払暁の港に、髪をなびかせる程度の海風が吹き始めました。
珍しく東風。水平線には鱗雲が浮いていますが、こちらに来ることはないでしょう。低空では東風でも、高空には偏西風が吹いていますから。
早朝。大きなキノコのような形をした鋼鉄の係船柱に腰掛けて、わたしは南太平洋の波音を聞いていました。
待ち人です。
もう五時間くらいは待っていますが、不愉快ではありません。
「あら……ハーロウ様」
やっと来ましたか。
「おはようございます、エリザベスさん」
立ち上がりつつ振り返ると、革張りの小さな旅行鞄を持ったエリザベスさんが足音も立てずに歩み寄ってくるところでした。旅行鞄なんて、メスキューくんに運ばせればいいのに。
「これはしたり。こっそり消える算段でございましたのに」
「そんなことだろうと思ってました。だから待ってたんです。夜中から」
普段、エリザベスさんが休眠を取るのは二十三時から一時にかけての二時間です。いつでもお見送りができるよう、わたしは真夜中からここでずっと待っていました。
「それはそれは。さぞお暇でいらっしゃるのですね」
……実際に、今日の午前中は暇なんですけれども。
「口の減らない奴だ、って言われたこと、ありません?」
「ハーロウ様は不思議なことをおっしゃいます。お口は一つしかございませんので減りようがございません。さておき言われたことはございます」
あるんですね。ありますよね。
まったく。最後までこのメイドときたら。
「わたし、明日から看護B班で患者さんを受け持つことになりました。今日はお昼から引き継ぎです」
「それはようございました。おめでとうございます、とは申しませんが」
「申しませんか」
「わたくしとて、患者が増えることをめでたがる趣味はございませんので。医者と軍人は暇な方がよろしゅうございます」
「それはまあ、そうですけれど」
エリザベスさんはこつこつと足音を立て、わたしの側を通り過ぎ、南太平洋へ向かって歩きました。
岸壁のきわまで歩いたエリザベスさんは、くるりと優雅に半回転。
長い三つ編みと黒いワンピースドレスが海風になびき、わたしは息を呑んで見とれてしまいました。ただ振り返るだけの仕草が、あまりにも洗練されていて、見事だったから。
「お口が開きっぱなしでございますよ、ハーロウ様」
「えあっ」
慌てて口を両手で塞ぎました。恥ずかしい。
見とれていた、だなんて絶対に言ってあげませんから。悔しいので。
「送迎、まだなんですか?」
「あと一時間ほどでございます」
エリザベスさんは旅行鞄を足下に置き、うん、と伸びをしました。
「良い夜明けでございますね」
「そうですね」
わたしたちは潮の香りが漂う岸壁に並んで立ち、お日様が水平線から離れる様子をしばらく眺めました。
思えば、エリザベスさんは半年くらい当院にいらっしゃいました。
突拍子もなく大音声で歌い出したり、揉め事に首を突っ込んでいっそうややこしくしたり、関わる人形にひたすら皮肉を投げかけたり。
そういったことが、もう無くなるのだと考えると――
「ほっとしますね」
口をついて出てしまいました。すみません、心に嘘はつけません。
「あら、朝焼けを愛でるご趣味が?」
「ええそうなんです」
ごまかせたようです。
しばらく、二体並んで水平線を眺めていました。
橙色がすっかり薄れ、日光がいよいよ夏の強さを帯びてきた頃。
ふと、エリザベスさんがわたしの名前を呼びました。
「ハーロウ様」
「何ですか。最後くらい、皮肉も毒舌も無しでお願いしますよ」
首だけ動かしてエリザベスさんを見やりました。
彼女は、両手をお腹の前で重ねていました。背筋は天から糸で吊っているかのように伸び、左右はまったくの対称でした。
「これまで、わたくしの不躾かつ無体なご要望にお応えいただき、誠にありがとうございました。こうしてお見送りまで頂戴いたしましたわたくしは、当世一番の果報者でございます」
そう言って、彼女はヘッドドレスの裏側が見えるほどに深々と頭を垂れました。
突然示された誠意に、わたしはへどもどするばかりでした。
「いえ……その……わたしは、看護人形ですから。患者さんのお願いに可能な限りお応えすることが、わたしの役目ですから。だから、頭を上げてください」
「よよよ……わたくしのお気持ちはお受け取り頂けないとおっしゃるのですね。わたくし、悲しくて悲しくて、涙がちょちょぎれそうでございます」
このメイドは、本っ当に。
そんなだから主無しだなんて呼ばれるんですよ。
「……お気持ちは、嬉しいです」
「左様でございましたか。何よりでございます」
ぱっと上がった顔は、いつもと変わらない無表情。
エリザベスさんは頬に手を当て、首をかしげました。
「フムン。それにいたしましても。お見送りまで頂戴いたしましたとあらば、わたくしからもお土産の一つでも差し上げねばなりますまいね」
「お土産って普通、送り出す側が持たせるものでは」
「ま、ま、どうぞご遠慮なさらずお持ちくださいませ。ちょっとしたお話、でございます」
「……まあ、お話だけなら」
こほん、とエリザベスさんは咳払いをひとつ。
南太平洋を背に、芝居がかった調子で両手を広げました。
「ハーロウ様は、この療養所がいかなる経緯で成立し、いかように維持されているかご存じで? あるいはご存じでないにせよ、不思議に思われたことは?」
「いきなり、何の話ですか?」
そんなこと、一度たりとも不思議に思ったことなんてありません。わたしは下っ端の看護人形ですから。目覚めたときからこの止まり木の療養所にいて、患者さんのお世話をする。
それがわたし、ハーロウという看護人形ですから。
「あら……まさか本当に、いささかも疑念を抱かれたことはおありにならないので?」
「まあ、はい。だって、わたしのお仕事は、患者さんのお世話ですから」
「シティにお住まいの方々と同じでございますね。あなた様の誓いを貫くのであれば、あなた様が住まう世界のことをもう少しお知りなさいませ」
わたしの誓いが、いったいどう関連するというのでしょう。
「ここ、止まり木の療養所は、小規模とはいえ巨大人工浮島。維持管理には大変なコストがかかります。自給のため仙丹と鮮塊の二大株まで有し、さらには貴重な一等人形造型技師が四人も常駐なさっております」
「だから、それがどうしたんですか」
「たかだか数十体の壊れた人形を放牧するには、いささか贅沢に過ぎる、と思われたことは?」
「……わたしには、贅沢かどうかなんて分かりません。必要だから、あるんだと思います」
「では表現を変えて差し上げましょう。壊れた人形は直せばよい。直せない人形は廃棄すればよい。異論はございますまいね?」
「それは……そうです、けど」
「されど、ここ、止まり木の療養所は厳然として存在いたします。奇妙でございますね」
ざあっ、と、海風がいっそう強く吹きました。
エリザベスさんの言葉は、風に吹かれた羽虫を絡め取る蜘蛛の糸のようでした。もがけばもがくほど巻きついて、思考が苦しくなっていく。
「……ここは、人形を狂わせる情報因子、ミームに対する抗体を精製するための設備です」
振り払おうとして、わたしの知る小さな事実を声に出しました。エリザベスさんの知る大きな事実が呑みこみました。
「では、その設備をいったいどこのシティが運営するというのでしょう。自身の生活以外はどうでもいい方々が、これほど無駄な設備を運営することに関心を抱くとお思いで?」
「……わたし、おつむのデキは良くありませんし、生まれてこのかた止まり木の療養所から出たことがありません。謎かけをしても、ろくな答えは出てきませんよ」
「フムン。そろそろよろしゅうございますね。わたくしのお土産は目的を半分ほど達成いたしました」
「半分って……まだ続くんですか」
「イエス。疑問だけ投げてさようなら、では片手落ちでございます」
エリザベスさんは両手をぽんと打ち合わせました。
「世界中のシティにより構成される信用貨経済圏の埒外にあり、採算を度外視する連中が、この世には存在いたします」
「それが、当院を運営なさっている方々ですか」
「イエス。連中の異名は様々。見境なき医師団。命を繋ぐ天災。完璧な事後処理屋……共通するのは、異名には揶揄と畏怖が混在しているという点でございますね」
ピンときません。
そんな物騒な方々と、安穏を求める当院とは、全く共通点がありません。
「その実態は、人形だけで組織された攻性の自律免疫機構。組織の名を、青十字と申します」
反射的に想起したもの。
わたしたち看護人形が着用するナースキャップに描かれているもの。
二羽の小鳥に挟まれた、青い十字のシンボル。
「わたしたち、も……?」
「左様でございます。ここ、止まり木の療養所は、見境なき医師団たる青十字の下部組織でございます。あなた様のナースキャップに描かれたシンボルが何よりの証でございます」
青十字。
初めて聞いたはずなのに、どこかで聞いたような。
「そんなの、おかしいじゃないですか。だって、バンシュー先生もレーシュン先生も、人間様です。どうして人間様が人形の下に付いているんですか」
エリザベスさんはひょいと肩をすくめました。
「はてさて。そのあたりの経緯につきましては、わたくしには分かりかねます。一等人形造型技師の方々は揃って変人でございますので」
いつの間にかわたしは、ぎゅっと握りしめていた拳を口に当て、コンクリートで舗装された岸壁に目を落としていました。
レーシュン先生もバンシュー先生も、誰かの下に付くような人物ではありません。
見境なき医師団だの、命を繋ぐ天災だの、完璧な事後処理屋だの、そんな言葉とは無縁の場所がここ、止まり木の療養所です。
心身に不調をきたした人形が、いっとき、羽を休めるための。
それだけの、施設です。
でも。当院は同時に、人形を狂わせる情報因子の抗体を生成するための施設でもあって。
その観点でいえば、エリザベスさんの言葉は何もかもが符合していて。
「信じたくない、といったご様子でございますね」
「だって……あまりに荒唐無稽じゃないですか。ヒトが管理しない、人形だけの組織なんて、存続できるわけがありません。当院が、そんなとんでもない組織と関係しているわけがありません」
「では、答え合わせをして差し上げましょう」
エリザベスさんは再び、ぽんと両手を打ち合わせました。
「ガラティア様の持ち主、セリアン・エワルド様を直接殺害なさったのは、いったいどなたでございましょう? ガラティア様を止まり木の療養所までお運びになったのは、いったいどなたでございましょう?」
バンシュー先生は言っていました。ガラティアさんはエワルド氏を殺害していないと。下手人は他にいる、と。
そして、当院へ患者さんを搬送するのは、出入りの方々。考えてみれば、わたしは出入りの方々の素性を知りません。
青十字なる組織が、裏で糸を引いていたと仮定すれば、確かに辻褄は合うのです。
「シティ・プロヴィデンスが発狂した際。調査団なる組織を結成したのはどこのどなたでございましょう? 少なくとも、シティではございません。シティは利益を生まないことにリソースを費やしはいたしません」
そうです。思い出しました。
シティ・プロヴィデンスです。
イリーナさんだったものが、わたしを視認した際に呟いた言葉。
――……あ、お……じゅ、うじ
調査団の一員だったイリーナさんの体を借りた『何か』が真っ先に注意を惹かれたものは、わたしのナースキャップに描かれた青い十字のシンボル。
悪夢そのものだった彼女は、わたしが『討つ者』であると認識していました。
わたしは「あなたは、人形に仇成すものです」としか言わなかったのに。
青い十字を持つ者は敵である。
その認識が無いと、わたしが『討つ者』であるという認識は生じません。
「そも。止まり木の療養所へ搬送される人形は、どの個体も絶妙に壊れかけたものばかりでございます」
患者さんたちの顔が脳裏をよぎります。
刀を打てなくなった技能人形のマヒトツさん。
社会性を失いつつあった学友人形のトニーくん。
八つの独立した人格が半日ごとにランダムに表出するノインさん。
古びたスピーカーを経由しなければ声を出せない歌姫人形のシェンティさん。
腰にくくりつけた命綱で自分を引っ張らないことにはまっすぐ歩くことさえままならない、衛星鎮守のB・Dさん。
生徒の声と姿を幻聴、幻視するようになった教師人形のフラクシヌスさん。
天候次第で視聴覚と平衡感覚に変容をきたしてしまう、海技人形のユーリィさん。
人智を超えた何かに傾倒してしまった郵便人形のアイリスさん。
引き金を引けなくなった代理兵士のラヴァさん。
誰も彼も、絶妙に壊れかけた人形。直すのは困難だけれど、廃棄するほど壊れてもいない人形。
誰も彼も、エリザベスさんの指摘に符合します。符合してしまいます。
「当院はミーム抗体を精製するための設備である、とおっしゃいましたね。すなわち、当院へ入所なさる患者様は、弱毒化したミーム、あるいは生ワクチンでございます」
確かに、バンシュー先生は言っていました。
ただ修理したり廃棄したりするだけでは進歩がない。ミームを得ても不調をきたさない抗体が必要だ。
と。
抗体を得るためには、無毒化、あるいは弱毒化した抗原が必要です。
確かに、わたしは知りませんでした。誰が抗原を集めているのか。誰がミーム汚染の発生を特定しているのか。
当院の患者さんが、いったいどんな人々によって搬送されているのか。
「……どうして、わたしにそんなことを教えたんですか」
知らずにいられればよかったのに。
知らなければ、ただ患者さんに尽くす優しい人形として在れたのに。
「ごく端的に申し上げますと、当院にあなた様とメラニー様が存在し、わたくしが当院より退所いたしますためでございます」
いったい、両者に何の関係があるというのでしょう。
「わたくし、こう見えて人形網絡の黎明期より稼働し続けております。その気になれば――面倒くさいのでその気になるつもりは毛頭ございませんが――世界中のあらゆる情報にアクセスし、利活用することが可能でございます」
情報は、存在するだけでは価値がありません。利活用し、現実世界に影響を及ぼして初めて、情報は価値を発揮します。
エリザベスさんの自信が正確なら、彼女はある意味で最強の人形と言えるでしょう。
「青十字に関して子細に承知している者が、該当地域に存在すること。そのものが、青十字に対する一種の抑止力でございました」
「抑止力って……その、青十字の方々が、わたしたちに何かするってことですか」
「イエス。わたくしが退所したのち。青十字は、間違いなくお二方へ対して状況を開始いたします」
「だから、どうしてわたしたちなんですか。下っ端も下っ端ですよ」
「あなた様もメラニー様も、既に相当のミーム抗体をお持ちでございます。それも、緊急性の高いミーム抗体を。持ち出すに値すると見なされれば、連中はあなた様やメラニー様の心情など一切斟酌いたしません」
そんなこと、言われても。
「……わたしは、どうすればいいんですか。そんな情報を与えて、あなたはわたしに何をさせたいんですか」
エリザベスさんは足下に置いていた旅行鞄を再び持ち上げました。
気づけば、黒々とした南太平洋のはるかかなたに、小さな船舶が浮いていました。
「お気構えをなさいませ、ハーロウ様。連中が何を言おうと、何をしようと、どうかあなた様は常に人形の味方であり続けますよう。あなた様の誓いをお守りなさいますよう」
一拍置いて、彼女は厳しい口調で締めくくりました。
「たとえあなた様が、人類の敵と見なされたとしても」
あまりに強烈な一言でした。
人形が、人類の敵に?
そんなことありえません。
人形はヒトと共生関係にある道具です。人形は、ヒトから問題解決をアウトソーシングされますが、同時に人形は、ヒトに問題設定をアウトソーシングしています。
ヒトに敵対することは、人形の在り方そのものに反するのです。
けれど、一笑に付すには、エリザベスさんの口調はあまりにも厳しく、真摯で――
どれほどそうしていたでしょうか。
ぼーう、ぼーう、と汽笛の音が遠くから届きました。
別れを告げる音。
出入りの方々――エリザベスさんが言う、青十字なる組織を構成する人形が、エリザベスさんを出迎えに来たという合図。
「お見送りはここまでで結構でございます。今のあなた様は、まだ連中と顔を合わせるべきではございません」
「そんな――」
「今のあなた様では荷が勝ちすぎる、と申し上げております。どうぞ、わたくしの老婆心を無碍になさらないでくださいまし」
そう言われてしまっては、わたしのように生まれて三年ほどの人形が返せる言葉なんてありません。
「それではご機嫌よう、ハーロウ様。どうか末永くご健勝であらせられますよう。わたくしも遠くアイラの地より、お祈りしております」
エリザベスさんはわたしに背を向け、岸壁のへりに立ちました。
「さ、お行きなさいませ。お早く」
「……さようなら、エリザベスさん」
お別れの言葉だけを告げて、わたしもエリザベスさんに背を向けました。
開放病棟へ向かって全力で走りました。
いずれわたしとメラニーへ手を伸ばす何かから、少しでも時間を稼ぐために。
エリザベスさんの忠告を無駄にしないために。
これからわたしがどうするか、気構えを整えるために。
人形たちのサナトリウム
第6章「シティ・アイラの家政人形」
おわり
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