人形たちのサナトリウム

- オーナレス・ドールズ -
片倉青一
片倉青一

4-4「心の理論とガイスター」

公開日時: 2020年12月14日(月) 18:00
更新日時: 2021年12月15日(水) 15:28
文字数:5,996

 三十分ほどフットボールで遊んだのち、トニーくんとわたしは部屋へと戻ることにしました。

 メラニーは郵便人形のアイリスさんと一緒に、ずっと妙なポーズを取り続けていました。


 おもちゃだらけの部屋に戻ると、レーシュン先生が待っていました。わたしたちはフットボールに興じていたので、今日の回診はトニーくんが最後なのでしょう。


「こんにちは、せんせい」

「ああ、こんにちは。調子を診るよ。上を脱いでおくれ、アンソニー」


 先生はトニーくんの各部を触診してから、ペンライトをかざして瞳孔の反射を見ました。立ち、座りの動作を確認して、人形の健康診断はおしまいです。バンシュー先生いわく、人形の健康状態は問診、触診、反射、運動機能の確認だけで事足りるように設計されているのだとか。


「ふむ。今日も元気だ。何か変な感じはあるかい」

「うん。ぼく、げんきだよ。だいじょうぶ」

「そこのお姉さんはどうだい」

「あそんでくれるよ。やさしいよ」

「そうかい。ハーロウ、良くしてやりな。何かあったら私を呼ぶように」

「はい、院長先生」


 物言いこそぶっきらぼうですが、先生の言葉や仕草は、患者さんを丁寧にいたわっています。

 イリーナさんがああなることを見越していたとは、思えないほどに。


「さ、おしまいだ。今日も良い一日を」

「ばいばい、せんせい」


 先生はトニーくんの頬を優しく撫でてから、退室しました。

 触診で上を脱いだついでに、トニーくんは運動服から学生服へと着替えました。わたしもトニーくんと一緒に、元の看護服へと着替えます。

 わたしは無意識にこわばっていた背筋と首をうんと背伸びしてほぐしてから、トニーくんへ尋ねました。


「さあ、これから何をしましょうか」

「きみがやりたいことをやろう」


 学友人形の性質なのでしょうか。トニーくんはまずわたしの希望を伺います。生徒の自主性を育むことも学友人形のお仕事です。まず相手の希望を伺う、という性格傾向に設計されているのかもしれません。


「なら、おもちゃで遊びましょう」

「うん。どれにしよう」


 彼の問いかけは、わたしの希望こころを窺っているように思えます。つまり社会性の発露のように見えます。ですが、学友人形の機能として『問いかけのストック』を持っている、という可能性もありえます。


「そうですね……」


 考えます。トニーくんがどれほど壊れているのか知るために、わたしは何をすべきか。

 わたしの失敗はいつも、知らなかったこと、無知ゆえに後手に回っていたことが原因です。今度こそ、先手を取らなければ。

 メラニーとの会話では、トニーくんが社会的失言検出課題に通過できない可能性が示されました。

 であれば。


「では、探偵ごっこをしましょうか」

「うん、いいよ」


 即答でした。


「でも、たんていごっこって、なにをするのかしら」


 様々な質問に対してとりあえず「はい」と答えてしまう肯定バイアスは、三歳までの幼児に見られる認知の歪みバイアスです。

 一方で、トニーくんは自分が知らないことを「知らない」と認識して、言葉にできる能力は持っているようです。


「ぼく、たんていは、わかるよ。エルキュール・ポアロ、エラリー・クイーン、ジュール・メグレ……めいたんていが、おおすぎるね。だれになればいいのかな」


 さらに、トニーくんの知識そのものは学友人形らしく豊富です。問題は、その場に応じた知識を引き出せない、ということです。


「名探偵の真似をするのではなくて、トニーくんが探偵さんになるんです。わたしが問題を出すので、トニーくんは謎を解いてください」

「なるほど」


 これからわたしは、トニーくんに信念しんねん課題かだいというテストを課します。

 誤信念課題False-Belief Taskとは、『心の理論』を獲得できているかどうかを調べる実験手法です。心の理論とは、他者の心を推察できる能力のことを指します。


 先ほどメラニーをダシにした――もといメラニーに協力してもらった社会的失言検出課題は、かなり複雑な誤信念課題の一種です。

 これから実施するのは、もうちょっと単純化したテストです。


「ちょっと待ってくださいね。探偵さんが観察する舞台を作りますから」


 わたしはスケッチブックとクレヨンを取り、背が高くて髪が短い女の子と、背が低くて髪が長い女の子を描きました。二人の女の子はハサミで切り抜いておきます。余白を使い、三角柱の積み木、赤くて大きい箱、青くて小さい箱を描き、これらもハサミで切り抜きます。

 トニーくんは青灰色の瞳をきらきら輝かせ、人形劇の道具ができていく様子を見つめます。


「きみ、おえかきがとてもじょうずだ」

「ありがとうございます」


 スケッチブックをめくり、新しいページには奥行きのある部屋と窓を描きました。切り抜いておいた二人の女の子を部屋に配置したら、課題テストのスタートです。


「背が高い女の子はハーロウ。背が低い女の子はメラニーといいます」


 トニーくんは指を指して、人形劇の登場人物を確認しました。


「ハーロウ。メラニー。うん、おぼえたよ」


 部屋の中に、赤い箱と青い箱を置きます。


「こっちの大きくて赤い箱は、ハーロウのおもちゃ箱。こっちの小さくて青い箱は、メラニーのおもちゃ箱です」

「あかいはこは、ハーロウのはこ。あおいはこは、メラニーのはこ」


 ついでですが、所有意識の概念は理解できていることが分かりました。

 わたしは積み木の切り抜きを大きな女の子に持たせた後、赤い箱と舞台の隙間に差し込みました。赤い箱に積み木を入れた、という表現です。


「ハーロウは赤い箱に積み木をしまってから、部屋から出ていってしまいました」


 大きな女の子が舞台から退場します。


「トイレかしらん?」

「ええ、トイレです。ところがどっこいしょ」

「どっこいしょ」


 わたしは小さな女の子を操り、積み木を持たせて赤い箱から青い箱へと移しました。


「メラニーはこっそり、赤い箱から青い箱へ積み木を移してしまいました」

「あらあら」


 わたしは大きな女の子を舞台に再登場させました。


「さて、ハーロウがトイレから部屋に戻ってきました」

「うんうん」

「さあ、探偵さんの出番です」

「まかせて」


「今、積み木はどちらの箱にあるでしょうか?」

「もちろん、あおいはこ、さ」

 現実質問は通過。


「正解です。では、積み木は最初、どちらの箱にあったでしょうか?」

「ええと、あかいはこ、だね」

 記憶質問も通過。


「素晴らしい。では、最後の質問です。ハーロウはこれからもう一回、積み木で遊びます。ハーロウはどちらの箱を開けると思いますか?」

あおいはこ

 信念質問は、通過できず。


 大きな女の子、ハーロウは『メラニーが積み木を赤い箱から青い箱へ移した』という事実を見ていません。したがって、正解は『ハーロウは赤い箱を探す』なのです。

 トニーくんは現実質問と記憶質問に通過しました。舞台設定も、設問の言葉も、正しく理解できているということです。


 ただし、『自分が見聞きした事実』と『他人が見聞きした事実』は必ずしも一致しない、ということは理解できていません。

 紙芝居のハーロウが見た事実と、自分が見ていた事実が異なることを理解できないため、彼は自分が知っている事実に基づいて『ハーロウは青い箱を探す』と答えたのです。


 自分と他人の信念が異なることを区別するのは、実のところかなり難しい情報処理です。多くの動物は誤信念課題を通過できません。

 不正解です、とは、とても言えませんでした。わたしは笑顔を作り、両手でトニーくんの肩を軽く叩くことしかできませんでした。


「頑張りましたね、トニーくん」


 トニーくんは屈託のない笑顔で頷きました。


「うん。ぼく、がんばったみたい」


 ヒトの子供を対象とした実験によれば、多くの三歳児はこの標準誤信念課題を通過できませんが、四歳後半から五歳になると通過できるようになります。

 おそらくは八歳児程度の精神構造を設計されたトニーくんが、標準誤信念課題を通過できないはずがないのです。


「……次はトニーくんが遊びたいものにしましょう。選んでくれますか?」

「うん。ぼく、えらぶよ」


 単純な受け答えは正しくできていることが、かえってトニーくんが抱える『故障』の深刻さを際立たせます。

 トニーくんがおもちゃを選んでいる間に、わたしは看護網絡ナースネットを経由してレフ先輩に連絡を取りました。



ハーロウ:アンソニーさんが、標準誤信念課題を通過できないことを確認しました。

レフ:そうか。引き続きよろしく頼む。



 テキスト越しでも、必要なこと以外は語らないというレフ先輩の姿勢が伝わってきました。



ハーロウ:わたしは、何をすればいいんでしょう。

レフ:閉鎖病棟に日勤と夜勤の区別は無い。休める時に休む。動くべき時に動く。

ハーロウ:レーシュン先生が言っていた『寝食を共にしろ』ですか。

レフ:そうだ。

ハーロウ:それが閉鎖病棟の看護ですか。


 寝食を共にするだけで患者さんが直るなら、誰も苦労はしないでしょうに。


レフ:焦る気持ちは分からなくもない。だが俺に当たっても得るものは無いぞ。

ハーロウ:すみません。

レフ:大事なのは、否定しないことだ。君は既に心得ている。

ハーロウ:分かりました。何かあったら、また。



 気まずくなって、連絡を打ち切りました。

 トニーくんは、たくさんあるおもちゃを前にしてしきりに首をかしげていました。


「どうですか、トニーくん。何で遊ぶか決めましたか?」

「ぼく、なにであそびたいのかわからないや」

「あら。でしたら、わたしが選んでもいいですか?」

「うん。そうしてくれると、ぼくたすかるよ」


 改めて壁際に積まれたおもちゃを見ると、本当に色々と揃えてありました。共通するのは、一人ではなく誰かと遊ぶおもちゃばかり、ということ。開放病棟のワークショップでは、コミュニケーションの促進を目的としてパーティゲームを遊ぶこともあります。トニーくんのおもちゃは、どれも世間知らずなわたしでも知っているものばかりでした。


 学友人形のお仕事は、学校で人間様の子供と一年限りのお友達になること。社交の模範を示し、身をもって皆で仲良くすることを教え、それでも孤独に悩む児童にはそっと寄り添って心のよりどころとなります。一人遊びのおもちゃは、学友人形には不要なのです。


「汝は人狼なりや? は……人数が必要ですね」


 社会性を観察するならもってこいのゲームですが、プレイヤーが十数名ほど必要になります。できれば二人で、相手の状態を推測するゲームが良いのですが。


「あ、ガイスターがありますね。これにしましょう」

「それ、それ。ぼく、しってるよ」

「それは良かった」


 ガイスターは、六×六マスの盤上で自陣と敵陣に分かれて戦うボードゲームです。

 お互いに『悪いお化け』と『良いお化け』の駒を四つずつ持ちます。『悪いお化け』の背中には赤のマーク。『良いお化け』の背中には青のマークが付きます。

 駒の配置は自陣内なら自由。ただし、相手からはお化けのマークが見えないように置きます。

 ゲームが始まったら、駒は縦横一マスずつ動かせます。チェスと同じように交互に駒を動かしていき、相手の駒が隣接していればその駒を取ることができます。


 勝利条件は三つ。

 一、相手の『良いお化け』を全て取る。

 二、自分の『悪いお化け』を全て取らせる。

 三、自分の『良いお化け』の一つを、敵陣の隅にある脱出口から逃がす。


 相手の動かし方からお化けの種類を推測することになりますが、論理だけでは完全に推測できません。相手の性格や言動なども踏まえて、駒の正体を推測することになります。


「では、サイコロで先手と後手を決めましょうか。偶数ならトニーくん、奇数ならわたし」

「ううん。ぼく、ごてがいいな。せんては、できないもの」


 おや。様子見がお好きですか。


「分かりました。では駒を並べて……さあ、ゲームスタートです」


 お昼ご飯を挟んで十戦ほど、遊びました。

 結果は、わたしの全戦全勝。

 トニーくんは目を丸くして、わたしを称賛しました。全く悔しがることなく。


「わお。すごいや。きみ、つよいんだね。ぼく、まるきりかてやしない」

「そうなんです。実はわたし、強いんですよ」


 嘘をつきました。わたしはボードゲームが苦手です。開放病棟の患者さんを相手に、運以外の要素で勝てたことがありません。

 トニーくんが、弱すぎるのです。


 ガイスターは、自分の『良いお化け』を脱出口から逃がすことを狙うのが定石セオリーです。

 ですがわたしは、十戦全てで四つの『悪いお化け』を全てトニーくんへ取らせました。

 戦術も簡単。わたしは『悪いお化け』を先行させて、脱出口へ向かわせただけです。

 もし『良いお化け』が脱出口から逃げてしまったら、それでゲーム終了です。したがって、相手の駒が脱出口に近づいたら取ってしまうのが一応の安全策です。

 トニーくんは、脱出口に近づいたわたしの『悪いお化け』を全て取ってしまいました。

 本来、何度も同じ手を繰り返すと「相手はこの戦術を狙っている」と推測が働くようになります。ですが、トニーくんはわたしの戦術を全く推測しようとしませんでした。ただ期待値が高くなるように、合理的に駒を動かしていました。


 ガイスターのような不完全情報ゲームでは、相手の心理や性格を考慮に入れないと勝てません。トニーくんは期待値の高い手しか指さなかったため、わたしに裏をかかれ続けたのです。

 暗澹たる気持ちを抑えきれず、わたしは表情を見られたくなくて、小さなトニーくんを抱きしめました。


「ハグはいいよね。すてきだ。あたたかい」


 無邪気なトニーくんの吐息が、わたしの首筋へ痒みに似た痛みをもたらします。氷点下の外気に凍えていた手を、急に温水へ漬けたかのような。

 表情を見られたくなかったというのは、わたしの醜い自己欺瞞です。表情を見られなければトニーくんを心配させることはない、という打算でしかありません。


「トニーくん。わたしは、あなたの友達でいいんですか?」

「もちろんさ。ふしぎなこと、いうんだね、きみ」


 トニーくんには『わたしに騙されている』という自覚がこれっぽっちもありません。

 他人を疑うということもまた、社会性の一要素です。他人の言動を疑うことができなければ、対人関係において必須となる本音と建前の判断ができません。

 彼が標準誤信念課題に通過できない以上、他者の『騙す意図』を察知することが困難なことは分かっていました。それでも、確かめずにはいられませんでした。他者を疑うことができない彼の姿は、もはや純朴とか無垢とか、そういった次元を通り越して痛ましさを覚えます。


「ちょっと、お昼寝しましょうか」

「そうしよう。ぼく、ちょっとつかれてしまったな」


 トニーくんはとことこ歩き、ベッドにもぞもぞと潜りこんですぐに寝入ってしまいました。


 わたしは自作の人形劇セットを拾い上げ、くしゃくしゃに丸めて看護服のポケットに突っ込みました。

 それからメスキューくんを呼んでトニーくんの隣に待機させ、レーシュン先生の居場所を尋ね、そっとトニーくんの部屋を後にしました。


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