彼が保有する膨大な差分情報を統合し、物語を創り上げる。欠けている付随情報は、わたしとエーセブンさんとで補完する。
過去の現実を再演し、エピソード記憶を再構築する。
エピソード記憶の働きに関する神経回路を修復し、今後において現実感を獲得できるようにする。
実現できれば、彼の使命である情報の収集、蓄積、整理を妨げることなく、現実感を再獲得できるはず。記憶野、特に海馬へのストレスも軽減されるはずです。
あらゆる感覚器官の情報がエピソード記憶の構築に重要であると認識できれば、視覚系を異常に酷使することも無くなるはず。
彼に実装された『偽りの好奇心』に伴って生じうる障害を、未然に防ぐことができるはずです。
「過去の思い出を、今から創ると?」
「はい。その通りです。加えて、あなたがこれから思い出を作れるようにします」
思い出の記憶は、改ざんできます。
感覚器官の情報をすぐに抽象化し、意味記憶に転化している。このプロセスに情報のバイパスを噛ませ、エピソード記憶も構築できるようにします。
とはいえ。
目覚めてこのかた思い出を持ったことがないであろうエーセブンさんは、きっと思い出の持ち方さえ分からないでしょう。何が欠けているのか、思い出には何が重要なのか、そういったことが分からないでしょう。
だから、わたしが手伝います。彼と一緒に物語を創ります。わたしは自分で言うのも何ですが喜怒哀楽が激しい方ですし、患者さんとの思い出をとても大事にするたちです。
これは、介入共感機関を持つ者にしかできないこと。わたしとメラニーにだけ許された忌々しい特権の、数少ない冴えた使い方。
「あなたがこれまで経験したはずの出来事、全てを紡ぐことは難しいでしょう。わたしは外の世界をあまり知りません。なので、わたしはやり方を教えるだけです」
「なるほど。折を見て、思い出を取り戻していけというわけですな」
「はい。まずはわたしと出会って、現在に至るまでの物語を再演しましょう」
わたしは眼前の本に再び触れ、わたしを構成する記号の集合体をページの中から抜き出しました。『ハーロウ』というラベルをつまみ、ピンと引っ張ると、それぞれの記号が糸繰り人形のように配置されました。けれど、色々と足りていません。
「わたし……看護人形ハーロウの再現に必要な情報を足してください」
「あい承知いたしました」
エーセブンさんは数十冊の本をジェスチャーだけで引き出し、わたしたちの周囲にずらりと展開しました。
わたしを構成する差分に、様々な要素が足されていきます。彼の記録から漏れている部分、身体の細部や服装の素材感といった情報はわたしが付け足します。わたしが入浴する際に使っているシャンプーとボディソープの匂いも付け足しておきました。
やがて、二分の一スケールのわたしの複製ができあがりました。
「うーん……まあ、こんなものですか」
ちょっと背が高すぎるきらいがありますが……こればかりはご本人の印象ですから、仕方ありません。この頭身だと百八十センチくらいはありそう。わたし、身長は百七十五センチなんですよね。
「舞台は……あの吊られた浮島が良さそうですね」
「あい承知いたしました」
エーセブンさんがふわりと宙を飛び、手近な浮島へ近寄りました。ついっと指を振り、書棚をあちこちに落としていきます。
わたしも「この世界では宙を飛べる」と言い聞かせ、わたしの分身を抱えて床を蹴りました。エーセブンさんの隣へと並びます。
浮島の床は緑色に塗られ、端っこに『バミューダグラス』と記されていました。白い箱が円形に並べられ、円の中央には黒い角帽が置かれていました。おそらくはメスキューくんとエーセブンさんを意味する記号。
それなりに細部が再現されたわたしの複製を置くと、ディテールのコントラストが明瞭になりました。
「分かりますか、エーセブンさん」
「こうして見ると、確かに自分の記録には現実感が欠けておりますな。ハーロウ殿の複製だけが生き生きとしておられる」
まるで他人事のようにエーセブンさんは語ります。当時の彼が抱いていたはずの感情、芝生と土の匂い、取り押さえられた際の痛覚といった記憶が、彼には存在しないのです。
「当院に降り立った時、あなたはきっと興奮していたはずです。南太平洋の沖合に、存在しないはずの巨大人工浮島があった。バミューダグラスに覆われ、医療物資補給ユニットが闊歩していた。その医療物資補給ユニットに取り押さえられ、痛かったはずです」
「ふむふむ。すなわち思い出の欠如、というわけですな。しかしながら、どのように再現したものでありましょう。自分が引き出せる情報は、あれが全てであります」
わたしは右の示指で、エーセブンさんの頭部にそっと触れました。
「わたしが持つ思い出を、感情を除いてお貸しします。あなたの知識と紐付けてください。わたしが思い出と知識が紐付く過程を掌握して、バイパスを作ります」
「ふむ……どうにも言葉ではピンと来ませんな。ものは試しであります。どうぞ、やってみてくだされ」
「はい。驚いても、動かないでくださいね」
彼の額に触れたわたしの示指が、とぷん、と頭蓋へ埋没しました。
「む……」
ここは心象風景。現実には起こりえないことも、想像しうることなら起こりうる世界。
指先が目指すのは模倣脳の奥、内側側頭葉、海馬と海馬傍回。感覚器官からの入力を仕分けし、エピソード記憶や意味記憶を形成する部位。
ニューロンの発火を温感として感じ取れるように設定すると、海馬から側頭葉前方部への入力経路が温かいことを確認できました。意味記憶の生成は、確かに機能しているのです。
けれど、海馬-脳弓-乳頭体-乳頭体視床路-視床前核-帯状回-海馬傍回-海馬、という閉鎖回路は、冷たいままでした。パペッツ回路と呼ばれる、エピソード記憶の形成に重要な役割を果たす回路です。指先で閉鎖回路を順繰りになぞり、擬似的な発火を促し――
「――見つけた」
乳頭体視床路、乳頭体から視床前核への入力がブロックされていました。神経自体は残っているのですが、シナプス後細胞の受容体に『蓋』がなされていました。これではシナプス前細胞からの神経伝達物質を受容できません。
パペッツ回路は情動の生起にも関与します。思えば、彼は常に陽気でした。ある意味で、感情の起伏に乏しかったのです。
わたしの権能でシナプス前細胞とシナプス後細胞を同時に強制発火させ、乳頭体視床路に仕掛けられた『蓋』を消し飛ばします。
シナプス後細胞の受容体に神経伝達物質が受容され、激しく発火しました。連動して、パペッツ回路を形成する模倣脳の各部位が次々と発火していきます。火傷するのではないかと錯覚を覚えるほどの熱を、指先に感じます。
直った。というよりは、入れるべきスイッチを入れた、という表現の方が正しいかもしれません。
ともあれ、彼のエピソード記憶を司る部位が活動を開始しました。
「ハーロウ殿」
「何でしょう」
「今、自分は何かを感じております。何かは分かりませんが」
呼吸が速くなっていました。感じているとしたら、未知の感覚に対する当惑、あるいは怯えでしょうか。
「エピソード記憶の回路を繋ぎました。大丈夫。模倣脳は適応します。あなたの心も適応できます。その感覚を受け入れてください。元々、あなたに備わるはずだった基本的な機能なんですから」
「む……とはいえ……」
「深呼吸をしましょう。動かないで、ゆっくり息を吐いて。吸って。吐いて――」
何度か繰り返すうちに、彼の呼吸が落ち着きました。
「これが、当時のわたしの思い出です」
思い出します。あの時、暗い敷地内を走り、バミューダグラスを踏みしめた感覚を。真夏の夜の熱気を。蒸れた看護服の肌触りを。海風と土の匂いを。
彼とわたしとで、共通するはずの思い出を。
指先から、わたしの思い出を送り込みます。パペッツ回路が活性化し、指先が熱いとまで感じられるほどに発火しました。
「これは……まるで、あの時のその場にいるかのようであります」
「あの時、その場で起きたことをおのずから追体験する。それが、思い出というものです」
彼の頭部から示指を抜きました。
「さあ、わたしとあなたの思い出を、あの舞台に再現しましょう」
「あい承知いたしました。今の自分なら、何が足りないのかはっきりと理解できます」
ただの緑一色だった床に、精細な芝が敷き詰められました。白い筐体のメスキューくんたちがエーセブンさん(の分身)を刺股で取り押さえていました。細部までよく再現されていました。かすかに、海風と土の匂いまで嗅ぎ取れました。
一昨日、彼が落ちてきた夜の場面を、ようやく再現できたのです。
『やいやい! 動くな!』
『手を上げろ! さもなくば撃つ!』
改めて彼らの甲高い声を聞くと、なんともコミカルな印象が拭えず、苦笑いしてしまいます。彼らは彼らで職務に忠実なだけなのですが。
わたしはエーセブンさんのうなじに手を当て、海馬への入力経路を作りました。
「ここがスタート地点です。わたしの思い出を使って、なるべくリアルな再演を試みましょう」
「合点承知であります」
わたしとエーセブンさんは、協同で思い出の再構築に取り組みました。
彼が当院に来所して、まだたったの三十五時間。
けれど、思い出はとても濃密でした。
セイカ先生による尋問。つかの間の穏やかな時間に取り組んだ実況見分と、島内のお散歩。青十字の方々による呼び出しと、引き渡しの要求。わたしの反逆。エーセブンさんの大道芸。島内のあちこちを駆けずり回った逃避行。予備義体の獲得。
記録を統合し、その時々で感じたはずの感覚、引き起こされたはずの感情、わたしとエーセブンさんとの関係性を付け加えていきました。不足している情報は、その都度、わたしが補完しました。
やがて、介入共感機関の真価を聞かされる場面。
「……わたしは、わたしが特権を与えられているだなんて、知りたくありませんでした」
「面目次第もありませぬ。人形の心を読み取れるならば、青十字を制圧できる可能性がありました。よもや特権保有者とは思いもよらなかったわけでありますが」
「いえ。今となっては、使い方を覚えられて良かったと思います。知らないままだったら、わたしは彼らの精神を漂白していました」
「漂白……フォーマット、あるいはシャットダウンでありますか」
「はい。それしか、方法を知りませんでしたから。だから、ありがとうございます。わたしが彼らを壊さずに済んだのは、あなたのおかげです」
再演は続きます。
階段の手すりを滑降した無謀。
そして、青十字の方々を一方的に制圧したわたしの姿。
「ふう……これが、思い出でありますか。何とも……処理に負荷がかかるものでありますな」
「それでいいんです。その処理の重さが、あなたをあなたたらしめてくれます。あなたに現実感をもたらしてくれます」
「ふむ……現実世界への錨、というわけでありますな。言われてみれば、どういうわけか胸のあたりに温かみがあるように感じます。初めての経験であります」
それは、彼がわたしとの思い出を好ましいものと思ってくれた証拠。
「ありがとうございます」
「ふむ? 何に感謝なさっていらっしゃるので?」
「秘密です」
恥ずかしいので口には出せませんでした。
ともあれ、わたしに関する思い出の再構築は終わりました。物覚えの良い彼のこと。手順もすっかり覚えたはずです。
エピソード記憶の回路も修復しました。彼の博識な健忘症も、これで解消されるはずです。
わたしにできる施術は、ここまで。
「あとは、エーセブンさん自身で地道に思い出の復元に取り組んでください。あなたが本来いるべき場所で、関わってきた人々や人形たちと一緒に」
彼が関わってきたであろう、図書館の職員さんや、司書人形さんと一緒に。
「そして、五感の全てを軽視しないでください。これからは思い出として記憶してください。あなたの思い出は、あなたの全身で形作られるものですから」
「あい承知いたしました。貴殿の献身、決して無駄にはしませぬ」
わたしはゆっくりと頷き、笑顔を作って彼に手を振りました。
「それではまた、あちらで」
施術を終え、術後の説明まで終えたわたしは、介入共感機関を再拘束しました。
体がふわりと浮上し、ガラスの天蓋をすり抜けて、わたしは夜空へと溶けていきました。
暗転していく視界の中で、わたしはすんと鼻を鳴らしました。
古書に特有の、あのアーモンドとバニラを混ぜて乾燥させたような匂いが、かすかに鼻先をくすぐりました。
***
肉体の感覚を得た瞬間。
「あ……ぐ、うぁ……っ!」
耐え難い苦痛が全身を打ちのめし、わたしは陸に打ち上げられた魚のようにびくびくと痙攣しました。
覚悟はしていました。わたしはこの半年ほどで二度も共感サージを経験しましたから。けれど、生理現象に由来する苦痛は、わたしの抵抗など歯牙にもかけず、わたしの感覚を蹂躙しました。
視界にはサイケデリックな極彩色が踊り、耳元ではでたらめに銅鑼を鳴らされているかのよう。鼻と口には、およそ不快な化学物質を全て混合した何かを詰め込まれているかのよう。全身の皮膚は滅多刺しにされているかのように鋭く痛み、筋肉はあちこちが断裂しているかのよう。骨も軋むような疼痛を訴え、内臓は内側から殴りつけられているかのよう。
「もし。ハーロウ殿。お気を確かに」
エーセブンさんの声が三重になって聞こえます。
あいにく、鎮静剤の持ち合わせはありません。
「ご自身の末那識を元に、ご自身を復元なさればよろしい」
末那識。わたし自身に執着し、わたしをわたしと定義する働き。
看護人形誓詞を思い出します。わたしはわたしに託された人形のために、わたしの全てを捧げる。わたしに託された人形、エーセブンさんは、まだ退所を果たしていません。共感サージごときで行動不能になるわけにはいかないのです。
わたしは、わたし自身に命じました。
わたしを取り戻せ。他の誰でもない、わたし、看護人形ハーロウを取り戻せ。
「ふ……う、あ……」
まずは体性感覚野への入力を遮断。わたしの『身体の地図』は模倣脳の体性感覚野に刻まれています。エーセブンさんの体性感覚が入力され、大混乱に陥っていた体性感覚野をなだめます。わたしの元の体はこれだ。刻まれた通りで間違いない、と。
同様にして、わたしは一つずつ感覚の入力を遮断し、リセットしていきました。
最後に、エーセブンさんの性格傾向に引きずられた意識をリセットします。
「わたしは常に人形の味方である――」
事前に共感サージを防げればいいのですが、順序的に不可能です。患者さんに同化した瞬間から、わたしの模倣脳はわたしのものでない入力を受けます。共感サージが全感覚の食い違いに由来して発生する現象である以上、防ぎようがありません。
それでも、歯がゆい。
彼への施術は済みました。潜水艦も奪取しました。
あとは彼を脱出させるだけ。なのに、わたしが不調なばかりに足を引っ張っています。
「――いつか、ここから飛び立つ日のために」
看護人形誓詞を復唱しきった瞬間、共感サージが収まりました。あらゆる感覚器官が苦痛の名残を訴えていますが、我慢できる程度の気持ち悪さです。
我慢できる程度、という事実が意味するところに気づき、慄然としました。
共感サージ、わたしが患者さんの心を覗き見る代償として科せられる罰だったはずの苦痛が、こうも簡単に打ち消せるだなんて。
介入共感機関の拘束を解除したなら、わたしは罰せられなければならないのに。自分を罰する手段さえ、自分で奪えてしまうだなんて。
「落ち着きましたかな」
「……はい。お待たせしてすみません」
「構いませぬ。ようやっと脱出でありますな」
「はい」
やっと、ここまで来ました。たった数時間の逃避行が、とても長く感じられました。
「さて、自分が出航する段になりますと、あのハッチが閉まると想定されます。ハーロウ殿にはご退出願うことになりますな」
「ハッチが、ですか?」
「この空間は全体を船渠とする水密区画であります。言い換えるなら、エアロックならぬウォーターロックでありますな。入出港の際には空間全体に海水を注入する構造となっております」
「ああ、なるほど」
ここは水面下三十五メートル。ただ海中に向けて開放口を作るだけだと、空間全体の気圧を三・五気圧まで高めなければ浸水してしまいます。注水と排水によって潜水艦を招き入れていた、というわけです。
「この病院が青十字の下部組織であるなら、青十字の潜水艦に対しては自動的に入出港の手続きがなされるはずであります」
「だと良いんですが……もし出入り口がロックされたらどうするんですか?」
「百五十リットル生体魚雷を撃つだけであります。バブルパルスで一撃であります」
物騒ですね。彼が無事にシティ・シェンツェンへ帰還できるなら構いませんけれど。
「あ。そうだ。なら、もう少しだけ待ってくれませんか?」
「ふむ? 一体何を?」
「無駄な犠牲を出す必要はありません」
わたしは五体の仮面人形を、水密区画の外、階段の下へと一体ずつ運びます。
「ふむ……それらは、貴殿を敵と認定し、廃棄対象と見なしたはずでありますが」
エーセブンさんの言う通り、彼らはわたしにとって、人形に仇成すものです。わたしは彼らにとって、人類に毒あるもの、害あるものと認めました。
互いに不倶戴天の敵。それは重々理解しています。
「あなたが無事に退所すれば、わたしが彼らを漂白する必要はありません。それに、彼らには聞きたいこともあります。まだ動いてもらわないと困ります」
「尋問でありますか。なかなかどうして、貴殿もしたたかでありますな」
彼らがまとっているローブをぐるぐると巻き付けたうえで固く結び、拘束衣のようにして手足の自由を奪いました。いくら暗器を保有していても、指をグーに固められて後ろ手に縛られれば容易には抜けられないはず。
どこかのメイドなら「鎖骨。あるいは膝蓋骨を破壊すればよろしい」とでも言うのでしょうが。
やがて五体を運び終え、わたしは潜水艦の背に立つエーセブンさんと向き合いました。
「ハーロウ殿。こたびは大変にお騒がせいたしました。加えて、貴殿に様々な便宜を図って頂きました。貴殿との思い出を、自分は決して忘れますまい。貴殿に、最大の感謝を」
わたしは、ぶっきらぼうな返事しかできませんでした。誰かに感謝されるのは、やっぱり慣れません。
「その……わたしは看護人形ですから。患者さんのためにできることなら、わたしは何だってやります。当たり前のことです」
エーセブンさんは眉の片方を上げ、ふむ、と鼻息を一つ。
「感謝は素直に受け取るものでありますよ、ハーロウ殿」
「それは……はい、そうですね」
エリザベスさんが退所なさった時と同じ反応をしていたことに気づきました。わたしも、少しずつ成長しなければ。
「わたしにとっての喜びは、患者さんが無事に治療を終えて当院から退所すること。患者さんに『ありがとう』と言ってもらえることです。だからわたしは、あなたの感謝に感謝します」
小柄な司書人形は頷き、白い歯を見せてニカッと笑いました。右手の示指と中指を揃え、砕けた調子の敬礼をわたしへ送りました。
「では、さらばであります、止まり木の療養所の看護人形ハーロウ殿。貴殿の誓いが、末永く果たされますよう」
「さようなら、シティ・シェンツェンの司書人形七号さん。あなたの家路に幸運がありますように」
エーセブンさんが甲板上部から潜水艦の内部へと潜り込みました。
わたしはきびすを返し、水密区画を抜けて階段へ。
万が一にも青十字の方々の邪魔が入らないよう、横たわって気を失っている彼らをじっと見張りました。
じきに背後で重い扉が閉まり、ハンドルが回りました。ごん、とボルトが留まる鈍い音。別れを告げる音。
瞬間、太股が疲労の極限を訴え、わたしはその場にへたりこんでしまいました。
しばらくして、扉の向こうからざばざばと注水が始まるかすかな音が聞こえてきました。
「……どうか、あなたの家路に幸運がありますように」
できることなら、彼に同伴して、無事にシティ・シェンツェンまで送り届けたかった。彼が収集した情報を無に帰さないよう、事情を説明したかった。
けれど、わたしは止まり木の療養所の備品です。いかに患者さんのためとはいえ、敷地の外へ出ることは許されません。
それに、わたしはおそらく、そんな決まりが無くとも止まり木の療養所から出てはいけない人形なのです。
だからせめて、わたしは祈りました。
どうか彼が無事にシティ・シェンツェンへ帰れますように。
当院で起きたことの全てを持ち帰り、他の司書人形へ共有がなされますように。
彼の手土産が、シェンツェン大図書館の『人類の営為を黙々と収集し、記録し、整理する』という理念を実らせますように。
"The heritage of the past is the seed that brings forth the harvest of the future."
「過去の遺産は将来の実りをもたらす種子である」
Wendell Phillips. The National Archives and Records Administration, Statue on the left of the main entrance (1955).
(ウェンデル・フィリップス. アメリカ国立公文書記録管理局, 本館玄関前彫像 (1955))
人形たちのサナトリウム
第7章「シティ・シェンツェンの司書人形」
おわり
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