その日の晩、午前零時三十分。
足下灯だけが灯る、暗く静まりかえった院内。
わたしとメラニーは、セイカ先生の診察室の前で落ち合いました。セイカ先生には事前に訪問する時間をお伝えしてあります。
引き戸にはめ込まれた縦長の磨りガラスからは白い照明が漏れていました。約束通り、在室のようです。
メラニーがノックを三回。
「……返事がありませんね」
嫌な予感が背筋を撫でました。
まさか。もう青十字が。
メラニーと一瞬だけ目が合いました。
わたしが引き戸を開け、メラニーが飛び込みました。
「お母さん!」
明るい診察室の中で、セイカ先生がデスクにうつ伏せになっていました。
まさか。
「お母さん! 大丈夫⁉」
メラニーがセイカ先生の肩を揺すり、頬をぺちぺちと叩きます。
わたしは長い手を伸ばし、セイカ先生の細い首筋に触れました。指先に感じたのは、頸静脈のしなやかな脈動。ほっとしました。ひとまず心臓は動いています。脈拍はおよそ……六十四。頻脈、徐脈、共に無し。血圧は……上が約一一〇、下が約七〇……?
「あれ……?」
いたって平均的で健康的ですね。
あー、うー、と、セイカ先生が赤ちゃんの喃語のような声を漏らしました。メラニーが肩をすくめ、随分と疲れた吐息を漏らしました。
「……寝てるだけ。ほら、起きてくださいセイカ先生」
メラニーがべちべちと頬を強めに叩くと、ぐっちゃりと乱れた長い黒髪をかきあげてセイカ先生が上体を起こしました。
「んあ……メラニー? と……ハーロウ……?」
ふらふらと頭が揺れます。メラニーは乱れた髪をさっと手櫛で梳いてあげながら、来訪の目的を告げました。
「訊きたいこと、あります」
「ああ……そうだった。ごめん、寝てたわ。あたしこの時間はもう寝てるから、さ……」
わたしたちの目をはばかることもなく、ふあ、と大きなあくびを一つ。
杞憂だったようです。
「ええと……何だっけ。あ、そうだった……訊きたいことがあるんだっけ。あたしに」
「……そう。さっき言った」
「そうだっけ……まあいいや……で、訊きたいことって何?」
セイカ先生はとかく寝起きが悪いのです。
どう切り出したものか、とわたしが逡巡した隙に、メラニーが端的に尋ねました。
「青十字。先生が知ってること教えてください」
「ちょ、ちょっとメラニー?」
「用事を済ませて寝かせないと明日に響く」
わたしがおそるおそるセイカ先生を見やると、いつの間にか寝起きのふにゃふにゃした態度は消え失せていました。背筋はぴんと伸び、黒い瞳には鋭い光が宿っていました。
寝耳に氷水、くらいの効果はあったようです。
「誰から聞いたの?」
「質問してるのはこっちです」
セイカ先生は傍らのデスクに頬杖を突き、目を細めました。
「これは認識のすり合わせ。青十字についてあんたたちが知っていることは?」
メラニーがわたしの脇腹を肘で小突きました。
「人形だけで組織された、攻性の、ええと……自律免疫機構? だと聞いています。各シティの影響力が及ばない組織で、その……ヒトを殺すことも、厭わないとか」
一拍置いて、わたしは自身のナースキャップを指差しました。
「このシンボルが、そこの下部組織である証だとか」
これは半分くらいわたしのハッタリです。
セイカ先生は長い黒髪をうっとうしげにかきあげ、背へと流しました。
「なるほど。だいたいのことは知ってるわけだ」
先生は大きく、あくびとも溜息とも取れない息を一つ。
「……そうよ。ここ、止まり木の療養所は青十字の下部組織。患者をここに搬送しているのも青十字。誰の指示も無く自動的に行動して、必要を認めれば武力行使も厭わない。それが青十字よ」
半信半疑だったことが、確定しました。
エリザベスさんの言っていたことは、事実でした。
「で? 今更、親の素性を知ってどうしたいの? 親がどこの誰だろうと、うちの方針は何ら変わらないわ。搬送された患者は私たちが責任を持って治療する。引き換えにミーム抗体を貰う。そこに何か問題があるわけ?」
メラニーが鋭くセイカ先生の言葉を引き継ぎ、投げ返しました。
「問題は、その後です」
ぴく、とセイカ先生の眉が上がりました。
「退所したはずの患者さん、廃棄してますね」
これは完全にメラニーのハッタリです。何せ彼女自身、憶測に過ぎないと言っていたのですから。
「……さすがに廃棄はしてないわ。患者にだって本来の仕事があるもの。行ったきり帰ってこないとなれば、余計な疑いを招くことになるでしょ」
「廃棄はしてない。じゃあエピソード記憶の改ざん。違う?」
「……口が達者になったわね。そうよ。それは正解。ここの存在は秘密だから」
秘密だから。それだけの理由で、患者さんたちが立ち直った経緯まで改ざんするだなんて。
ハッタリが尽き、信じたくなかった事実を聞かされたわたしとメラニーは、ともにうつむいて歯噛みするばかりでした。
「……お母さんは、人形の記憶を改ざんする組織と、手を組むんですか」
「道具をあるべき状態に戻すだけよ。余計な思い出は足枷になるわ」
「ヒトを暗殺する組織と、手を組むんですか!」
「暗殺……ああ、エワルド氏のことね。殺害すべきと判断したから殺害したんでしょ」
あまりにもあっけらかんとした回答でした。
セイカ先生もエワルド氏と同じ、ヒトでしょうに。
「正当な裁きも無く、ですか」
「裁きは奴らが下すのよ。奴らの行動論理はただ一つ。人類に害あるもの、毒あるものはこれを断つ。ヒトだろうと人形だろうとシティだろうと、奴らには関係ない。倫理も道徳も奴らには関係ない」
「関係、ないって……」
「言ったでしょ。奴らは自動的なの。世界中でミーム汚染を検出して、処置無しと判断すれば闇に葬る。治療可能と判断すればその場で治療する。新種のミームだと判断すれば、感染症防止の三原則を徹底する。シティ一つを丸ごと消し去ることだってやってのける」
感染症防止の三原則。
感染源対策。病原体を除去し、感染者を隔離・治療すること。
感染経路対策。病原体の蔓延経路を遮断し、感染の拡大を防ぐこと。
感受性者対策。予防接種や健康管理により、個体の抵抗力を強化すること。
青十字の行動は、確かに合理的ではあります。
けれど、あまりに心が無い。
人形にだって、心はあります。ヒトのそれとは少し傾向が違うとはいえ、優しさや哀れみといった感情を、人形は理解できます。感情に共感できます。
青十字には、そういった心情の斟酌が、まるでうかがえません。
「聞きたいことはそれだけ? あたしはもう寝たいんだけど。肌にも悪いし」
セイカ先生が、今度は本気で眠そうな大あくび。
「じゃあ、わたしからもいいですか」
「一つだけね。あたし本気で眠いんだから」
「どうして、先生たちは人形の下に付いているんですか? 一等人形造型技師ともあろう方々が人形に使われるだなんて、おかしいじゃないですか」
「その問いには答えないわ。これは他の先生たちも一緒よ」
答えられない、ではなく、答えない。
その真意を図ろうと思考を巡らせかけた瞬間、セイカ先生が追い打ちをかけるかのように言葉を継ぎました。
「いいこと。うちが青十字の下部組織だろうと、あんたたちがやるべきことは変わらないわ。患者に不安を与えないように気をつけなさい」
「それは……そうですけれど」
それきり、セイカ先生は床を蹴ってオフィスチェアを回転させ、わたしたちへ背を向けました。
もはやこれ以上、話すことはない。業務に戻れ。
言外の命令でした。命令とあらば、わたしたちは従わねばなりません。
「……おやすみなさい、セイカ先生」
「失礼しました」
メラニーは無言で引き戸を開け、わたしに退出を促しました。
二体して、足下灯が灯る薄暗い廊下へと出たところ。
だしぬけに、看護網絡へ赤色で装飾された太字のメッセージが流れました。
M45:わーにんわーにん! 不法侵入者! 生産棟から東に百メートル!
突如として流された警告ログ。
すぐさまジュリア看護長からの指示が追随しました。
ジュリア:M09からM21は現場へ急行。M45は侵入者を追跡。
M45:あいあいさー!
ジュリア:@各位 就業規則の緊急規定第十二条を認める。患者の保護が最優先よ。
次いで、わたしとメラニーに直接メッセージが飛んできました。
ジュリア:@ハーロウ @メラニー 手、空いてるね。現場に向かって。
ハーロウ:@ジュリア 了解しました!
メラニー:@ジュリア 了解
わたしたちはすかさず廊下を走り、開放病棟の外へと飛び出しました。
看護人形は、この程度のことではうろたえません。
復職して数日とはいえ、わたしも看護人形。不測の事態への対処は、研修時代に嫌というほど叩き込まれています。いや本当に、ジュリア先輩ときたら夜討ち朝駆けでわたしたちに非常事態の訓練を課したものです。
それにしても、当院に侵入者とは。しかも発見場所が敷地内のど真ん中、生産棟のすぐ近くだなんて。
先ほどセイカ先生が言ったように、当院は外部からの干渉を受け付けません。当院の存在は厳重に秘匿されています。
また、外部への干渉を許さない、という方針に従って、当院は敷地外に対してアクティブな観測を行っていません。例えばレーダーなどを照射したら電波探知機により逆探知されてしまいますから。
もちろん必要な警戒は実施しています。敷地内はメスキューくんが昼夜を問わず巡回していますし、夜間の病棟内は看護人形が巡回しています。
そんな当院の所在地をどうやって知り、敷地の真ん中までどうやって見つからずに侵入できたというのでしょう。
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