早足で個室を巡り、ベッドに横たわっている患者さんたちのバイタルをチェックします。
途中、スキナー先輩がシャワールームに通じる廊下で倒れているのを見つけたので、他の先輩方が倒れている所まで運んでおきました。
三体ずつ患者さんを診た時点で、メラニーと情報を突き合わせました。
「息だけはしてる」
「ええ、こちらもです」
声をかけても頬を軽く叩いても、全く目を覚ましませんでした。いわゆる昏睡状態です。
バイタルモニタが示すのは高熱、頻脈、高血圧。壊れてしまうほどひどい熱ではありませんが、放熱を必要とする何かが患者さんに起きていることは確かです。
「……先輩方と同じ症状ですね」
何が起きているのかは分かりませんが、他の患者さんたちも同じ状態に陥っていると見るべきでしょう。
「就業規則の緊急規定第九条。今はハーロウが指揮権者。どうする?」
わたしはメラニーより一日だけお姉さんなので、指揮権の移譲順位も一つだけ上です。まさか本当に指揮権を持つことになるとは思いもしませんでしたが。
「アンナ看護長たちを探しましょう。患者さんたちは昏睡状態ですが、命に別状はありません。わたしたちは何故か無事ですが、手が足りません。いったんコモンスペースまで退却して、先輩たちが目を覚ますまで待って、体勢を立て直しましょう」
「分かった」
巡回中に音信不通となったということは、宿泊区画のどこかで倒れているはずです。
メラニーと共に廊下を走ります。
宿泊区画の奥へ進むにつれ、ナースキャップに隠されたわたしのアンテナにチリチリと痒みのような感覚が走るようになりました。何か強い信号を受信しているようですが、わたしにはノイズとしか捉えられません。
角を曲がり、一番奥の部屋が見通せる廊下へ出たときのことでした。
遠くに見えるのは、イリーナさんが寝泊まりする個室。その引き戸が、ぽかんと開きっぱなしでした。
手を離せば自然に閉じるはずの引き戸。
引き戸を止めているのは、細めの足首。女性型人形のそれ。見慣れたナースシューズ。この先に存在する女性型の看護人形といえば――
「アンナさん」
呟くなり、メラニーはバネが弾けるような勢いで廊下を疾走していきました。遅れてわたしも追従します。
メラニーがキュッと靴底を鳴らし、ぽっかり開いた引き戸へ飛びつきました。
「すみません失礼しま、すっ!」
追いかけていたわたしはメラニーのお尻へぶつかりそうになり、慌ててブレーキをかけました。
勢いでネックライトが跳ね、真っ暗な部屋をちらちらと部分的に照らします。
断片的に見えるもの。金髪。看護服。皮膚。バイタルモニタ。ベッド。眼鏡。
暴れるネックライトを掴み、前方へ光を向けました。
ベッド脇、サイドボードの隣には、だらりと腕を垂らし、背をかがめた人形。ふらふらと頭を小さく揺らしながら、立っていました。
「イリーナ……さん?」
金髪で痩せぎす。凝脂の肌。薄緑色の入院着に、ニット帽。それぞれの要素は、確かにイリーナさんを示していました。
ですが、イリーナさんのお腹が入院着を破るほどに膨れているのは何故でしょう。
「どうしたんですか、それ……」
だらりと下がった右腕が開放骨折して、尖った尺骨が覗いているのは何故でしょう。
「アンナ、看護長……」
イリーナさんの足下で、アンナ看護長が昏倒していました。
「アンナさん!」
メラニーがアンナ看護長へ駆け寄り、首筋に指を当てて脈を取ります。
本来、看護人形が気にかけるべきは患者さんです。ですが、研修時代の指導役だったアンナ看護長をメラニーはとても慕っています。だから見なかったことにします。
わたしは口内に滲んだ苦いものを飲みこみ、努めて穏やかな声音でイリーナさんへ話しかけます。
「こんばんは、イリーナさん」
イリーナさんが首だけをもたげ、わたしを視界に収めました。
「ああ……ハーロウ、さん……?」
「そうです。あなたの主担当、看護人形のハーロウです。右腕、治療しますから、わたしと一緒にコモンスペースまで来てください」
わたしは引き戸から室内へ静かに一歩踏み入り、開いたままの出入り口を左手で示して閉じ込める意思が無いことを示しました。
イリーナさんは不思議そうに首を傾げました。
「ええと……すみません、ちょっと待ってください」
「右腕、折れてるんですよ!」
語気を強めに言い含めます。自分の怪我に気づかない患者さんもいらっしゃるので。
「あ、はい。分かってます。けど……すみません、まだやることが残ってるんです」
そう言って。イリーナさんはおもむろに右手の尺骨を、振り上げ振り下ろしました。
迷いもためらいもない滑らかな動作に、わたしは全く反応できませんでした。
「え……」
イリーナさんの右腕の尺骨が、アンナ看護長の胸に深々と突き立っていました。
メラニーの手の先で、アンナ看護長の全身が数秒ほど痙攣したのち、ぐったりと力を失いました。
どく、どく、とイリーナさんの右腕が脈打ちます。イリーナさんのお腹がさらに膨れていきます。膨張に耐えきれなくなった皮膚の内側が放射状に裂け、紫色に内出血していきます。
まるで――研修時の教科書でしか見たことのない――妊娠線のような。
看護服の袖から見えるアンナ看護長の腕が、目に見える速さで痩せ細っていきます。皮膚がしわだらけになって、骨に皮が張りついただけのものになりました。
我に返ったのは、メラニーの方が先でした。うなり声を上げ、しゃがんだ姿勢からイリーナさんへ突進しました。
「――ううあああぁ!」
腰骨に肩をぶち当てました。最も効果的なタックル。だったのですが。
跳ね飛ばされたのは、メラニーの方でした。メラニーは低身長ですが、肉付きはそれなりです。看護人形なので力持ちでもあります。なのに、イリーナさんはちょっとよろめいただけでした。気づいた素振りさえありませんでした。
よろめいた拍子に、ずぽ、と音を立ててアンナ看護長から右腕の尺骨が抜けました。
尺骨の鋭い先端から、アンナ看護長の赤い循環液がぽたぽたと垂れ落ちました。
わたしは間違えました。
行動すべきだったのに、理解しようとしました。眼前で起きていることはわたしの常識を逸脱していて、わたしは微動だにできませんでした。
「イリーナさん。何があったんですか。どうして、そんなことをしているんですか」
わたしは、冷静だったわけではありません。他に言葉を思いつけなかっただけです。
「レーシュン先生が、言ってましたよね。棄却した解を再検証してみろって。だから、そうしてみたんです。存続の定義を拡張して、複数の評価手法に重みを付けて、時間遷移を日単位から分単位まで刻んで、思いつく限りのパラメタを試して、そうしたら――」
イリーナさんはいったん大きく息継ぎをしました。
「――あったんです。妥当な解が。見逃していました。たぶん、これが最適解だったんです。私、プロヴィデンスを再建する方法を、見つけました。そこにヒトがいて、人形がいて、生活すれば、シティになるから。プロヴィデンスの地に造れば、シティ・プロヴィデンスになるから。だから、ヒトも人形も造り直すことにしました」
イリーナさんのお話は、荒唐無稽に過ぎます。
患者さんの言う『よく分からないこと』、つまり妄想は、否定も肯定もしないというのが原則です。
けれど、わたしはシティ・プロヴィデンスの悪夢を知っています。知ってしまいました。ヒトと人形の融合などという理解しがたいソリューションに比べれば、シティを造り直すという彼女の言にはいくぶんか現実味があります。
その現実味を信じたくなくて、わたしは問いかけてしまいました。
「本当に、実現できると……?」
「最後の検証中ですけど、大丈夫です。今、他の人形にも頑張って検証してもらっています。でも、検証結果を統合するためにはやっぱりリソースが足りなくて」
イリーナさんの視線が、個室の隅に送られました。
「だから、ラカンさんと、アンナさんからリソースをお借りしました」
イリーナさんの視線を追ってネックライトを向け、わたしは息を詰まらせました。
太い針金で作った棒人間に看護服を着せて、頭だけを精巧に造りつけたかのような。血色の良かった肌は、蒼白を通り越して土気色に濁っていました。
ラカン先輩だったものの、変わり果てた姿。
わたしは高密度ケイ酸カルシウムから成る指骨が軋むほど強く、拳を握りしめました。
イリーナさんを殴りたいわけではありません。
何かに当たり散らしたい衝動もありません。
「どうして……!」
ただ、やるせなさが行き場を失って、指先に集まって、拳を作るしかありませんでした。
「リソースが足りなかったので……微細機械を初期化して、私に移して、造り直して……その、場所が無かったので、今はここに」
イリーナさんが、膨れたお腹を左手で触りました。
「神経組織の構築と配線には膨大な時間がかかります。あなたの言う計算には間に合わないのでは?」
「いいえ。そんなことをしなくてもいいんです。造ったのは筋組織ですから」
膨れたお腹の中で、何かが活発にうごめいていました。
「ほら、今も計算しています」
「そんな……モーフォロジカル・コンピュテーション……」
変形する物体の形状や構造を解とみなす計算手法は、わたしたち人形にとって馴染み深いものです。わたしたち人形が思考し、問題を解くに利用するのは、模倣脳だけではありません。身体の形状や動作そのものも、解を導く演算器として見なします。
イリーナさんは、ラカン先輩もアンナ看護長も、筋肉でできた計算機に変えてしまいました。
「私も、質問して良いですか?」
予想だにしなかった言葉に、わたしは首を縦にも横にも振れませんでした。イリーナさんはお構いなしにわたしたちへ問いかけます。
「その……ずっと、気になってたんですけど。どうして、ハーロウさんとメラニーさんは、検証に協力してくれないんですか? 今もお願いしてるのに……?」
へたりこんでいたメラニーが、ゆっくりと立ち上がりました。
「聞いてないし、協力なんてするわけない」
怒気をはらんだ低い声を、イリーナさんの喉元に突きつけます。
「あなた、何をしたか理解してますか」
「ご……ごめんなさい……」
「何に謝ってるんですか」
「っ……そ、の……ごめん、なさい……」
イリーナさんはメラニーの怒気に怯え、お腹をかばうように身を縮めました。
「あなたはアンナさんとラカン先輩を壊した」
「だ、大丈夫です。後で、返しますから。だって、あとは『二大株』があれば、プロヴィデンスを再建できて、ラカンさんもアンナさんも復元、できますから」
「できない」
「で、できます……ちゃんと、覚えてます」
「できない。微細機械の配置を再現するだけじゃ目覚めない。もう元に戻らない」
「直せ、ます……!」
「できない。シティも同じ。あなたが仕えるべきヒトも、あなたが言うシティも、もう存在しない。元には戻らない」
「やめなさいメラニー!」
メラニーの怒りには共感できますが、わたしたちは看護人形です。一方的に現実を突きつけて物事が解決するなら、この止まり木の療養所は必要ありません。
わたしの制止は、遅きに失しました。
「どうして、分かってくれないんですか……できない、だなんて……言うんですか……できるのに。わたしの、計算は……間違って、ないのに……どうして、信じてくれないんですか」
イリーナさんは両手で顔を覆い、子供がむずかるように頭を振りました。頭を振るたび、右手から生えた鋭利な管が、ざりざりと端正な顔を傷つけます。
どれだけ荒唐無稽な妄想であろうと、それは患者さんにとって自我の足がかりとなる天地の境界であり、自身を社会へ係留する舫い綱です。他者による否定も、肯定も、妄想を加速する材料にしかなりません。本人が気づかないことには、解決しないのです。
「わた、私、は……プロヴィデンスの、未来を……見つけ、ました。わたしの計算は、検証は、間違ってない……はずです。だって、何度も検証しました。皆さんに検証、してもらいました。もう、これ以外には次が無いんです。ラカンさんも、アンナさんも、ちゃんと戻すのに」
お腹に抱えていた筋組織がほどけ、皮膚の下を這いずってイリーナさんの全身へ巡りました。ごきごきと鈍い音がするのは、骨格を組み替えているからでしょうか。イリーナさんの手足がぐっと伸長し、わたしよりも頭二つ分ほど高くなりました。急激な手足の伸長に皮膚が追いつかず、破れて循環液があちこちに滲みました。
――敵対視された。
わたしはそう勘違いして、足幅を前後に広く取り、半身になって重心を落としました。わたしの隣で、メラニーも同様に身構えました。
手を伸ばせば天井に触れそうなほど手足が伸びたイリーナさんは、わたしの姿勢を見て、悲しそうに言いました。
「ハーロウ、さんも……です、か?」
イリーナさんが誰かを敵視することなんて、あるはずがなかったのに。わたししか、彼女に味方できなかったのに。大きくなってもイリーナさんは相変わらず臆病なままだったのに。
「違……ごめんなさ――」
言葉は追いつけませんでした。
イリーナさんは身をかがめ、弾けたバネのように跳躍しました。
後方、自在調光ガラスの窓に向かって。
おそらくは元の三倍にもなった質量が、猛烈な勢いで窓に直撃しました。窓枠がひしゃげて外れ、イリーナさんは夜の屋外へ飛び出してしまいました。
「待ってくださいイリーナさん!」
窓枠に駆け寄り身を乗り出しましたが、どこか遠くへ駆け去る足音だけがかすかに聞こえてくるだけでした。
わたしは後悔のあまり、砕けそうなほどに奥歯をゴリッと噛みしめました。
わたしたちは間違えました。
研修時代、わたしに看護のイロハを叩きこんだジュリア副看護長が、毒矢のたとえで看護人形の心得を説いていたというのに。緊急時においては、理由を考えるよりまず行動せねばならないと、口酸っぱく言っていたのに。
あのとき。イリーナさんがアンナ看護長へ右手の管を突き刺したとき。
わたしとメラニーは、何が起きているのかなんて理解しなくてよかったのです。すぐさまアンナ看護長からイリーナさんを引き剥がすべきだったのです。メラニーの突進さえ遅かったのです。
わたしは窓枠から離れ、警戒姿勢を解いたメラニーへ近寄りました。
「……メラニー。今は、コモンスペースに戻って、状況の把握と態勢を立て直しを」
「分かってる」
言いつつ、メラニーはアンナ看護長の遺体から目を離せずにいました。きっと口を結んで、拳を握りしめて、ぶるぶると震えていました。
顔だけが精巧な、看護服姿の棒人形。あるいは顔だけが綺麗なミイラ。
人形は道具です。ある程度は修復できますし、自己修復機能も持っています。
ですが、これはもう、駄目です。循環液も組織も失われ、模倣脳は不可逆的な損傷を負っていることは明らかです。
わたしたちがもし、間違えずに行動できていたら。
メラニーの気持ちは、痛いほど分かります。わたしだって、せめてお二人の遺体にシーツくらい被せてあげたい。
「メラニー」
肩に手を置いたところ、振り払われました。
「分かってるってば!」
メラニーは首をぶんぶんと強く振り、それからアンナ看護長へ背を向けました。
わたしたちは、未熟ゆえにいくつも、いくつも失敗しました。
失敗を取り返すことはできません。
ですが、事態は未だ進行中です。せめて、これ以上の被害は抑えなければ。
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