それから数日ほどが経過した、ある日のことでした。
この日も大きなトラブルなく、日没を迎えることができました。
当院では、夜勤の看護人形はそのまま日勤に移行し、十八時三十分から十九時までのブリーフィングをもって勤務終了となります。
バンシュー先生の診察室に看護人形が詰めかけて、担当の患者さんに関する情報共有を行います。手狭な診察室に、アンナ看護長、メラニー、わたし、そしてラカン先輩。大柄な人形が二体もいると、肩が触れあうほどぎゅうぎゅう詰めになります。
情報共有が一通り終わり、明日の方針が決まったらブリーフィング終了です。
「それでは、私とラカンは夜勤に。メラニーとハーロウは待機」
「了解しました、アンナ看護長。ラカン先輩、イリーナさんをよろしくお願いします」
「あいよ、任された」
軽い口調ですが、ここ数日間のラカン先輩の仕事ぶりを目の当たりにしたので『任された』の一言が心強い限りでした。
ラカン先輩はわたしに代わって看護A班の業務をこなしながら、わたしとイリーナさんの様子を常にうかがっていました。日中のイリーナさんはほとんどを読書に費やしているのですが、ラカン先輩はちょっとしたサインを決して見逃しませんでした。
『耳がぴくぴくしてる。今日のコモンスペースはちょっと騒がしいね。庭園が良いかもね』
『本の端を指先でなぞってる時は目が滑ってるよ。気分転換に歩いてみよう』
『今読んでるのは嵐が丘だっけ。なら次は大いなる遺産が良いんじゃないかな』
といった具合に、看護網絡経由で教えてくれました。
アドバイスの通りにイリーナさんへ提案すると、驚いた顔をされました。実は気になっていたんです、と、表情が雄弁に物語っていました。
その傍らで、多数の患者さんを相手にワークショップを運営したり、食事や配薬をてきぱきとこなしたりするのですから驚きです。看護D班は精鋭揃いだと聞いてはいましたが、異動してすぐに患者さん相手の業務にも馴染んでしまうとは。
「わたし、まだまだですねえ……」
大柄なのに威圧感を与えない立ち居振る舞い、患者さんへの細やかな気配り、患者さんが気後れしてしまわない程度に朗らかで明るい雰囲気作りなどなど、ラカン先輩から学ぶべきことはいっぱいありそうです。
「ぶっちゃけハーロウが日勤の時より仕事がスムーズです」
「十年選手と比べるのはさすがに勘弁してくれませんか?」
わたしとメラニーは休眠を取るために、診察室から看護人形の待機所へと移動します。
一般に、人形が連続稼働可能な時間は六十時間です。休眠を取ることで、記憶の整理や、身体を構成している有機ケイ素微細機械の新陳代謝を一気に進めます。
二段ベッドが三つと、小さなテーブルが二つあるだけの狭い待機所に入ると、B班のジュリア副看護長と、C班のアルブレット先輩が相変わらず将棋を指していました。他の先輩方は先に休眠を取ることにしたようです。
「お疲れ様です」
声をかけると、ジュリア副看護長が片手を上げて応じてくれました。
「お疲れさん。A班、ラカンが入ったんだね」
「はい。臨時ですけど。とても勉強になります」
「勉強熱心で大変結構。アルブレット、ラカンと同期だったろ。何か言ってあげな」
「そういうのやめてください副看護長」
アルブレット先輩はいつもテンション低めの看護人形です。当院は基本的にダウナーな方が多いので、アルブレット先輩の方が親しみやすい、という患者さんもいらっしゃいます。
「あとそれ、同銀なら十三手詰みですよ」
「え、嘘」
将棋に戻った先輩方はさておいて。
「それじゃメラニー、先にわたしが休眠を取りますね」
「とっとと寝てください」
目を閉じたら五秒で休眠状態に入れるのが看護人形です。
一、二、三、四、ぐう――
意識が暗闇に横たわっていた時間は、主観的にはほんの一瞬でした。
「起きて」
「ぶぶっ!」
頬をしたたかにひっぱたかれ、飛び起きました。
緊急時はこれが一番手っ取り早いので文句は言いません。研修で慣れました。
「メラニー? 何が起きました?」
ひりひりする頬を撫でつつ、壁にかかった時計を見ました。午前一時を回ったところ。
険しい表情をしたメラニーが、ネックライトを装着したり懐中電灯を確かめたりと、巡回用の身支度をしていました。わたしの分も用意しています。
先輩の看護人形たちも、待機所の出入り口にメスキューくんを招集したり、暴れる患者さんを拘束する時に使用する投網を抱えたりと、慌ただしく身支度を整えていました。
緊急事態。
ベッドから飛び出し、メラニーが用意してくれた巡回用の装備を手早く身につけます。
ジュリア副看護長が、状況を簡潔に教えてくれました。
「アンナとスキナーが巡回から戻らない。イリーナさんに付きっきりだったラカンからの応答も無い。先生たちの安全はメスキューに確保させてる」
「分かりました」
緊急時は個別行動を控え、集団で行動するのが鉄則です。
「新人。あんたたちには背後を任せる。頼んだよ」
「はい、ジュリア副看護長」
「了解しました」
ジュリア副看護長は、わたしの研修時代に指導役を務めてくださった看護人形です。いわゆる姐御肌で、緊急時においてもアンナ看護長とは違う方向性のリーダーシップを発揮してくれます。
わたしを含めた七体の看護人形と、ナースステーションに詰めていた三体のメスキューくんが、暗い廊下をそろそろと進みます。
足下灯と、看護人形のネックライトだけが視界を確保してくれます。
音といえば、看護人形が立てる足音と衣擦れの音ばかり。メスキューくんは足音を立てず静かに行動できます。
患者さんたちが寝泊まりしている宿泊区画に近づいてもなお、暗い静寂が垂れこめていました。粘つくような、重苦しく湿った空気を感じます。
ふと、違和感を覚えました。
「あの……静かすぎませんか?」
ここのところ、宿泊区画といえば悪夢にうなされている患者さんたちのうなり声に満ちた空間だったはずです。それが、今日に限っては誰もが安眠しているかのような静けさ。
誰も、わたしの声に応答してくれませんでした。
「……先輩?」
わたしとメラニーは足を止めました。先輩の看護人形たちは返事をすることなく、そのままふらふらと宿泊区画の奥へ向かって歩を進めていきます。まるで夢遊病にでもかかったかのような、おぼつかない足取り。
先頭を歩いていたジュリア副看護長の足がもつれ、受け身を取ることなく倒れこみました。他の先輩方もジュリア副看護長につまづき、次々と倒れていきました。
「アルブレット先輩!」
最も手近なアルブレット先輩に駆け寄り、傍らに膝をつきます。
アルブレット先輩はうめき声の一つも上げず、目は見開いたままどこか遠くを見ていました。首筋に指を当てて脈を取ります。
まず感じたのは、高熱でした。指先の圧力に意識を集中します。脈は速く、圧は高い。
「起きてくださいアルブレット先輩!」
頬をべちべちと叩きましたが、首がぐらぐらと力なく揺れるばかり。全く反応がありません。目はうつろで、焦点が定まっていません。呼吸は深く静かですが、吐く息には熱が籠もっています。
「ジュリア、さん! 起きてください!」
メラニーも先頭を歩いていたジュリア副看護長に駆け寄って頬を叩いていましたが、あちらも全く反応が得られないようです。
急な事態に理解が追いつきませんが、動ける者が次の手を打たねばなりません。
「メスキューくん、先輩方をコモンスペースへ運んでください」
「りょーかい。誰を優先すればいい?」
「全員です」
「ボクたち三体きりじゃ全員は無理だよ」
「近くのメスキューくんも呼んでください。可及的速やかに」
「んー、それがね……」
メスキューくんは四本脚を曲げ伸ばししつつ、筐体の前方下側に付いているマルチセンサーをあちこちに向けます。
「やっぱりダメだ、ここに来てからずっと看護網絡にアクセスできない。何だろ、これ。通信妨害かな」
何ですって、と言いかけた言葉を飲みこみます。メスキューくんは嘘はつきません。
どうしよう、と迷っていたところ、メラニーが代わりに指示を出してくれました。
「コモンスペースに近い方から順番に運んで。引きずってもいい。看護人形は丈夫だから」
「りょーかい!」
「全員運んだら、先生に知らせて。誰でも良い」
「あいあいさー!」
三体のメスキューくんたちが、それぞれ先輩方の襟首を掴み、ずるずるとコモンスペースへ引きずっていきました。
トラブルへの対処は、いつだってメラニーの方が得意です。
ですが今は落ちこんでいる場合ではありません。先輩方が昏倒してしまった理由も、わたしとメラニーが平気な理由も分かりません。ですが、わたしたちが何より心配しなければならないのは、患者さんの容態です。
宿泊区画は、相変わらず不気味なまでに静かです。
わたしたちの大声で目を覚ました患者さんがいてもおかしくないのに。
「メラニー、手分けして患者さんの容態を確認しましょう」
「分かった」
止まり木の療養所は、南太平洋を回遊する小さな巨大人工浮島です。外部からのいかなる干渉も受け付けず、外部へのいかなる干渉も許しません。外部に救援を求めることはできませんし、その手段もありません。
当院でどのようなことが起きても、わたしたちだけで対応しなければなりません。
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