次の郵便物は、色の違う木材を巧妙に組み合わせて作った贈答用の小箱だった。
「これは、とあるご夫妻が、まだ見ぬお子様へ宛てて贈ったプレゼントです」
アイリスが指先で触れると小箱が開き、楕円形のロケットペンダントが現れた。ひとりでにロケットペンダントは二つに割れ、開いた。
「……写真、無いですね」
ロケットペンダントには、何も入っていなかった。
「人工子宮からの分娩が終わってすぐ。お子様が、先天性の自己免疫疾患をお持ちであることが判明しました。全くの偶然で、不幸でした」
景色が塗り変わった。影絵の男女が新生児室のガラス壁にすがりつき、互いを慰めあっていた。
「非常に稀な例であり、当時は治療法が確立されていませんでした。ご夫妻は、生まれたばかりのお子様に低温保存処置を施すことを決断なさいました」
何本もの管に繋がれたステンレス製のポッドに、新生児が収められていた。
低温保存処置。摂氏四度まで体温を下げ、血中のイオン濃度をアミノ酸ベースの微細機械および人工心肺にて制御することで冬眠を実現する。
「まだ見ぬ、というのは――」
「はい……残念なことに、御夫君様が進行性核上性麻痺を発症。令夫人も同時期に両側海馬硬化による難治性てんかんを発症……いずれも、現代でもなお根治困難な難病だとか」
あらゆる臓器が交換できるようになった現代でもなお、根治が困難な疾病は存在する。特に、脳や免疫といった複雑な人体システムに異常をきたす病には、臓器交換では対応できないものも数多い。
「エルバイト郵便社は、お二人からロケットペンダントを受け取り、『この子が目覚めてから十年後に届けてほしい』という条件付きで、プレゼントの配達を確約しました」
「……二人は、低温保存処置、しなかったんですか」
「経済的な事情がありました。お二人が保有していた信用貨では、新生児一人分の維持コストを捻出するのが精一杯でした」
夫が先に亡くなった。嚥下障害を早期に発症しており、誤嚥性肺炎や喀痰による窒息が重なって衰弱死した。アイリスは葬儀に参列した。
妻が後に亡くなった。てんかんの発作で転倒した時の打ち所が悪く、発見も遅かった。アイリスはやはり、葬儀に参列した。
「お子様が低温保存処置から目覚めたのは三十年後。治療法が確立し、引き取り手……養育者が決まったときのことでした」
影絵の若い男女が、ステンレス製の棺桶に手を掛けていた。
「さらに十年後。ご依頼に従い、私はロケットペンダントをお届けにあがりました」
「……アイリスさん、おいくつですか」
「稼働し始めて四十二年になります。ロケットには、ちょっとした仕掛けが施されていました。揮発性のメモリチップに、お二人の音声が記録されていました」
幼い影絵の女児が、色の違う木材を巧妙に組み合わせて作った小箱を開けた。
現れたのはロケットペンダント。女児が小さな手でロケットペンダントを取り、開けた。
【この音声は、一回だけ再生されます。よく聞いてください】
十歳の誕生日、おめでとう!
私たちは……そうね、あなたが好きで、あなたを応援している、変わった人。
そう。僕たちは、君のファンなんだ。
君が十歳まで生きられた。そのことがとても嬉しい。おめでとう。
僕たちは、君が生きている、そのことだけで嬉しいのさ。
そんな私たちから、あなたにプレゼント。
そして一つだけ、お願いがあるの。
そのロケットには、君のご両親の写真を入れておくれ。
それだけが、僕たちのお願いだ。
メッセージは、それきりだった。
影絵の夫妻が、幼い影絵の女児を抱きしめた。
女児はロケットペンダントを握りしめ、ぽろぽろと涙を流した。
「自分が実の両親って、言いませんでしたね」
「はい。もし実の両親が別にいることを知らなかったなら。そう懸念されたご依頼主は、慎重に言葉を選んでメッセージを遺しました。お子様にお名前を付けなかったのも、新しいご両親に全てを託す、というご意向によるものでした」
「……でも、たぶん、気づいてましたよね」
影絵の女児はわんわんと泣いている。影絵の夫妻は優しく女児を抱きしめ、頭を撫でている。
「はい。お子様は、早くからご自身が養子であることをご存じでした。そのことで、養父母との関係が壊れそうになったこともあったそうです」
「……でも、あのロケットが、繋いだ」
メラニーの言葉を聞いた瞬間。
また、温かだった感情が、ぼっ、と一瞬だけ燃え上がるように熱くなった。
「はい! ともすれば解けかねなかった親子の絆を、かつてのご両親が強く繋いだのです。あなたの親は、目の前にいるその人たちですよ、と伝えることで」
「……未練、無かったんでしょうか」
「あの音声を吹き込んだ後、ご依頼主のお二人は――」
アイリスは言いかけ、口をつぐんだ。
「……いえ。思い出さないことにしましょう」
これで、この話はおしまいです。
そう締めくくって、アイリスは元の封筒が舞う橙色の世界へと戻った。
次の郵便物は、恋文だった。恋愛経験のないメラニーでも分かった。
封筒に「愛しい■■■■■へ」と書かれ、ハートのシールで封がしてあった。
恋文以外の何物でもない。
「ああ。これも良く覚えています。とてもロマンチックな思い出です」
ついっ、とアイリスの指が走り、恋文に触れた。
アイリスの感情に寄り添うメラニーの感情が、早くも熱くなる。
高揚。あるいは好奇心。熱にあてられている。
「こちらは、とあるお方が、人形に宛てた恋文です」
とあるお方、と呼ばれた影絵の人物は、高く見積もっても十代の半ば。中高一貫教育課程の制服。身体動作には成長期の特徴が認められた。石畳の街路で、アイリスの袖を掴んでいた。
「奇妙なご縁でした。遠く、欧州はシティ・ダルムシュタットまでお手紙を届けた後のことでした」
「え……」
「配達を終えた私を呼び止めた少年は、とある花嫁人形へ恋文を届けたい、とおっしゃいました」
「……」
「エルバイト郵便社の郵便人形は、スケジュールが許す限り、道中での荷受けと配達を承ります。当時、スケジュールには余裕がありましたので、私は少年のご依頼を承りました」
「……」
メラニーは、何も言うことができなかった。
何の因果か。
その少年を、メラニーは少しばかり知っていた。
「まず、どんな文面を書けばいいか分からない、というご相談から始まりました」
「内容の相談も受けるんですか」
「エルバイト郵便社はお客様のご満足を追求するため、多様なオプションサービスをご用意しております」
景色が塗り変わった。
レトロスペクティブなカフェで、影絵の少年がテーブルにかじりついていた。片手にペンを持ち、もう片手を髪に深く埋め、ノートへ単語を書き出して繋ぎ、二重線で取り消していた。
影絵の少年は何度も何度も単語を書き出し、繋ぎ、取り消した。
アイリスはただ、対面の席に座ってじっと待っていた。
「……どんなアドバイスしたんですか」
「あなたが想う花嫁人形について思いつくありったけの言葉を書き出して、繋いでみて、少しでも違うと感じたら消してください、と」
「厳しいですね」
「言葉を再利用することはできませんから」
調理人形がコーヒー豆をミルで挽くたび、適度に焙煎された豆の数千種類からなる成分が馥郁と薫った。
コーヒーが三杯、冷めて、飲み干された。
カップの底に輪染みができる頃になって、彼はようやく、たった一文だけをひねり出した。
机上の便せんから、彼の綴った言葉がふわりと浮いた。
――君が愛してくれるなら、僕は世界一の幸福者だ。
「その言葉こそが核でした。あとは書き出しと書き終わりを、少しだけ手ほどきしました」
手紙を書き終えた影絵の少年が面を上げ、アイリスの手を両手で握った。
――ありがとう。あなたのおかげで自信がついた。
少年は、声変わりの途中に特有の不安定な音域で、はにかみながら言った。
直後。アイリスの裡へ湧き起こった感情には、メラニーにも覚えがあった。
不調を直した患者が、止まり木の療養所から去る様子を見送るときの、あの気持ちだ。
他者の幸福を喜ぶ気持ち。
あの少年の末路を、メラニーは少しばかり知っている。
あの少年が成長した後の出来事について、メラニーは内心で否定的だった。
結婚なんてしたから、彼女は壊れてしまった。持ち主に毒を与え、害をなしてしまった。ヒトの社会制度に人形を組み込もうとするから失敗する。人形は、ヒトではない。
そう、考えていた。
けれど。
当時の少年の『想い』が純粋だったことは、目覚めて二年と数ヶ月のメラニーにも分かった。
若さゆえの盲目と嘲る者もあろう。
けれど、彼は考えに考えて、冷めたコーヒーを三杯飲み干すまで時間をかけて、たった一文をようやくひねり出した。決して投げ出さなかった。彼の熱意を、真摯さを、メラニーは否定できなかった。
むしろ、一面的なものの見方で彼を否定した自身を恥じた。彼は確かに誤ったが、恋心は、愛情は、本物だった。メラニーは、彼の愛情が本物だったと断言できる。
なぜって、彼が懸命に言葉を選ぶ様子を目の当たりにして、メラニーは心がときめいたからだ。もし誰かがから、好意を記した手紙を貰ったなら。
例えばメラニーが患者から感謝の手紙など貰ったら、無愛想な顔をぐしゃぐしゃにして感涙してしまうに決まっている。退所する患者を見送る時でさえ、鼻の奥がツンとして泣き出してしまいそうになるのだから。
誰かから好意を向けられることは、嬉しいことだ。メラニーも例外ではない。
「私は着荷主の花嫁人形へお手紙をお届けしてすぐ、シティ・ダルムシュタットを発ちました。彼の想いが成就したかどうかは存じあげません」
これで、この話はおしまいです。
そう締めくくって、アイリスは恋文の話を終えた。
メラニーは、何も言わなかった。
彼の想いが成就したことを、メラニーは知っている。
だが、そのことを語ると、彼がいかなる末路を迎えたかも語らねばならない。
美しい思い出を、わざわざ醜い現実で踏みにじることはない。
だから、メラニーは何も言わなかった。
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