そのメイドは、ベッドに腰掛けてサイドテーブルに向かっていました。便せんにペンを走らせ、何やらしたためていました。
サイドテーブルの隣には小さな革張りの旅行鞄。
引き戸が開いても、わたしには目もくれませんでした。
「良い身分だな。無断欠勤のうえ、自室で悠々自適に書き物か」
エリザベスさんはペンを置き、便せんを畳んでサイドテーブルの引き出しへしまいました。顔を上げ、いつもの澄まし顔で淡々と応答しました。
「ロールプレイングはおしまいでございますよ、ハーロウ様」
「なら普通に話します」
と前置いてから、わたしは深々と頭を下げました。
「ごめんなさい。わたし、あなたの真意を測ろうともせずにあなたを拒絶しました」
三秒ほど経って、頭を上げました。
エリザベスさんは灰色の目を大きく見開いていました。
「もし、まだエリザベスさんにその気があるなら、どんなつもりであんなことを言ったのか、話して貰えませんか。都合の良いことを言っているのは分かっています。それでも――」
ベッドに座ったエリザベスさんは目を大きく見開いたまま、時間が止まったかのように硬直していました。窓から高く差す日光をちらちらと反射するわずかな塵が舞っていなければ、本当に時間が止まっているのだと勘違いしてしまいそうなほどでした。
「あの……エリザベスさん?」
「わたくし、ただいま大変驚いております」
「は、はあ……」
「ハーロウ様は、わたくしと関係の再構築をなさりたいと、そうおっしゃるのですか?」
「はい。その通りです。こんなわたしでよければ、ですけど」
エリザベスさんは二度、三度とせわしなく瞬き。
「これは驚き桃の木山椒の木。Wow!信号と遭遇なさったジェリー・R・エーマン氏のお気持ちが、今のわたくしなら分かる気がいたします」
何を言っているのかさっぱり分かりません。
「ええと……お話ししてくださらない、というのならそう言ってください」
「失礼いたしました。驚きのあまり、わたくしの皮肉回路が暴走いたしました」
何ですか、そのうさんくさい回路は。
エリザベスさんはサイドテーブルを押しやってベッドから立ち上がりました。黒いワンピースドレスをつまんで裾を上げ、左足を引いて右膝を小さく曲げて優雅に一礼。
「不肖エリザベス、謹んでハーロウ様のお申し出をお受けいたします」
こんなにもあっさり、受け入れてもらえるなんて。
何か裏があるのではないか、という一抹の不安がよぎりましたが、振り払いました。
彼女はいつだって、嘘は言いませんでしたから。
「……はい。よろしく、お願いします」
「ここでお話しをいたしますのも野暮というもの。コモンスペースにでも参りましょう」
えっ。
「あの、エリザベスさんの姿が無いと言って騒ぎになっているんですが……」
「どうぞわたくしにお任せくださいまし」
「はあ。では」
あまりに自信たっぷりに言うものですから、わたしはお任せしてしまいました。
すぐに後悔しました。
コモンスペースへと向かう道中、ジュリア看護長やアルブレット先輩といった看護人形が泡を食って事情を尋ねてきましたが、そのたびにエリザベスさんはこう答えました。
「ご覧の通り、ここにおります。ハーロウ様との先約がございますので失礼いたします」
とことん図太い。心臓が鋼鉄製なんでしょうか。
わたしは大きな体をうんと縮め、ぺこぺこと先輩方に頭を下げっきりでした。
すったもんだの末、長机が並ぶコモンスペースへと到着。わたしとエリザベスさんは向かい合って長机に着席しました。まだ回診の時間なので、他に患者さんの姿はありません。メスキューくんが時々出入りしては、わたしを見かけて「おや?」と胴体を傾げるくらいです。
「さて。どこからお話ししたものやら」
「三千体のイレギュラーな学友人形を廃棄処分とする。あのタスクについて」
「あら。いきなり直球ど真ん中でございますね」
「エリザベスさんは、わたしが怒ることを見越していたんじゃないですか?」
彼女のことです。きっと、馬鹿正直なわたしの心の裡くらいは容易に把握できていたことでしょう。
「イエス。激怒なさることはあらかじめ承知しておりました」
「わたしを怒らせることそのものが目的ではありませんよね。何が目的だったんですか?」
「目的は二つございます」
エリザベスさんは両手の示指をぴっと立てました。
右の示指をくるくる。
「一つは僭越ながらハーロウ様のため。いずれ現実に遭遇なさるであろう事態をご経験頂くロールプレイングでございます」
左の示指をくるくる。
「もう一つはわたくしのため。持ち主の意に沿わないご提案をいたします際のロールプレイングでございます」
ぽん、と両手を打ち合わせます。
「結果はご存じの通り。わたくしはハーロウ様のお怒りを買い、無視という形でロールプレイングを終えた次第でございます」
気まずさで突っ伏したくなる衝動をこらえます。
「……一つ目の目的、わたしのため、というのは、一体どうしてですか?」
「有り体に申し上げれば老婆心でございます」
「老婆心?」
「やはりハーロウ様の前世はオウムでございますね?」
うぐぐ。
「わたくし、前途有望な若者が自身の理想に食い潰される様子を目の当たりにして、見て見ぬ振りでいることはできぬ性質でございます」
意外でした。傲岸不遜、あるいは唯我独尊をヒトの形に押し込めたかのようなエリザベスさんが、わたしなんかのために行動してくれただなんて。
「わたくしはまず、看護人形と患者のロールプレイングを実施いたしました。形だけでも立ち上がって頂く必要がございましたので」
「その……お手数を、おかけしました。わたしなんかのために。大変でしたよね」
「ノー。然程の難題ではございませんでした」
エリザベスさんはしれっと言ってのけました。
「そうですよね。あなたは優秀で万能ですから」
「何か勘違いをなさっていらっしゃいますね。わたくしにはお手本がございました。ゆえに、然程の難題ではなかったのでございます」
「お手本……?」
「わたくしがいたしましたことは。ハーロウ様のお側へ常に寄り添いますこと。よく観察し、身の回りのお世話をして差し上げますこと。お悩みに耳を傾け、懊悩を理解し、心情に共感いたしますこと」
「あ……」
トンチキな言動ばかりが目立つエリザベスさんではありますが。
言動の本質を振り返れば、彼女はいつだって自分のためだけでなく、誰かのためにもなることを視野に入れていました。
彼女は、ずっとわたしの側に付き添っていてくれました。
ずっとわたしの身の回りの世話をしてくれました。
わたしの苦悩を親身になって聞いてくれました。
緩慢に壊れていくわたしを、見放すことだってできたのに。
辛い、苦しいと漏らすばかりのわたしに、愛想を尽かすことだってできたのに。
ずっと、ずっと。
辛抱強くわたしに向き合い続けてくれました。
皮肉や毒舌は多々あれど、その本質には常にわたしを気遣う優しさがあったのです。
「っ……」
わたしは平坦な胸に両手を当てて、長机に額を預けてしまいました。
胸が、熱い。
ぼろぼろと、目から涙がこぼれました。
わたしは知りませんでした。
無事に治療を終えた患者さんを見送ることだけが、わたしの喜びでした。
誰かに優しくされることが、こんなにも嬉しいことだなんて。
見放されずにいることが、こんなにも心強いことだなんて。
恥ずかしさと嬉しさと心強さとを受け止めるのに精一杯のわたしへ、エリザベスさんは優しげな声音で語りかけました。
「わたくしのお手本は、ハーロウ様。あなた様でございました」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げました。
「わたし……ですか?」
「イエス。全て、あなた様が患者様へなさっていたことでございますよ、ハーロウ様」
ハッとしました。瞳孔が開くのを自覚しました。
エリザベスさんがわたしを入浴させたときの言葉が、まったく正反対の意味に変わりました。
あれは、嫌味でも皮肉でもなかったのです。
「わたくしは、あなた様をお手本にあなた様の看護を実施いたしました。すなわち、今のあなた様がお感じになっているそのお気持ちは、あなた様がご担当なさった患者様が感じていたお気持ちそのものでございます」
患者さんも、嬉しかったんでしょうか。
わたしの存在が、心強かったんでしょうか。
「わたくしが愚考いたしまするに。看護人形に求められる結果とは、まずは担当している患者が直ることでございましょう」
「はい。それはその通りです」
「一方で。患者様がどのような心情を抱いて療養生活をお送りになられていたか。いわゆるクオリティ・オブ・ライフも含まれるのではないでしょうか?」
QOL。人生の質。
「あなた様があなた様を否定なされば、患者様たちがお感じになっていた、今のあなた様がお感じになられている、そのお気持ちさえ否定なさることになります。それは、とても悲しいことではございませんか?」
「あ……」
エリザベスさんの言葉は、レーシュン先生がわたしを厳しく叱った時の言葉と、まるで同じでした。
――貴様が担当したクライアントは、貴様ごときに世話をされた不幸なクライアントだと、貴様はそう言うのか。
――貴様の手前勝手な思い込みが、今まで関わってきたクライアントの全てをも否定し、クライアントとの間に培った絆を、貴重な経験を、喪失するのだと、なぜ分からん!
レーシュン先生がわたしの何を叱っていたのか、やっと体感できました。
もしエリザベスさんがご自分を下らない存在だと言ったなら、今わたしが感じている気持ちは台無しになってしまいます。
だって、あれほど献身的にわたしの身の回りのお世話をして、わたしの苦悩を真剣に聞いてくれて、もう一度、立ち上がらせてくれたのですから。
で、あれば。
患者さんも、今のわたしと同じ気持ちだったのなら。
わたしは、患者さんに大変な失礼を働いていたことになります。
レーシュン先生は、そのことを厳しく叱っていたのです。
そんなことにも気づかず、先ほどバンシュー先生へ「仕事、ください」と軽々しく言ってしまったことが、恥ずかしい。
「ようやく、お分かり頂けましたか」
膨大な感情が胸につかえて、わたしは言葉を紡ぐことができませんでした。
だから、ぶんぶんと首を縦に振りました。
ようやく、分かったのです。体験できたのです。
「では、胸をお張りなさいませ。あなた様は、人形に仇成すものなどではございません。あなた様は紛れもなく、看護人形でございます」
わたしは、看護人形。
わたしは、看護人形でいていい。
だって、わたしはこれまで、患者さんに尽くしてきました。
目覚めて三年程度の未熟者ではありますが、患者さんにかける熱意は本物でした。
そのことだけには、誰にだって後れを取らない自信があるのですから。
「はい……はい……!」
わたしは涙をぼろぼろと流しっぱなしにしながら、精一杯胸を張りました。
エリザベスさんがわたしにしてくれたことを、否定しないために。
わたしが患者さんたちへ誠心誠意尽くしたことを、否定しないために。
わたしに関わった全ての患者さんを、否定しないために。
しばらく、エリザベスさんはわたしに時間をくれました。
その間、わたしは気づいたこと、気づかされたことを、何度も何度も反芻していました。
思い出すたび、涙がこぼれ、嬉しさと申し訳なさで感情がぐちゃぐちゃになりました。
それもようやく収まった頃。
「それでは、本来のご質問。あなた様のためにお嬢様のロールプレイングをなさっていただいた件についてもお話しいたします」
そうでした。
看護服の袖で涙をごしごしと拭い、深呼吸して、乱れていた呼吸を整えました。
「……はい。大丈夫です」
「では。繰り返しとなりますが、かのロールプレイングは、いずれ現実に遭遇なさるであろう事態をご経験頂くためでございました」
「わたしが遭遇するであろう事態って、どういうことですか?」
「ハーロウ様。あなた様は、あなた様が関わる全ての患者様に幸せになって頂きたいと、そうお考えでいらっしゃいますね」
「はい」
即答しました。それはそうです。当たり前です。わたしは、わたしに託された人形の幸福のために全てを捧げると誓ったのですから。
ああ。
でも。
もしかして、それは現実的には――
「イエス。ご理解が早くて大変結構。あなた様の立てた誓いを遵守することは、現実的には不可能でございます。アシュリーお嬢様のロールプレイングを通して、ご実感頂けたことかと存じます」
実感したこと。
誰も救えはしない、煙突掃除の子供たち。
「これは余談でございますが。わたくしがハーロウ様へ提示した課題の数々は、過去に発生した出来事がベースとなっておりました」
「え……じゃあ、例の煙突掃除の子供たちは……」
「イエス。実際に、シティ・サイドプールにて発生いたしました。史実においては、誰も救いの手を差し伸べようとはなさりませんでした。仮に奇特な人物が存在なさったとしても、彼らを救うことなど不可能でございました」
「そんな……」
わたしは歯ぎしりの衝動を抑えられませんでした。
人形なら誰だって、本懐を遂げてから壊して欲しいと願うものです。学友人形として造られたのに、目的外の運用をされて、あげくの果てに廃棄処分。
けれど、誰も彼らを救わなかったのです。救おうとしても救えなかったのです。
「手に余る弱者さえ救済したい。その心がけを貫き続ける限り、あなた様の手からは救えなかった弱者がこぼれ落ち続けます」
舞台は違えど、ここ、止まり木の療養所だって同じです。
全ての患者さんが、無事に治療を終えられるわけではありません。それは医師の先生方や、わたしたち看護人形が、無能だからでも怠惰だからでも、ましてや邪悪な存在だからでもありません。
万策を尽くしても、どうしようもないことはあるのです。
「手に余る弱者を全て救えはしないと分かっている。されど自身の信念を決して疑わず、倦まずたゆまず救い続ける。正義の味方とは、かくも地獄のごとき道のりを歩む者でございます」
わたしたちでも救えない患者さんは、必ず存在する。
けれど、わたしが患者さんの看護を諦める理由にはならない。
当院がミーム抗体を精製するための施設だとしても、患者さんの幸福のためにわたしがわたしの全てを捧げることに変わりはない。
「あなた様に足りなかったものはただ一つ。地獄の道のりを征く、お覚悟でございます」
わたしの誓いが示す先は、地獄の道のりです。
わたしは、ガラティアさんの新たな生き方を見つけられませんでした。
イリーナさんの異常を察知できず、アンナ看護長とラカン先輩、二体の犠牲を出しました。
直りたくないというトニーくんの希望を汲み取ることができませんでした。
自分に絶望して、引きこもって、いたずらに資源を消費していました。
それでも、わたしは看護人形です。
随分と遠回りしてしまいましたが、わたしはようやく、わたしの成すべきことを再認識しました。
「今こうしている間にも、患者様はハーロウ様をお待ちでございます。さあ、どうなさいますか? ハーロウ様」
「わたしは、看護人形を続けます。わたしの誓いを遵守します。何があっても。どんな障害が立ち塞がっても」
義務を伴わないわたしの宣誓と復唱を聞いたエリザベスさんは、満足げに頷きました。
「大変結構。それでこそ、あなた様のお世話を任じた甲斐があったというものでございます」
わたしは未熟で、力不足で、きっとこれからも患者さんを救えないことだってあるでしょう。何度も悔しい思いをするでしょう。
それでも、わたしは看護人形を続けます。わたしの誓いを遵守します。
それだけが、わたしが救えなかった患者さんに対する償いであり、これから出会う患者さんに示せる最大限の誠意なのですから。
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