多目的運動場では、メスキューくんが左側のマニピュレータにキャッチャーミットを装着して待っていました。
わたしたちを認識すると、腰(?)を落として構えました。
「ばっちこーい」
青色のマルチセンサーにはご丁寧にキャッチャーマスク。
ぱん、とキャッチャーミットへマニピュレータを打ち付けて、すっかりその気になっています。心を持たない模倣人格を指して「その気になる」と表現するのは変な気もしますが。
「こちらをどうぞ、お嬢様」
差し出されたのは、革のグラブと、二枚の革を縫い合わせた白いボールでした。
「何ですか、これ」
「ご覧の通り、ピッチャー用のグラブとベースボール用のボールでございます」
「それは分かります。どうしてわたしが持つんですか」
「もちろんお嬢様に投球練習を行っていただくためでございます」
「だから、なぜ……」
「わたくし、根拠の無いことは申しません。こちらも日常の習慣として、プロファイルに記載がございます。お嬢様は毎日三十球の投球練習を行います」
長距離を走った後は投球練習ですか。お嬢様とは一体。
「お嬢様はそちらのボールを時速百キロメートルでお投げになります。百四十二センチメートルという身長を考慮すれば、これは驚異的な球速でございます」
わたしより三十センチメートル強も背が低い設定なんですね。
「どれくらい凄いんですか」
「お嬢様にハーロウ様ほどの身長がございましたら、球速は百三十キロメートルに到達すると推測いたします。これは女子のベースボールという区分で見れば、トップクラスの球速でございます」
「わたし、そんなに早い球は投げられないと思います」
大抵の人形は、大抵のヒトよりも身体操作が得意です。ですが、トップクラスのアスリートには敵いません。
「では、わたくしに共感なさいませ」
「な……」
わたしにそれを言う意味が分かっているんでしょうか。
「あなた様の介入共感機関に関する仕様は伺っております。わたくしの身体領域にのみ、プライマリで共感して頂ければ目的は達成可能でございます」
「つまり、お手本を見せ……いえ、感じさせる、ってことですか」
「左様でございます」
銃よりも暴力的な機能を、こうも気軽に使えと言われることには強い抵抗感を覚えました。もちろん、身体領域に限定し、さらにプライマリで共感するなら、多少は抵抗感が薄れます。
でも。
こんな機能を持っているから、わたしは人形に仇成す者なのに。
「ご心配なく、ハーロウ様。わたくしは大丈夫でございます」
いつもは淡々としているエリザベスさんが、ちょっとだけ強い調子で促しました。
わたしは、エリザベスさんの自信を借りることにしました。
「わたしは、常に人形の味方である。それが毒ある――」
「はいストップ」
出鼻をくじかれ、わたしはボールを取り落としてしまいました。
あのですね。誓詞を復唱するの、かなり勇気が要るんですよ。
「今後、何かとわたくしに共感して頂くことになります。あなた様の看護人形誓詞とやらは、介入共感機関の拘束を解除するトリガーでございますね」
「はい」
「長すぎます」
「長くしてますから」
わたしやメラニーがあえて長文の看護人形誓詞を唱えるのは、それだけ危険な機能を稼働させるからです。誓った詞に適合する状況かどうか、最終確認するための安全装置です。
「わたくしへ、身体に限ってプライマリで共感する場合にのみ、一連の看護人形誓詞に対して別名をご設定なさいませ。可能でございましょう?」
「……できるか、できないかで言えば、できますけど」
プロセスが明確である場合に限り、エイリアスの設定は可能です。
「別名はシンプルに『エリザベスさん、わたしはあなたに共感します』でよろしいでしょう。わたくしの同意により、インフォームドコンセントは成立したものと見なしてくださって構いません」
目的のためには手段を選ばないという言葉がありますが、エリザベスさんに限って言えば、目的のためにはどんな手段も選ぶ、という表現の方が正しそうです。
もう、どうにでもなれ。
「……分かりました。そうします」
「大変結構。では改めまして、お手本をお見せいたします。しばしお待ちを」
エリザベスさんはメスキューくんを呼び寄せ、グラブとボールを筐体から取り出しました。メスキューくんが改めて離れ、腰(?)を落として構えました。
「あの。今更ですけど……エリザベスさん、着替えなくていいんですか?」
いかにも運動に向かなさそうな服装です。
「わたくしは万能女中でございます。この服装で全てをこなせるようでなくては、万能女中と名乗ることなどできはいたしません」
エリザベスさんが盛り土の頂点に登り、お腹のあたりにグラブを起きました。
メイドが、マウンドに登っています。何と言いますか、何でしょうね、この光景。経験者が見たら噴飯物だったりするのでしょうか。
「三球だけお見せいたします。まず、これがセットポジション。ワインドアップはご遠慮ください。いわゆるクイックモーションでお投げ頂きます」
メスキューくんが十八メートル先から大声で呼びかけてきました。
「しまっていこー!」
わたしはどうにかお開きにしてしまいたいのですが。
「では、共感なさいませ」
「……エリザベスさん、わたしはあなたに共感します」
「同意いたします」
途端。全身が水没したかのような抵抗感を四肢に覚えました。
身体領域に限った共感は、その人形の体性感覚のみをわたしへ伝えます。体性感覚とは、触覚、姿勢の感覚、温度感覚などを指します。
当然ですがわたしとエリザベスさんとでは、身長も体重も、その時々の姿勢も異なります。それらの違いが、四肢に対する抵抗感として翻訳されています。
わたしは少しでも抵抗感を減らすため、エリザベスさんと同じポーズを取りました。彼女のお手本を真似するつもりです。
「では、参ります」
エリザベスさんがわずかにグラブを沈めた瞬間。
全身に、怖気が走りました。立っているだけなのに、まるで猛獣か何かを目の前にしているかのよう。視線の先には可愛らしい見た目のメスキューくんがいるだけなのに。
右脚を曲げて重心を落とし、直後に左足を前方へ鋭く送り出します。
背をぎゅんと弓なりに反らし、腰の回転エネルギーを背骨から肩、肘、指先へと無駄なく伝達。指先から離れた白球は糸を引くように伸び、ズドンと重々しい音を立ててメスキューくんのキャッチャーミットへ収まりました。
「ットラァイッ! 百三十キロ!」
メスキューくんが叫び、返球しました。
わたしは、セットポジションから微動だにできませんでした。エリザベスさんの身体操作の巧みさに、驚きと吐き気を覚えていました。
この感覚には覚えがあります。技能人形のマヒトツさん。あの刀鍛冶に共感したときに、よく似ていました。獲得した感覚から処理する情報量が桁違いなのです。
特に彼女の意識が向いていたのは、重心の移動、腰の回転、蹴り出す右脚の爪先。恐ろしいまでの精密さで運動エネルギーの最適化を図り、ボールを投げたのです。
「一球目はアウトローでございました。二球目はインハイと参ります」
メスキューくんからの返球を受け取ると、すかさず構えて再び投球。キャッチャーミットは少しも動くことなく、まるで引力でも働いているかのようにボールが吸い込まれました。
「ットラァイッ! 百三十キロ!」
「三球目は真ん中高めでございます」
これまた構えた位置からミットは動かず、ズドンと重々しい音が響きました。
「ットラァイッ! 百三十キロ! バラウッ!」
「以上、三球三振。あるいは右膝蓋骨、左鎖骨、喉の三点を潰してミッションコンプリートでございます。共感をお解きくださいませ」
介入共感機関を拘束したわたしは、喉元までこみ上げていた吐き気を飲み下しました。
ただボールを投げる。それだけの動作に関する情報で、わたしの体性感覚はパニックに陥っていました。
「お手本はお見せいたしました。さ、お嬢様の番でございます」
エリザベスさんはしれっと言って、わたしへバトン、もといボールを譲りました。
いや。あれを、真似しろと。
わたしが呆然としている間に、彼女はミットを構えたメスキューくんの背後へと移動していました。十八メートル離れた先から急かしてきます。
「時間が押しております。お早く」
ええい。ままよ。
肌、筋肉、関節、それらに残るエリザベスさんの感覚を参考に、わたしの投球動作を最適化。
「さあいよいよマウンドに登ったアシュリーお嬢様、注目の第一球――」
全身の動きを模倣脳内に構築してから、なるべく忠実にトレース。
「投げた。アウトロー、あっと大きく外れてボール」
メスキューくんがキャッチャーミットからボールを取り、わたしの胸元へと返球しました。
「解説のメスキューさん、球速はいかがですか」
「時速九十八キロメートルですねぇ。トップリーグではやっていけませんよ、これじゃ」
エリザベスさんもメスキューくんも、わたしに聞こえるよう大声でのやりとり。
「だ、そうでございます。なっておりませんよ、お嬢様」
わたしは先ほどの投球動作を思い返しました。
曲げた右膝、送り出した左足、回転させた腰、肩と肘の回転。それぞれの挙動が微妙に食い違い、乗算で影響した結果、球速が想定の七割五分にまで落ちこみました。
ですが、人形としては及第点なはずです。初めて投げたのですし。
「……エリザベスさんが異次元すぎるんですよ」
ぼそりと呟いただけなのに、エリザベスさんは耳ざとく聞きつけて声を張りました。
「何をおっしゃいますやら。人体の運動は、つまるところ回転の制御でございます。全身の角運動量を最適化し、最後に指先から解き放つ。それだけのことでございましょう?」
どうして優秀なお方はご自身にできることが他人にも簡単にできるのだと思うのでしょう。
「ああ。わたくしとしたことが、申し上げるのを失念しておりました。ストライクゾーンは九分割になさいませ」
「九分割?」
「人体に当てはめて申し上げます」
なぜ人体で。
「上段に、左右の鎖骨と胸骨。中段に、脇腹および鳩尾。下段に、股間および膝蓋骨。これらに十分な威力のボールを命中させられれば、ヒトの戦闘力を大幅に削ぐことが可能となります」
しれっと恐ろしいことを言ってのけますね、この家政人形。
「ちなみに。頭部を狙うのはお勧めいたしません」
「どうしてですか?」
戦闘力を削ぐ、という意味なら、頭に当てるのが効果的なように思えますが。
「標的が小さすぎるためでございます。無論、致命傷を狙えるリターンはございますが、外すリスクも大きゅうございます。また、全ての脊椎動物は頭部に対する重点的な防衛能力を有しております。これは左脳が右半身の制御を、右脳が左半身の制御を司ることからも明らかでございます」
どんな世界で生きてきたらこんな発想に至るのでしょうか。家政人形ですよね、あなた。
「さあ、しまってまいりましょう。続けて内角高めのインハイ。すなわちわたくしの左鎖骨へ目がけてどうぞ」
メスキューくんの後ろに立ったのは、ご自身を『的』に見立てるためだったようです。
「設定上、お嬢様は球速もさることながら、コントロールも抜群に優れております。先ほど申し上げました通り、九分割いたしました人体の急所へ百発百中でございます。ご遠慮なさらず、わたくし目がけてお投げくださいまし」
投げます。
「ボール。頭部は狙わないよう申し上げたはずでございます」
投げます。
「ストライク。ですが球威が足りません。親の仇と思って膝をお砕きなさいませ」
投げます。
「ど真ん中。真芯で捉えて逆転満塁ホームラーン、でございます」
投げ――
三十球の投げ込みが終わりました。
たったの三十球で、わたしは肩で息をする有様。全身が汗だくです。
「フムン。お疲れのご様子。無理をなさっても仕方ありません。しばらくは走り込みと投球練習を中心にロールプレイを進めてまいりましょう」
そうでした。エリザベスさんが『お嬢様』と呼ぶヒトのロールプレイをやっているのでした。
十六歳にして一等人形造型技師と認められた才媛。
シティにおける幹部企業の代表取締役、兼、最高技術責任者。
加えて、シティの保健衛生機関、清掃六課の課長も兼任。
そんな設定なのに、どうしてわたしは走ったり投げたりしているんでしょう。
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