あの日。学友人形のアンソニーが停止した日。
いつものようにアイリスを連れて中庭へ出ようとしたメラニーは、自在調光ガラス越しの中庭で昏倒しているハーロウを発見した。
メラニーの行動は素早かった。
すぐさま自在調光ガラスを人差し指でなぞり、全面を鏡に変えた。
「おや。どうしまし――」
た、と言わせる前にアイリスを個室へ押し込んで戻らせ、ぴしゃりと引き戸を閉めた。
廊下を駆けつつ看護網絡へアラートを発した。緊急事態につき、患者を保護されたし。
メラニー自身は中庭へ繋がるガラス戸へと回り込んだ。押し開けた。
鋭い一歩目が、ざく、と芝生を踏み抜いた。
二歩目を継ごうとした間隙のことだった。音に反応したハーロウが、ぎゅっと折り畳んでいた長い手足を板バネのように弾けさせ、跳ね起きた。
頬はこけ、肌は土気色になっていた。琥珀色の瞳がぎょろりと動き、駆け寄るメラニーへ向いた。
瞳孔が急速に縮小していき、鏡に囲まれた中庭のまぶしさに明順応した。
暗い場所から明るい場所へ出たとき、目が慣れるのは早い。生死を分かつからだ。ヒトでも一分はかからない。人形なら十秒とかからない。
瞳孔が収縮する十秒間で、メラニーは三メートルの距離まで近づいた。そこまでだった。
「近づかないでください!」
濁った声が、メラニーを制止した。嘔吐と一緒に言葉を吐いているかのようだった。口の端から、よだれが細く垂れていた。
「わたしに、近づかないでください」
ハーロウはこめかみを人差し指でドンと突いた。銃で撃ち抜くかのように。
「近づいたら、介入共感機関の拘束を、解きます」
目が据わっていた。琥珀色の瞳はうつろに濁っていた。
あいつは自身に搭載された介入共感機関を忌み嫌っている。伊達や酔狂ではない。
だから、
「なんで」
とだけ、メラニーは尋ねた。
ハーロウは感情を失った声で答えた。
「わたしが人形に仇成すものだからです」
意味不明だ。前後の発言に脈絡がない。
だが、メラニーはあの目を知っている。つい最近、見させられた。
あの怪物と同じ目だ。行き止まりの行き着く果てを見届けた、あの目だ。
「どいてください」
身がすくんだ。冷や汗が、つっと腋から脇腹へ滑った。
メラニーもハーロウと同等にシティ・プロヴィデンスの悪夢を追体験している。あれと同じものが、目の前にいる。
さりとて、銃より暴力的な機能を振り回すと言って錯乱している者を放逐するわけにもいかない。
かくなるうえは、食い合うことを覚悟で介入共感機関の拘束を解くか。
「――我は。常に人形へ与する者」
メラニーの看護人形誓詞は、意味こそ同じだが文言はハーロウのそれより短い。先に唱えきってしまえば先手を打てる。
「其に毒あれど害あれど、これことごとく肯うっ⁉」
ごん、と頭を小突かれた。
「馬鹿はよしな、セイカの娘」
よく通るしわがれた声が、メラニーの斜め後ろからかけられた。
白衣をはおった老婆の姿が、視界の端に映った。
背は、メラニーよりわずかに高いほど。白衣の端から覗く手足は枯れ枝のよう。
止まり木の療養所を束ねる医師レーシュンは、そんななりでも堂々たる存在感を示していた。
「下がってください院長先生」
「馬鹿たれ。下がるのはお前さんだ」
言って、レーシュンは無造作に一歩前へ出た。
「バンシューの娘。そんな顔をして、どうした」
「……わたしは、看護人形失格です」
「勝手なことだ。私はやめておけと言った。後悔すると。だのにその様は何だ。覚悟の上だったはずだろう。そも、お前さんが看護人形失格かどうか判断するのは我々医師だ」
「……わたしは、人形に仇成す者です」
「そうか。それで、己を討つ腹づもりか」
メラニーが色を失い、レーシュンの横顔を窺った。
レーシュンは顔色一つ変えず、鋭く厳しい眼光でハーロウを見据えていた。
「はい。わたしは、全ての人形の味方ですから。わたしが人形に仇成す者であるなら、わたしはわたしを討ちます。せめて、わたしが立てた誓いを遵守させてください」
レーシュンは小声でぼやき、肩を落として嘆息した。
「全く。これだからガキの面倒は見きれん」
転瞬、カッと目を見開いた。
「――手前勝手も大概にしな!」
裂帛の怒声が、メラニーもろともハーロウを打ち据えた。二体の背筋がばしりと伸びた。
「貴様、何様のつもりだ。今、貴様が貴様を否定すれば、アンソニーが貴様へ託したメッセージの意義を、その切な願いを否定することになるのだと、なぜ分からん」
「アンソニーさんには、申し訳ないと思っています。わたしごときが、最後の友達で……」
「わたしごときだと? 貴様が担当したクライアントは、貴様ごときに世話をされた不幸なクライアントだと、貴様はそう言うのか。アンソニーに共感して、そのようなクライアントがいると知ってなお、相も変わらず貴様はクライアントの不幸を決めつけるのか」
「それ、は……」
「貴様の手前勝手な思い込みが、今まで関わってきたクライアントの全てをも否定し、クライアントとの間に培った絆を、貴重な経験を、喪失するのだと、なぜ分からん!」
「っ……それは、ミーム抗体精製機構としてのわたしに仕事をさせるための方便でしょう!」
「だったら何だ。今もなお不調に苦しむクライアントの世話を、看護人形の貴様が放棄していい理由にはならん」
レーシュンは、ハーロウが吐露する苦悩を、事実と正論で次々と叩きのめした。
「貴様は、物事が思い通りに行かなければすぐに癇癪を起こすガキそのものだ。勝手に期待して勝手に絶望して勝手に自壊するだと? 教えてやろう。それを自慰行為という。貴様の自慰行為にクライアントを使うな。医師の私が許さん」
レーシュンの論は、いちいち的確で正しかった。
メラニーが口を差し挟む隙など無かった。
一方で、何もそこまで言わずとも、と思ってしまう。何があってハーロウがここまで追い詰められたのか、メラニーは知らない。だが、正論とはいえ、傷口に塩を擦りこむような仕打ちは、あまりといえばあまりではないか。
「医師レーシュンが命ずる。看護人形ハーロウ、今の貴様は意識変容状態だ。保護室へ収容する。抵抗は許さん。看護人形メラニー、看護人形ハーロウを収容しろ」
「……はい。院長先生」
メラニーは慎重にハーロウへ近づき、手を取った。
レーシュンの言葉で徹底的に叩きのめされたハーロウは、何ら抵抗することなくメラニーに手を引かれ、閉鎖病棟内に設えられた保護室まで連行された。
「横になって」
ハーロウは声も発さず、頷きもしなかった。ぎくしゃくとベッドの縁に腰掛け、横臥した。長い手足を折り畳んで縮こまった。
保護室には低いベッドと簡素なトイレがあるきり。
「……ハーロウ」
意を決して、優しく揺すった。わずかな姿勢反射が手のひらに返ってきただけだった。
「……っ」
メラニーは口をぎゅっと結んで鼻から深く息を吸った。じりじりと後ずさり、後ろ手でドアを探り当て、音を立てないように引き開けた。ずっとハーロウに注視していた。
ハーロウは、身じろぎ一つしなかった。
背中から保護室を出た。引き戸を閉めて、スライド式の錠を下ろした。
レーシュンへ報告して、アイリスのもとへ向かわねば。メラニーは、看護人形なのだから。だが、ハーロウはどうする。保護室に収容したその先はどうなる。
看護人形としての義務感と、同僚であるハーロウへの心配が、メラニーの足をもつれさせた。自分の足にけつまずいたメラニーは爪先を軸に四分の一回転。背中から倒れかけた。
「あ――」
「気をつけな」
声と共に、枯れ枝めいた手がメラニーの肩を軽く押した。それだけで、崩れかけていた姿勢がしゃんと収まった。
振り返れば、レーシュンが片手に杖を携えて立っていた。
「……院長先生」
「苦労をかけた。戻っていい」
「あいつに、何があったんですか」
「後で説明する」
突き放された。
レーシュンは、言葉だけで誰かを殺せる類いの人間だ。食ってかかるのには、相当な勇気を要した。だが、言わずにはいられなかった。
「あんなに言うこと、ないです。言い過ぎです。あんまりです」
ハーロウがされたように罵倒されることを覚悟した。
レーシュンは力なくため息をつき、肩を落とした。両手で杖を突き、体重を預けた。
「そうさね。私は無力な愚か者だ。事実と正論で殴ることでしかバンシューの娘を止められなかった。お前さんの非難はもっともだ。事情を知らん者が口を挟むなとも言わん」
「え……」
肩すかしにもほどがあった。
「私は紛れもないひとでなしだ。だが、私とてこのような結果は望んでいなかった。そうでなければ、止まり木の療養所の院長など務めていない」
しわがれた声にいつもの迫力は無く、重ねた年月相応の疲労感が滲んでいた。
「……悪かったね。往生際の悪い言い訳だ。お前さんはアイリスのもとへ戻りな。クライアントが、お前さんを待っている」
メラニーは、何も言えなかった。
黙ってきびすを返し、アイリスのもとへと向かった。
それくらいしか、メラニーにできることはなかった。
以来。
ハーロウは保護室から出てこなくなった。
介入共感機関を盾にして誰の入室をも拒み、絶食を貫いている。
ハーロウは、自らを保護室へ軟禁したのだ。
そうして、現在に至る。
南太平洋の青空に、太陽が正中している。北の空に高々と昇った水素の火球は、一億五千万キロメートルのかなたから海原をじりじりと焼いている。
もう、すっかり夏だ。
正午も間近。気温がぐんぐんと上がってきた。メラニーの頬、腕、太股に、ぷつぷつと汗の粒が浮いてきた。
人形もヒトと同じく、熱放散を発汗に頼る。人形はヒトより高熱に耐えるが、限度はある。夏の炎天下で無防備に直射日光を浴び続ければ、発汗による熱放散が追いつかず、ヒトでいう熱中症になる。
「アイリスさん。そろそろ戻りましょう。暑いので」
「大丈夫ですよ、道徒メラニー。私は丈夫に造られていますから」
郵便人形は、ときに自動二輪車で数百キロメートルも走り続けるという。丈夫さには自信があるのだろう。だが、メラニーが心配しているのは肉体的な疲労ではない。
「最初の外出は疲れます」
「疲労は覚えていないのですが……」
メラニーは攻め方を変えることにした。
「アストラル体の循環、良すぎないです?」
「というと?」
「たぶん、気分が高揚してます。最初の外出なので。良すぎるのも良くないです」
「ふむ……一理あります。確かに、これは良いというより、良すぎますね。道徒メラニー、あなたも陰陽の霊気に対する洞察が深まってきたのですね」
そんなことはない。
一般に、慣れない体験は良きにつけ悪しきにつけ、模倣脳に負荷をかける。高揚していると負荷による疲労に気づかない。
そのことを、アイリスが理解できる言葉に翻訳しただけだ。
「俺も今日は昼からワークショップだ。そろそろ戻らないとな」
ラヴァの言は、気を利かせた方便なのか事実なのか分からないが、良いタイミングでの援護射撃になってくれた。
「では道徒メラニー。病棟へ戻りましょう」
「はい」
「午後からは講義にしましょうね」
「はい……」
「ラヴァさんも、お付き合いくださりありがとうございました。いずれ、また」
「ああ。また」
こうして、アイリスの最初の外出はつつがなく終わりを迎えることができた。
止まり木の療養所は、今日も平常運行だ。
ただ一体、保護室に閉じこもったハーロウという看護人形を除いては。
形容しがたい苦さを飲み込んで、メラニーはアイリスの手を引いて閉鎖病棟の出入り口へと歩みを進めた。
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