当院は小さな巨大人工浮島。高さ十メートルの六角柱がハニカム構造をなし、五層が重なっています。
面会場所に指定されたのは当院の最深部、第五層。わたしでさえ一度も立ち入ったことが無い場所です。
甲板部の生産棟から、垂直距離にして約五十メートル。長い階段を下りていく最中、エーセブンさんはクランクシャフトがどうの、発電方式がどうの、隔壁の工法がどうの、と興味津々な様子でした。
わたしは『お客様』が何を目的に来訪したのか考えを巡らせるのに忙しく、適当に「はい」とか「そうですね」などと生返事を返すばかりでした。
折り返しの長い階段を、十分間ほどかけて下りきって、第五層。
重々しいハッチがわたしたちの目の前に立ちはだかっていました。ハンドルに手を掛けて回します。じきに、ごん、とハンドルが止まる手応えを得たわたしは、ゆっくりと重いハッチを押し開けました。
ハッチの向こう側へと足を踏み出した瞬間。
異様なまでにひりついた雰囲気に、わたしは思わず足を止めてしまいました。頬のすぐ側に赤熱した玉鋼を置かれているかのようでした。
わたしたちの眼前には、コンクリート製の巨大なプールが広がっていました。ステンレス製の柵で囲まれたプールには、黒々とした巨大なクジラ型の潜水艦。大きな胸びれがゆらゆらとたゆたっていました。
鼻先をくすぐったのは海の匂い。ごうん、ごうん、と低く唸るクランクシャフトの振動が、水面をかすかに揺らしていました。
「船渠……ざとう級、原子力/生体機械複合潜水艦でありますな」
潜水艦のてっぺんからプールサイドの柵の切れ目にかけて、細い橋が渡されていました。
橋の先には、険しい表情のセイカ先生と、同様にしかめ面をしたジュリア看護長。
そして、ヒト型の何かが、五体。
五体の風体は一様に、真っ白なローブと真っ白なフード。
おそらくは、人形。わずかな身じろぎが、無意識的に行われる身体操作の最適化を示していました。けれど、なぜでしょう。彼ら、あるいは彼女らは、どこかが人形らしくないのです。
「看護人形ハーロウ、到着しました」
乾いた熱風のような雰囲気は、五体の人形から発せられていました。フードの奥には、青色の十字を真ん中に大きくペイントした白い仮面。下端が尖った十字は、まるで鋭利な短剣のよう。
先頭の白装束が、男性型とも女性型ともつかない中性的な声音で尋ねました。
「看護人形ハーロウか」
仮面越しのせいか、くぐもった声でした。
「はい、そうですが。あなた方は?」
分かりきっていることを、わたしはあえて尋ねました。
「我々は、青十字」
「はあ。青十字、ですか」
すっとぼけます。
「何かわたしにご用ですか?」
「ご苦労だった。後は我々が行う」
「何の話か分からないのですが」
先頭に立った仮面の人形が、ずっ、と重々しく腕をもたげ、わたしの背後を指差しました。
「貴様の背後に立つ人形を、我々が引き取ると言っている」
「おかしなことをおっしゃいます。エーセブンさんは当院の患者さんです。退所するというお話しは聞いていません。彼の治療には二週間ほどを要すると、セイカ先生の診断が下っています」
「退所ではない。侵入者であるその人形を、我々が引き取り、廃棄処分する」
「……今、廃棄処分と言いましたか?」
「その通りだ」
「あいや、そこな仮面の皆様方。自分は――」
言いかけたエーセブンさんを、わたしは腕の一振りで制しました。
当院は外部からの干渉を受け付けず、外部への干渉を許さない。
侵入者などもってのほか。
シェンツェン大図書館が本格的な調査に乗り出すと言うのなら、図書館ごと焼き払うまで。青十字の方々は、そういった算段でいるのでしょう。
退所した患者さんの記憶を改ざんするだけでは飽き足らず、入所している患者さんでさえ、あなた方の意に沿わないのであれば廃棄すると。
そうおっしゃるのですね。
であれば、わたしの言うべきことは決まりきっています。
「お断りします」
先頭に立った仮面の人形が、もたげた腕をゆっくりと下ろしました。
「……確認する。今、貴様は何と言ったか」
震えそうになる膝を気合いで固めます。
わたしはもう腹をくくりました。
彼らは、わたしの敵です。
「お断りしますと言いました。三度は言いません」
当院が青十字の下部組織であろうと、わたしの知ったことではありません。
いかなる経緯があったにせよ、彼はわたしに託された患者さんです。ならば、わたしは彼の幸福のためにわたしの全てを捧げます。
わたしの患者さんを、あんな方々に引き渡してなるものですか。廃棄処分などさせてなるものですか。
「エーセブンさんは当院の患者さんです。主担当はこのわたし、看護人形ハーロウです。あなた方が何と言おうと、引き渡しには応じられません」
言いつつ、わたしはエーセブンさんを背にゆっくりと後ずさりしました。
あのローブの内側から、いつ凶器が飛び出してくるか分かりません。何せ相手は青十字。シティを一つ丸ごと葬り去ることさえやってのける危険な方々です。いざという時には、エーセブンさんだけでも逃がさなければ。
仮面の人形はいっとき沈黙し、ゆっくりとセイカ先生へ向き直りました。
「技師セイカ。説明を求める」
「引き渡しには応じないと言っているわね」
「では技師セイカ。看護人形ハーロウに命令せよ」
「私が言ったって聞かないわよ」
もちろんです。セイカ先生が認めたとしても、わたしは全力で抗議します。
「なにゆえか」
「私はあの子の持ち主じゃないからよ」
「では持ち主に命じさせよ」
「残念ながら今のあの子は主無しよ。持ち主だった狸親父が、あの子の所有権を放棄したの。あの子を命令だけで従わせられる者は、今のこの世には存在しないわ」
え。わたし、主無しなんですか。
「説明に虚偽を認める。看護人形ハーロウは現在、技師セイカの配下だ」
「失礼ね。嘘なんて言っていないわ。確かにあの子は私の管轄、看護B班で働いてる。けれど、あの子はあの子の信念に従って、私のお願いを聞いてくれているだけ」
それも初耳です。表情には決して出しませんでしたが。
むしろ顎の先を上げて、傲岸不遜を装ってやりました。ふん、と鼻息も吹いてやります。
「ついでに言っておくわ。私も現状での引き渡しには反対よ。これは技師として、医師としての見解。彼は確かに招かれざる侵入者だけど、当院へ収容するに値する患者でもある」
「根拠を求める」
「彼の状態は……そうね。偽りの好奇心とでも言えばいいかしら。新奇性の高い情報を無節操に収集しているの。そのうち視覚と記憶に障害を発症するわ」
「我々の観測網には検知されていない」
「それはそうでしょうね。何せまだ発症していないから。でも発症してからでは遅いの。彼だけでなく、シェンツェン大図書館の司書人形は、全員がそうなっている可能性がある。であれば、彼から抗体を得るまでは当院に収容すべきだと判断するわ。馬鹿どもが馬鹿げた実装をした、その尻拭いをするのもうちの仕事でしょ」
「契約に則り、技師セイカの見解を合議する」
一秒にも満たない間、仮面の人形たちがぴたりと硬直しました。
ほんの少しの沈黙が、とても長く感じられました。
「――合議が終了した。通達する。我々の判断に変更は無い。いかなる経緯であろうと、侵入者の滞在はこれを認めない」
セイカ先生は不機嫌そうな顔をいっそうゆがめるだけでした。
わたしは黙ってなどいられませんでした。
「あのですね。エーセブンさんが帰らなかったら、シェンツェン大図書館が黙っていません。組織的な調査が始まってしまうんですよ。それよりは――」
仮面の人形がわたしの言葉を遮り、抑揚に乏しい声音で淡々と告げました。
「司書人形エーセブンは現在、シェンツェン大図書館の本館内で資料整理に従事している」
何を。何を言っているのか。
振り返れば、学者然とした格好の司書人形。エーセブンさんは、確かにわたしの背後にいます。彼は収集した情報に欠落を認め、職長さんと検討したうえで当院へ赴いたはずです。
「ふむふむ。自分の身代わりを仕立てたのでありますな」
丸眼鏡の向こうにある義眼は大きく見開かれ、相変わらずぬるぬると滑動して視覚情報を収集していました。
「なるほど、効率的かつ違和感を最小限に抑える手段であります。司書人形など、代わりはいくらでもおりますものな」
エーセブンさんは相変わらず好奇心の趣くままに呟いていましたが、わたしの方は背筋が総毛立つ思いでした。
青十字は既に、外部におけるあらゆる記憶と記録の改ざんを終えている。
当院へ訪れたのは、確実に後処理を済ませるため。
冷たい汗が、肋骨から脇腹にかけてぬるりと流れ落ちました。いくらなんでも早すぎます。
「シェンツェン大図書館は沈黙し続ける。組織的な調査など始まらない」
「そんな無茶な。外部の民間軍事企業に依頼までなされているんですよ。いくらなんでも隠しおおせるわけが――」
「依頼など発生していない。信用貨の移動履歴も存在しない」
「っ――」
たった一体の人形を廃棄処分するために、そこまでやりますか。
「恭順せよ、看護人形ハーロウ。我々は貴様の破損を望まない。貴様の背後に立つ人形を拘束し、我々に引き渡せ。これは最後通告だ」
必死で考えます。
何か。何か、彼らを諦めさせる材料がありはしないか。
「あ……あなた方も、人形でしょう。一等人形造形技師の見解を、無視するんですか」
「技師セイカの見解は検討に値した。ゆえに我々は、シェンツェン大図書館より一体の司書人形を搬送すると決定した。これは技師セイカの見解と要求を満たすものだ」
あまりといえばあまりな物言いに、わたしは言葉を失ってしまいました。
そんな乱暴な方法で、事態の解決を図るだなんて。
価値観が決定的に断絶していました。
彼ら、彼女らが人形らしくない、と感じた理由が分かりました。
程度の差はありますが、人形は面と向かった相手と良好な関係を築こうとします。道具としての生存戦略であり、心を有する人形の『本能』です。
ですが、青十字の方々には、相手と良好な関係を築こうとする気配が欠片もありません。所作も、言動も、何もかも。最初から、相互理解を深めるつもりが無いのです。
途方に暮れるわたしへ、セイカ先生が厳しい声音で言い渡しました。
「ハーロウ。もうやめなさい」
「やめません! セイカ先生だって本意ではないでしょう!」
先生は一度だけ、首を横に振りました。
「考えを改めたわ」
「どうしてですか!」
「こいつらの判断と行動の方が合理的だったからよ。彼と同等の存在が提供され、ミーム抗体が得られるなら、私はこいつらに賛同する」
「そん、な……」
「忘れたのかしら。私は命を勘定する一等人形造形技師。あなたにとっては不本意でしょうけれど、私は勘定が合うなら構わない」
ジュリア看護長へ視線を送って助力を求めましたが、彼女もまた険しい視線を返し、首を横に振りました。
「あたしはセイカ先生に従うだけ。あんたも聞き分けな、ハーロウ」
頼みの綱が、ことごとく絶たれてしまいました。
青十字の方々に対話の意図は無く、上司である一等人形造型技師も廃棄処分に賛同し、同僚である看護長の助力も頼めない。
わたしは、どうすればいいのか。
このままエーセブンさんを、わたしに託された患者さんを、むざむざ引き渡すべきなのか。
わたしの焦燥と混迷が頂点に達し、いっそ無謀を承知で青十字の方々へ殴りかかってしまおうか、などと物騒な手段まで思い浮かんだ、その時でした。
「むふ。むふふふふ――」
エーセブンさんの脳天気な笑い声が、ひりつく雰囲気を吹き飛ばしました。
「なはははははははは! ふはははははははは!」
ぱん、ぱん、と手のひらを打ち鳴らし、エーセブンさんは心底愉快そうに笑いました。
「なるほどなるほど。さすがは青十字、さすがは完璧な事後処理屋であります。いやはや、やることのスケールが違いますな。よもや、自分の行動履歴をおよそ全て無かったことにしてしまうとは! 実に、実に興味深くあります!」
誰もが――おそらくは青十字の方々までもが――呆気に取られていました。
いったい彼は、何が愉快で笑っているのでしょう。
身の危機が眼前に迫り、自身の使命を最低限果たすことさえ絶望的な状況だというのに。
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