星の輝きが薄れ、夜が紫色になり始めた頃。深夜と言うにはもはや遅く、払暁と言うにはまだ早い時間。
夏の盛りでも、この時間にはいくぶんか大気の熱運動が落ち着きます。頬を撫でる生ぬるい海風は穏やかに吹いて、頭上の旗を端っこだけなびかせています。
そう、大きな旗を立てました。旗に描いたのは当院のシンボル。青い十字の止まり木に、いつか飛び立つ二羽の小鳥が寄り添う意匠。
旗を立てたのは、ラヴァさんの指示です。
メラニーは看護C班のアルブレット先輩と共に、当院敷地の真ん中に位置する生産棟にいます。わたしたちと同じく、当院のシンボルを描いた大きな旗を掲げ、青十字を迎える算段でいます。
わたしは閉鎖病棟の屋上に立って腕を組み、一キロメートル先の松林を睨んでいました。黒々とした松林は、内外の可視光を遮っています。屋上に立っても南太平洋は見えません。
隣にはジュリア看護長。暗くて表情はよく見えませんが、わずかな身じろぎから、ひりつくような緊迫感が匂います。
ここにいるのは、わたしとジュリア看護長の二体だけ。
全ての患者さんには、地下の第三層、安全な区画へ避難してもらっています。
じりじりと空が白みを帯びていく中。
不意に、ジュリア看護長がぼやきました。
「青十字と喧嘩することになるとはね」
謝りそうになったところを、ぐっとこらえました。謝っても、事態は好転しません。ぼやいたのは、わたしの過度な緊張をほぐすためか、あるいは会話のきっかけを作りたかったのか。
松林を睨んだまま、わたしは組んだ腕に力を込めました。首もちょっと縮みました。
「……先輩たちは、知ってたんですよね。当院が青十字と協力関係にあったってこと」
「そりゃあね」
わたしたちに知らされなかった理由は、言われずとも分かります。絶対に対立するから。いずれ出会い、決裂するとしても、その時までは当院へ搬送される患者さんを一体でも多く診ることの方が重要だから。
「青十字がどんな組織なのかも、知ってたんですか」
「知ったのは院長先生と一緒にここに来てから。言っとくけど、あんたと違ってあたしはどっちでもいい」
「どっちでもいい、ですか」
声に怒気が籠もるのを抑えられませんでした。ジュリア看護長は耳ざとく察し、わたしの肩を軽くはたきました。
「あー、言い方が悪かった。つまり、あんたたちの気持ちは痛いほど分かる。患者さんのお世話をしてこその看護人形だからね。でも、青十字にも青十字なりの道理がある。仕事をこなすことについては間違えない。奴らも人形だからね」
「お互いに言い分がある、ってことですか?」
「そういうこと」
首だけ動かしてジュリア看護長を見やると、ジュリア看護長も腕を組んで黒い松林へ視線をやっていました。
「院長先生から聞いた話だけどね。大昔、まだ家政人形しか造られていなかった頃の話よ」
ざっと数十年は昔のことです。
「家政人形は元々、それぞれが所属するコミュニティの揉め事を内々に処理してたわけ。持ち主の手を煩わせないようにね」
「はい」
人形網絡がなぜ家政人形の名を冠しているのか。人形網絡は元々、家政人形たちが相互に情報を融通するために構築したネットワークだったためです。
「けれど人形が普及し、職能が細分化されるにつれ、それじゃ追っつかなくなった。小さな揉め事ならともかく、ヒトと人形との間に軋轢を生むような大きな揉め事は、本業を持つ人形が片手間に済ませられるような仕事じゃなくなった」
「……だから、揉め事を内々に処理する専門家が必要になった」
「そう。それが青十字。構成員は持ち主を失った人形だったり、有望株を引き抜いたり、まあ色々。各シティに根を伸ばして情報を集める一方、本体は海洋を拠点に活動する。陸で暮らす人間様の手を煩わせないようにね」
青十字は、正しい。やり方は乱暴そのものですが、溜まりに溜まったツケを購うためには致し方ないことなのかもしれません。
例えば、シティ・プロヴィデンスの悪夢をどうやって解決するか。あの、何もかも行き詰まって、未来をことごとく失った都市を。一等人形造型技師をして「化け物だらけ」と言わしめた、一つのこの世の終わりを。
わたしは、イリーナさんだったものを漂白しました。彼女が人形に仇成すものだと判じて。
彼らは、シティ・プロヴィデンスを葬りました。かの都市が人類に毒あるもの、害あるものだと判じて。
彼らも、わたしも、手の施しようがないから討ち滅ぼした。その点に変わりはありません。
それに、彼らはわたしよりはるかに長い歴史を持っています。彼らのやり方は、まだ家政人形しか造られていなかった頃から認められ続けたのですから。
「……ジュリア看護長は、どちらが正しいと思いますか?」
「どちらが正しいか判断するのはあたしじゃない」
ジュリア看護長はきっぱりと言いました。
「あたしは看護人形。持ち主の指示に従う。昨日はあんたを捕まえろと指示を受けた。今日はあんたを助けろと指示を受けた。昨日と今日で持ち主の言うことが違うのは当たり前のことでしょ」
それは、そうです。人形が解くべき問題を設定するのが人間様のお仕事。言い換えれば、何をすべきか人形へ指示を出すのが人間様のお仕事。
「あんたたちはあんたたちの仕事をすればいい。ただし、相手のことは知っておくべき。落としどころを見つけるためにもね」
「落としどころ、ですか」
「そう。どんな争いごとも、どこかで落としどころを見つける必要がある。これはね、あんたたちが青十字の譲歩を、どこまで、どのように引き出すかって喧嘩になる」
落としどころ。
彼らとわたしたちとで、互いに納得できる条件を引き出す。
仮にラヴァさんの講じた策が的中したとして。押し寄せる大勢の人形を無力化できたとして。
わたしたちの目的は、その後に青十字と交渉して当院の存続を確約させること。あの合理主義で結束した群体に、不合理なわたしたちの存在を認めさせること。
でも、いったいどうやって?
思索に沈みかけたわたしの肩を、ジュリア看護長が明るい声音で叩きました。
「ま、それも喧嘩に勝ってから。あたしはどこで働けと言われても働けるけど、あたし自身の希望としては、ここで働き続けたいからね」
「ジュリア先輩も、ですか」
「そりゃあね。ここがミーム抗体を精製する設備だとしてもさ。退所する患者さんの笑顔を見るのは嬉しいものだから」
「……でも、患者さんはわたしたちとの思い出を忘れてしまいます」
「患者さんが少しばかり幸せになることに変わりはない。違う?」
ジュリア看護長に言われて、ハッとしました。
そうでした。わたしは、わたしに託された人形の幸福のためにわたしの全てを捧げると誓ったのでした。
患者さんがわたしたちを忘れるとしても、患者さんが幸せになるのならそれでいい。
「だからさ。期待してるよ、新人」
「……はい!」
と、決意を新たにした、そのときでした。
ついに、黒松の林に展開していたメスキューくんの一機から一報が入りました。
M14:西岸ポイント14-4にて侵入者を発見。指示を請う。
いつものメスキューくんらしからぬ事務的な口調でした。彼らには一時的に、兵站補給ユニット用のオペレーションシステムをインストールしてあります。
わたしとジュリア看護長はぴたりと口をつぐみ、看護網絡のログへと意識を転じました。
M27:西岸ポイント21-2にて侵入者発見。指示を請う。
M11:西岸ポイント14-4にて侵入者発見。指示を請う。
M39:西岸ポイント35-1にて侵入者発見。指示を請う。
M18:西岸ポイント14-4にて侵入――
看護網絡のログが、各地に配備しておいたメスキューくんの報告で流れていきます。
ハーロウ:@メラニー 来ました。西側は予想通り。東側は?
メラニー:@ハーロウ こっちも。
ラヴァさんの予想した上陸ポイントは、ことごとく的中しました。西側のこちらは四つ。
とはいえ、的中しただけ。相手は数にものを言わせて、力尽くで制圧する算段なのです。
ここから、ラヴァさんが講じた様々な策を、わたしたちが機を見て実行に移していきます。
まずは出鼻をくじくところから。
わたしは目を閉じ、最初に報告してくれたメスキューくんへ指示を出しました。
ハーロウ:@M14映像を回してください。
M14:了解。高感度カメラの映像および音声を送信。
閉じたまぶたの裏に、メスキューくんのマルチセンサーが捉えている高感度カメラの映像が浮かびました。非常時のため、看護網絡の機能を拡張しています。
映像の中で、黒々とした人形が、防波堤から次々と降り立っていました。小脇には細い直方体を抱えていました。ハンドルとトリガーを備えているので、銃器でしょうか。
全身は黒づくめ。頭部には黒いヘルメット。上は黒い厚手のジャケット。下は黒い厚手のカーゴパンツと、同じく真っ黒なごつごつしたブーツ。灰色なはずの岸壁が、真っ白に見えるほどのコントラスト。
察するに、東西にそれぞれ百二十体ずつ程度でしょうか。
ともあれ、彼らがまとまっている間に一撃を加えなければ。
――と、黒い人形たちの姿がふっとかき消えてしまいました。
赤外線カメラには防波堤の壁だけが残されました。
M4:対象をロスト。指示を請う。
M14:対象をロスト。指示を請う。
M23:対象をロスト。指示を請う。
M37:対象をロスト。指示を請う。
熱工学迷彩。偏向素材を応用し、対象を『透明』に見せかける衣服。ガラティアさんの『お色直し』と同種の技術です。
ですが、これはラヴァさんが予想していた事態の範疇。
ハーロウ:ポイント1からポイント4へ。染色液を噴霧。
M1:了解。
M11:了解。
M21:了解。
M31:了解。
メスキューくんたちが一斉に松林から岸壁へと飛び出し、右のマニピュレータからオレンジ色の染色液を空中へ噴霧しました。
熱工学迷彩の弱点は、水濡れや粉塵です。
噴霧した染色液は、容易には落とせない塗料の溶液です。ラヴァさんの要請を受け、地下三層の化学工場をフル稼働して何とか八十機分の染色液を用立てました。
生ぬるい海風が吹き、噴霧した染色液が払われると。
メスキューくんの赤外線カメラに、再び真っ黒な侵入者が映りました。蛍光ピンクの染色液がまだらに染みていました。
彼らは小脇に抱えていた細い直方体を構え、メスキューくんへと向けました。
わたしはとっさに看護網絡へ指示を投げました。
ハーロウ:総員伏せ!
耳をつんざく無数の発砲音までもが共有され、頭がくらくらしました。
映像の共有を切り、目を開いて首をぐるりと回したところ。
当院の西側から、二・九四秒前の発砲音が届きました。
ハーロウ:M1からM40へ。無事ですか。
M1:全機、貨物部が中破。全機、基板部に損傷無し。
ほっとしました。メスキューくんの演算回路と制御基板は、筐体の下部に集中しています。丸みを帯びた箱の大部分はただの荷かごなので、撃ち抜かれても大丈夫。
ハーロウ:ではそのまま、一切動かないでください。
M1:了解。
ハーロウ:このメッセージから五秒が経過したら一斉に松林へ後退。抵抗を続けます。
M1:セット。五秒後に状況を再開する。
「ふう……」
わたしは武力行使というものを、まだどこかで甘く見ていました。彼らはもう、セーフティを外しているのです。出会った瞬間から撃たれることを想定しなければならない。先ほどはとっさの判断が奏功しましたが、いつも的確な判断が下せるとは限りません。
わたしが改めて気を引き締めたところ。
東側からも発砲音が届きました。おそらくは八・八二秒前、東側のあちこちで同様に発砲がなされたのでしょう。
侵入した瞬間に攻撃を加えることは、できました。今のところはわたしもメラニーも、ラヴァさんの立てた作戦に沿うよう、前線での戦術指揮を執れています。
彼らは来ました。メスキューくんたちの染色液噴霧を受けた直後、迷わずに発砲しました。
わたしたちは万全とは言えずとも戦いに備え、一つだけとはいえ彼らの優位を剥がしました。
戦いの火蓋は、切って落とされたのです。
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