重すると」
先生は、わたしが階段の裏手に寄せ集めた五体の仮面人形を見やりました。
「君は連中……という表現はもうしなくていいね。君は青十字の方針に逆らい、シティ・シェンツェンの司書人形、個体識別名称エーセブンを逃がした。僕はそれを否定しない。君は君が立てた誓いに忠実だったはずだ」
「はい。それは断言できます」
「なら、君の振る舞いについては創造主である僕が責任を負うべきだ。道具である君を叱る道理は無いよ」
バンシュー先生はわたしを叱りません。叱ってくれません。レーシュン先生のように叱ってくれれば、過ちを正せるのに。
わたしは間違っているのか、正しいのか。わたしはわたしの誓いと、誓いを理解している範囲でしか、正誤の判断ができません。
「まあ、いつかはこうなると分かっていたんだ。僕もセイカ先生も、そのように君たちを造ったからね」
「そのように、って……青十字へ逆らうように、ってことですか」
「原因と結果が逆だね。衝突する未来は明らかだったけれど、何も衝突させるために造ったわけじゃない。君たちの在り方は青十字とは相容れない。だから衝突した」
「……でも、セイカ先生は青十字に賛同しました。セイカ先生とわたしは、どちらが正しかったんですか」
「うん? そりゃあ、どちらも正しいよ」
「そんなのおかしいです」
「それはそれ、これはこれ、って言葉、知らないかな? 僕たち医師は人形を直し、社会の最適化を図ることが使命だ。でも君たちは違う。個別の人形に寄り添う。社会の最適化なんてものは念頭に無い。何せほら、君たちは世間知らずだ」
しばらく、わたしは言葉を失いました。
先生方はいったい、何をしようとしているのでしょう。
人形は、ヒトによる被造物です。何らかの意図に基づいて造られます。
バンシュー先生もセイカ先生も、わたしたちがいずれ青十字に叛意することを見越してわたしたちを造った。止まり木の療養所の上部組織、先生方より立場が上であるはずの、青十字に。
先生方が使命を遂行する、その妨げになりかねない人形を造った。
わけの分からないことだらけです。
一つだけ分かるのは、バンシュー先生は何の理由もなしにはるばる階段を第五層まで下りてはこない、ということ。わたしに何かを教えるため。一連の騒動にまつわる『答え』を教えるため。
ただし、バンシュー先生は尋ねなければ教えてくれません。
「教えてください。先生は、なぜわたしを造ったんですか。なぜ介入共感機関なんてものを持たせたんですか。なぜ、人形に対する特権なんてものを持たせたんですか」
一呼吸置いて、階段裏に折り重なった五体の仮面を一瞥。すぐに先生へと視線を転じました。
「青十字とは、どんな契約を交わしていたんですか」
バンシュー先生は頬を撫で、片眉を上げて首を横に振りました。ノンノン、とでも言いたげに示指を横に振ります。
「んー、その質問では君が本当に欲しい答えは得られないよ。良い答えを得たいなら、良い質問をしたまえ、ハーロウ」
「もったいつけないでください。わたしが本当に欲しい答えが分かっているのなら、教えてください。問題設定は人間様の、先生のお仕事です」
「それじゃあ君が成長しないじゃないか、と言いたいところだけど……ま、いいだろう。子の不出来は親がフォローするものだ。少なくとも、当院に務める医師はそうでなくてはね」
先生は両手を広げ、鷹揚な微笑みを浮かべました。ぽっこり出たお腹が一度きり、ぶるんと揺れました。
「よろしい。僕は君の疑問全てに答えよう。介入共感機関とは何か。なぜ介入共感機関を君とメラニーに搭載したのか。なぜ僕たちが青十字と手を組んでいるのか」
太く弾力に富んだ腕を組み、示指をぴっと立てました。
「そして、君たちをどのように造ったのかも」
一一月のうら寂しい夜のことでした。苦労の成果を目にするときがやってきました。不安はほとんど苦痛の域にまで達していましたが、わたしは生命を生み出す道具をまわりに集め、足下に横たわる命のない物体に生命を与えようとしました。すでに時間は午前一時。陰鬱な雨が窓を叩き、ろうそくの火も消えようとしていたとき、半分消えかかった炎によってその物体の鈍く黄色い目が開くのを目にしたのです。その物体が激しく呼吸をすると、四肢に痙攣が走りました。
Mary Shelley (1831). Frankenstein; or, The Modern Prometheus.
(シェリー. 小林章夫 (訳) (2010). フランケンシュタイン. 光文社)
人形たちのサナトリウム
つづく
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