人形たちのサナトリウム -オーナレス・ドールズ-
第3章「シティ・プロヴィデンスの悪夢」
こんばんは。看護人形のハーロウです。
気温が日に日に上がり、夏の気配をそこかしこに感じる時節となりました。
時刻は午前二時をちょっと過ぎた頃。誰もが眠る未明の夜。
窓の自在調光ガラスは黒色に変じ、外部からの可視光を遮っています。
開放病棟の廊下は暗く静まりかえり、わたしの足音と、いくつもの低いうなり声だけが聞こえます。
わたしの右後方を歩くメスキューくんが、子供のように高い声音で囁きました。
「ねえねえハーロウくん、幽霊、いた?」
「いいえ。もう四回目ですよ、それ」
一週間ほど前から、夜の巡回にあたる看護人形の誰もが、懐中電灯を持つようになりました。本来、ネックライトと廊下をうっすら暖色に照らす足下灯があれば、視界は十分に確保できるのですが。
「だいたい、当院に幽霊なんて出るわけありませんよ」
「どうしてさ?」
「幽霊というのはお亡くなりになった人間様から生まれるものでしょう。当院で亡くなった人間様はいないはずです。幻覚ですよ」
不安、興奮、錯乱といった意識変容状態に陥った患者さんが、存在しないものを幻視する、というケースは珍しくありません。
「じゃあさ。どうして、看護人形が、幽霊を見たって言ってるんだろうね? 患者さんが言うならともかくさ」
「むう……」
そうなのです。実は、幽霊の噂は当院の看護人形にも広まっているのです。
夜勤にて病棟を巡回している最中、視界の端に何かがいた、という報告が多数。誰もがその瞬間、恐怖を感じたそうです。一方で、具体的な姿形となると誰も詳細に形容できないため、幽霊と呼ばれています。
怪談で涼を取るにはちょっと早い季節だと思うのですが。
「それにさ、アンナ看護長も見たんでしょ?」
「……そうですけど」
あのアンナ看護長も昨晩、夜勤時に幽霊のような何かを見た、と報告したのです。場所は開放病棟内、ナースステーションから離れた、患者さんたちの個室が集まる宿泊区画の奥。
これもまた、詳細は不明。それがいたことは確からしいのですが、目撃箇所を調べても痕跡は全く見当たらず。
アンナ看護長の感想はというと。
「直感的に、処分すべきものだと感じました。なぜそう感じたのかは分かりません」
……さすが、当院の看護人形を束ねる方は、判断基準が違います。
「それでも、わたしは見ていませんから」
看護人形のうち、わたしとメラニーだけは、幽霊らしきものを目撃していません。
この懐中電灯だって、ナースステーションで待機している先輩方が持っていけとうるさいので持っているだけです。警棒の代わりにはなりますかね。
「ハーロウくんは自分の見たことしか信じないの?」
「そこまでは言いませんけど。幽霊というのはさすがに、眉につばを付けます。メスキューくんたちだって何も見ていないんでしょう?」
「うん、そうだね。アンナ看護長と一緒にいたあいつも見てないってさ」
「目もカメラも光学センサです。片方に映って片方に映らないなんてことはありえません。となれば、疑うべきはおつむの方です」
「すっごく失礼なこと言ってない?」
「見たという証言は否定していません。どう説明を付けるか、というお話ですよ」
てく、てく、と廊下をゆっくり歩きます。ラバーソールのナースシューズは大きな足音を立てません。引き戸を静かに開けて部屋を一つずつチェックし、異常が無いことを確認します。
宿泊区画で休眠を取っている患者さんたちの様子も、そっとうかがいます。
ベッドで休眠している患者さんたちの半数ほどが、うなされていました。うわごと、乱れた衣服やシーツ、苦しげな表情。
廊下まで漏れるうなり声の正体です。
誰がうなされていたか、携行しているチェックシートへ記入します。
「わたしとしては、こっちの方が気になりますね」
「何のこと?」
「夜にうなされている患者さんが、いつも同じなんですよ」
それも、宿泊区画のうち、奥の方に行くほど悪夢にうなされている患者さんが増えます。静かなのは家政人形のエリザベスさんくらいのものです。
「そりゃ、うなされるような失調を持ってるならそうなんじゃない?」
「みんながみんな、同時にうなされることがあると思いますか?」
「分かんない。ボクは夢を見ないからね」
「そうでしたね」
人形は休眠している間に、覚醒中に処理しきれなかった記憶や体験を整理します。休眠から覚醒に切り替わるとき、整理の途中だった記憶や体験の断片が繋ぎ合わされて物語化し、夢として認識されます。
夢を見るのは、人形の生理現象です。当院に入所なさっている患者さんなら、悪い夢を見ても不思議ではありません。過去の嫌な経験は、そう簡単に整理できるものではありませんから。
ただ、こんなに多くの患者さんたちが一斉に悪夢を見ている、というのは不自然です。
幽霊騒ぎとほぼ同じ頃から起きている、静かで不気味な異常。
不気味なのですが、対処法は特にありません。
せいぜい、患者さんが悪夢から覚めきれなかったときのために、鎮静剤のアンプルをすぐに取り出せるよう準備しておくことくらいでしょうか。
そうやって、最後の個室、病棟の一番奥にある部屋を訪れたときのことでした。
「……ありゃ? イリーナさん?」
ネックライトの光が床や壁に乱反射して、真っ暗な部屋全体をうっすら照らします。ベッドとサイドボードの他には何も無い部屋。ベッドは、空っぽでした。シーツが抜け殻のように残っていました。
「メスキューくん、部屋にイリーナさんはいますか?」
「ううん。熱反応無し。部屋にはいないね。看護網絡にアラート上げる?」
「いえ、待ってください。たぶんあそこです」
イリーナさんの主担当はわたしです。どこにいるか、だいたい見当がつきます。
「あいあいさー」
わたしはメスキューくんを連れて、足下灯の光が溜まる廊下を早足で抜けます。
診察室の側を通過。ナースステーションの側も通過。
開放病棟の角にあるコモンスペースへ着きました。角の二面はガラス張りになっています。
半月の月明かりが差し込み、コモンスペースに設えられた長机を照らしていました。長椅子には、金髪で痩せぎみな保安人形さんが座っていました。
床をちょんちょんと指差し、メスキューくんをコモンスペースの出入り口で待たせます。
わたしはゆっくりと、わざと足音を立てて歩み寄ります。すぐに保安人形さんは気づき、わたしへ振り返りました。
「……ああ、ハーロウさん」
「こんばんは、イリーナさん」
こんばんは、と、囁くようなかすれ声。
イリーナさんに近づいてしゃがみます。わたしは背が無駄に高いので、こうしないと視線の高さが合わないのです。
「眠れませんか?」
イリーナさんは薄緑色の入院着を右手で掴み、左手でニットの帽子を押さえます。
「はい……計算が、進まなくて。もう少しなんですけど……」
何のことを言っているのかは分かりません。イリーナさんはそういう患者さんです。こういうときは、否定も肯定もしないのが基本です。
「大変ですね」
「すみません。寝た方が効率が上がるのは、分かってるんですけど……」
骨格は全体的に華奢で、背もやや低め。肌は人形の中でも特に白い方。幼さを残す顔つきは常に不安そうですが、元々は保安人形としてシティの治安維持にあたっていた方だと聞いています。
「無理に眠ろうとしなくてもいいんですよ」
イリーナさんは、シティ・プロヴィデンスで発生した災害の生き残りだそうです。バンシュー先生によれば、人間様でいうところの心的外傷後ストレス障害を抱えているとのこと。強迫症や不眠症は、PTSDに関連する症状です。
災害の詳細は、わたしも知りません。知っているのは、百万都市が一つ滅亡した、ということだけ。
「そういえば、そろそろ読む本が無くなる頃ではありませんか?」
「そう、ですね」
「何か、読みたい本はありますか?」
本というのは紙に印刷された本のことです。
「それなら……ラヴクラフト、誰かとの合作を。単著は、もう全部読んだので」
「分かりました。入荷をお願いしておきます」
ラヴクラフトさんが何者かわたしは知りませんが、たぶん誰かが知っているでしょう。チェックシートに記入しておきます。
「さて、と。お隣、座ってもいいですか?」
「はい。何か、ご用ですか?」
「いいえ、特に何も。巡回が終わったので、ちょっと暇なんです」
イリーナさんは小さく頷いてくれました。
わたしはイリーナさんから体一つ分を空けた所に座ります。
当院の夜は、とても暗くなります。ガラス壁から差す月明かりだけで、コモンスペースにある様々な物体の陰影がはっきりと見えます。長机や長椅子、各種のボードゲームが納められた棚、対局の途中で止まった碁盤、そして凝脂の肌のイリーナさん。
じっとしているのは苦手なので何か話題を探します。
とはいえ。イリーナさんは夜間、とても臆病になります。どうやら夜という時間帯、あるいは暗闇に、強い恐怖心を抱いているようです。
幽霊だとか、悪夢だとか、そういったネガティブな話題などもってのほか。
結果。
なーにも話題が出てきません。ただ、隣で一緒にぼんやりしているだけ。
わたしが止まり木の療養所にて正式に看護人形として働くようになって、早七ヶ月。ここで一つ、気の利いたことを言えれば看護人形として成長できたと言えるのかもしれませんが。
「あの……何かお話したいことがあるんじゃ?」
そうですよね。そういう勘を働かせるのがコミュニケーションですよね。
「それがですね。本当に暇なだけなんですよ。たまたまイリーナさんがここにいただけで」
バイタルチェックを伴う重点巡回は三時以降ですし、緊急時には看護網絡経由で呼び出しがかかります。患者さんが活動する日勤に比べれば、夜勤は暇、もとい余裕がある時間帯なのです。
イリーナさんが口元に手を当て、目を細めていました。
「あは……」
彼女が笑顔になるところを、初めて見た気がします。
わたしが目を丸くしていると、イリーナさんはハッとして元の不安げな表情に戻りました。
「す、すみません……」
「いえ……イリーナさん、笑えるんですね」
今度はイリーナさんが目を丸くしました。鮮やかな緑色をした瞳の球面を、ちろりと月明かりが舐めます。
「イリーナさんがどれほど辛いのか、わたしには分かりません。話そうとすることさえ辛いんだと思います。だけど、笑えることをちゃんと笑えるのは、良いことなんじゃないかなって思います」
わたしは思ったことをそのまま口にしただけでした。
なのに。
見開かれたままのイリーナさんの目に涙が浮かび、すぐにぶわっと決壊しました。
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