あのとき。
体育館にて、レーシュン先生は言いました。
『ハーロウ。メラニー。お前さんたちが百体ずつ人形を支配し、総攻撃を仕掛けさせろ』
わたしはすぐさま反論しました。
『百体も同時に支配することはできません』
『同時に支配するのは二体で構わん。他の人形には援護しろとだけ命令しろ』
メーインが口を挟みました。
『不戦のミームを得た我々は、もはや戦えない。非現実的だと判断する』
『お前さんたちの末那識を漂白すればいいさ。お前さんたちを戦えなくしているのは、己を戦えない存在であると定義している末那識の働きによる』
レーシュン先生はこともなげに言いましたが、末那識を漂白するだなんてとんでもないことです。
末那識とは、自己に執着する心の働き。眠りから目覚めたとき、すぐに自分が自分であると認識できるのも末那識の働きによるもの。
末那識を漂白してしまったら、その人形は自我を失います。心を失った、ヒト型の物体になります。命令を与えれば動くでしょうし、いずれは心が再構築されるでしょう。けれど、かつて与えられていた課題を遂行せんとする使命感は、それまで培われてきた人形としての矜持は、永遠に失われてしまいます。
それは、あまりにひどい。
『……あなたたちは、それでいいんですか』
メーインはこともなげに返答しました。
『問題ない。我々は選ばず、別たず、定めない。役割を遂行できるのであれば、我々はいかなる手段も受け入れる』
『あなたがあなたでなくなるんですよ!』
『今更だ、と答えておく。末那識の漂白は、我々も用いる手段だ。対象が我々自身であったとして、役割の遂行にあたって必要であるならば、受け入れない理由は無い』
あまりの割り切りぶりに、わたしは言葉を失ってしまいました。
メラニーが、苦虫を噛み潰したかのような声で疑問を呈しました。
『……末那識を漂白したとして、です。二体で、勝てるんですか』
『二体では勝てないだろうさ。間違いなく破壊されるだろう』
わたしとメラニーは渋面を見合わせて困惑するばかりでした。
『二体ずつ、二十五回、攻撃を仕掛けさせろ。彼奴等をひたすら運動させろ。休息の暇を与えるな』
それはつまり。
この場にいる全ての人形を、自我を剥奪したうえであたら使い潰せ、ということです。
『どうしてそんなことを……!』
食ってかかるわたしのおでこを、レーシュン先生は火のついた紙巻きで指し示しました。ゆっくりと不完全燃焼する紙巻きの火に、真意があるのだと言わんばかりに。
『人形とは、ヒトの似姿だ。必然、その耐久力、持久力、熱容量は有限だ。いかに超人的であろうと、無尽蔵に思えようと、必ず限界を迎える。幸い、今は真夏だ』
メーインが応じました。
『なるほど。熱飽和攻撃というわけか』
『その通りだ。彼奴等の装備が防弾性に富むとして、だ。受け止めた弾丸の運動エネルギーは熱エネルギーに変わる。これに運動時の発熱も加わる。この炎天下だ。全力で無酸素運動を反復すれば、たかだか十五分程度で体温は摂氏六十度を超える。二体につき最低でも三十秒以上、奴らを全力で働かせろ。他の人形には援護させろ』
摂氏六十度。有機ケイ素微細機械の稼働限界です。ヒトの体を構成するタンパク質が摂氏四十二度を超えると変質を始めるように、有機ケイ素微細機械は摂氏六十度を超えると化学的に変質し、損壊します。
ヒトでいうところの熱中症です。ヒトに比べれば結構な高温に耐えられる人形ですが、それでも限界があるのです。
『あの狩猟人形どもがシティ・プロヴィデンスの地で一ヶ月も戦い続けられたのは、適切な休息を確保でき、現地調達とはいえ補給を得られ、敵の観察に多くの時間を費やせたからだ。戦闘そのものが占める時間は、さほど長くはなかったろう。仮に戦闘が長引き、斃れたとしても、後続の狩猟人形が引き継げばよい。こうして彼奴等は九十六体を失いながら、悪夢の主を屠るという任務を遂行した』
レーシュン先生が視線を送ると、メーインは頷きました。
『寸分相違ない。実に正確な洞察だ』
真夏なのに、寒気を覚えます。レーシュン先生はその場にいなかったはずなのに。一等人形造形技師の叡智は、かくもたやすく、遠く離れた地で起きた出来事の詳細を見通せるのです。
『情報因子汚染地域における生命体の殲滅という任務を遂行する都合上、彼奴等の装備は丈夫であり、単純でもある。敵を仕留めるときは一瞬だ。ゆえに長時間の戦闘機動も、それに伴う排熱も考慮されていない。考慮する必要が無い。しかるに――』
レーシュン先生は言いかけて、紙巻きを咥えました。深々と煙を吸い、吐き出しながら、いっそうしわがれた声で締めくくりました。
『――お前さんたちが百体ずつの人形をもって炎天下に屍山血河を築き、四体の狩猟人形どもを熱飽和に追い込む。ケイグーの『混沌歩き』が思いつく、たった一つの、実に無様なやり方だ』
三度目の突進が終わり、六体の犠牲を支払った直後。
二体の狩猟人形が、地を這うような前傾姿勢で突っ込んできました。およそヒトの走法とはかけ離れた、人外めいた挙動。制圧のためにばら撒いていた銃弾はことごとく二体の頭上をかすめました。
ヒトと同じく、人形の視覚は縦方向の輝度変化を追うのがやや苦手です。
ほんの一瞬だけ生まれた間隙を突き、二体の狩猟人形はこちらの集団へ肉薄。手近な一体を右手のナイフで切り伏せました。鎖骨の付け根から胸骨を断ち、腹を縦にかっさばく。防弾ベストなど存在しないかのような、理不尽な膂力。
わたしは慌てません。
狩猟人形たちが近接戦闘へ移行することは、メーインが事前に想定し、対応を提言してくれていました。
わたしの支配下にある青十字の偵察部隊員たちはすぐさま散開し、二体を包囲。肩に当てていた銃を腰だめに構え直し、二点バースト射撃を間断なく与えます。弾倉の交換タイミングが重複しないよう、相互に射撃間隔を調整。背に、頭部に、足に、腕に、拳銃弾を容赦なく撃ちこみます。
狩人人形に相対する偵察部隊員は背嚢に括りつけてある折りたたみシャベルに持ち替え、殴りかかります。
あれは、いつの話だったか。
わたしは非番の時、しばしばラヴァさんとお喋りしていました。
『戦場で三番目に頼れる武器は何か、知ってるかい』
『三番目? 一番目は……銃ですよね。二番目は……ええと、手榴弾?』
『正解』
『三番目……三番目? 何でしょう。他に武器って持ってましたっけ?』
そう。戦場で三番目に頼れる武器とは、折りたたみシャベルです。
銃弾とシャベルで、徹底的に袋叩きにします。
けれど。
全身に銃弾を浴びながら、シャベルの一撃を喰らいながら、狩猟人形は暴風を生むかのように大ぶりなナイフを振るいました。振るうたび、一体、また一体と切り伏せられていきます。
あるいは、胸元に構えた拳銃の引き金を絞り、喉、脇、股間といった、守りきれない致命的部位へ正確な射撃を与えました。リヴォルヴァーの弱点である再装填は、スピードストリップを用いて素早く二発ずつ。僅かに生じる隙も、相方の狩猟人形がカバーします。
狩猟人形とは、戦闘の天才が選抜され、訓練を受けたもの。人形殺しという言葉を具現化したもの。悪夢に感染した百万都市の命をことごとく葬り去った、実体を持つもう一つの悪夢。
二体の狩猟人形の動作には一片の疲労も窺えず、いささかの隙も見いだせませんでした。
あのコートがどれほど防弾性に優れていようが、銃弾の運動エネルギーを消せるわけではありません。銃弾が貫通しないだけであって、服の上からタコ殴りにされているはずです。コートの下に隠れた皮膚は、良くても内出血、悪くすれば皮膚が破れて出血しているはずです。骨折していてもおかしくありません。悶絶するほどの激痛を産んでいるはずです。
だのに、不自然なまでに完璧な身体操作。不気味なまでに完璧な連携。
これは――
「痛覚遮断、ですね」
誰に聞かせるでもなくひとりごちました。
ヒトと同様に、人形にも痛覚が備わっています。最大の目的は危機回避。人形が痛覚を覚える事象は、すなわちヒトに害をなす事象です。痛みを共有できることは、ヒトと人形の共生にあたって必要不可欠な機能なのです。
おそらくは薬物でも服用しているのでしょう。ノルアドレナリンの過剰分泌によってヒトが一時的に痛覚を忘れられるように、人形の模倣脳も同様に痛覚を一時的に遮断できます。
一抹の憐憫が、わたしの心臓をかすめました。
何が狩猟人形か。これではまるで野獣になりきった狂戦士ではありませんか。
「――ハ」
と、短く息を吐きました。
それでもわたしは、手心など加えません。
わたしの手駒は確実に削られているのですから。
一体、また一体と数を減らす青十字の偵察部隊員を、そのたびに再編成し、支配し直し、かの狩猟人形に壊させ続ける。炎天下の青々とした芝生に、赤黒い循環液をぶちまけさせ続ける。眼前に屍の山を築き、足下に血の河を流す。
また一体、壊れた。防弾ヘルメットと高密度ケイ酸カルシウムの頭蓋骨が割れて、循環液と模倣脳の混ざり物がばしゃりとぶちまけられた。
また一体、壊れた。胸骨が防弾ベストごと切り裂かれて、循環液と共に臓器がお腹からぼとりとこぼれ落ちた。
即死した人形はその場に崩れ落ちる。そうでなかった人形は最期の力を振り絞って敵に掴みかかり、銃撃で止めを刺されるか、蹴り飛ばされて絶命を待つ。
壮絶で一方的な殺し合い。
それをさせているのは、他ならぬわたし。看護人形ハーロウ。
事の発端になったのも、他ならぬわたし。看護人形ハーロウ。
わたしは道具です。これと定められた命題があるのなら、焦ることも迷うこともありません。
けれど。
ごりっ、と鈍い音を聞きました。
気づけば、わたしは奥歯を噛み砕いていました。鉄くさい循環液の味を覚え、舌の付け根から唾液が噴き出ました。
唾液と循環液と奥歯のかけらをぐちゅぐちゅと口腔内でかき混ぜてから、べっ、と吐き捨てました。
残っていた奥歯のかけらが歯髄を刺し、うずくまりたくなるような激痛がわたしの耳の裏側をガンガンと叩きました。わたしは目を見開き、ぶるぶると震えながら耐えました。
このくらいの痛み、耐えずして何とするのか。
今、わたしの目の前では人形が破壊されているのです。
よりによって、このわたしの目の前で!
――いかに超人的であろうと、無尽蔵に思えようと、必ず限界を迎える。
一等人形造形技師、ケイグーの『混沌歩き』の言葉を、わたしは信じています。
ゆえに、他者の命を己が手で掴み、火に投げ入れる。
熱容量の限界に達するまで燃料をくべ続ける。
けれど。
もし。
喧嘩のプロフェッショナルではないレーシュン先生が、何かの前提を見落としているとしたら?
現実に、手駒はごりごりと削られ続けています。
戦闘が始まってから、既に二十分。わたしが掌握している青十字の偵察部隊員は、もはや八体にまで頭数が減ってしまいました。
いくら狩猟人形が巨体であるとはいえ、もはや熱容量は限界に達しているはず。いかに痛覚を遮断していようが、高温による微細機械の化学的な変質からは免れ得ません。
そのはずなのに、まだ動くのか。
と、かすかな不安を抱いた、その時でした。
ナイフを斜め上に振り抜いてまた一体を破壊した狩猟人形の片方が、そのままばたりと前のめりに斃れました。歯車仕掛けの古い人形のように、何の前触れもなく。
振り抜かれたナイフは手からすっぽ抜け、後方へ投げられました。
もう片方の狩猟人形が宙のナイフを掴み、仮面の隙間からシュア、と音を立てて呼気を漏らしました。
「しまっ――」
レーシュン先生は問題を完全には設定できなかった。
わたしは設定された問題の解き方を誤った。
何も、二体同時に熱飽和を迎える必要はありません。
一体で処理できる数まで敵を減らしつつ、片方が稼働限界まで熱を引き受け、もう片方は熱の放散に努めればよい。
わたしが絶対に思いつきもしない解法です。もし逆の立場だったとして、わたしがメラニーを犠牲にすることなんてありえない。
けれど、彼らはそれをした。わたしたちの狙い、熱飽和に追い込むことを察知し、犠牲を厭わず、ただわたしたちを破壊することだけを目指した。
結果が、これ。
たった六体の隊員と、メーインと、わたし。
たった二体で九十四体もの人形を葬ったのです。一体きりであろうと、もはや八体しかいないアマチュアを破壊することなど、たやすい。
両手に巨大なナイフ――ククリを携えた狩猟人形が、短機関銃を構えた隊員の懐へするりと潜り込みました。まるで、海中を自在に泳ぐエイのよう。
わたしは六体の隊員全員に、短機関銃を手放すよう指示。格闘戦への移行を命じます。同時に、狩猟人形に迫られた一体の隊員を支配。視聴覚、および運動機能を乗っ取り、わたしの分身として扱います。いわば全感覚没入型ヴァーチャル・リアリティ。
わたしは武器を扱うのが苦手なので、折りたたみシャベルを投げ捨てて徒手空拳。
わたしとて、逮捕術を修めた身。銃火器はともかく、刃物を持つ相手へ素手で対処する術くらいは叩き込まれています。左前に構え、腰を落として迎撃する姿勢を取ります。
いくら熱放散に努めたとはいえ、全身に無数の弾丸を受けたのです。刃を操る体に効果的な打撃を与えれば、物理的に動けなくなるはず。刃物は脅威ですが、刃が届かなければ効力を発揮しません。
問題は、だらりと下げた両手に把持した二本のククリ。どちらが先に繰り出されるか。
ふっ、と両腕が霞んだ瞬間。
ばつん、と隊員の支配が途切れました。模倣脳が破壊されたのです。どちらのククリが先に振るわれたのか、知覚さえできませんでした。
わたしがわたしの体に戻り、目撃したものは。
頭頂部から胸鎖関節までを真っ二つに割られ、同時に左腕を斬り飛ばされた隊員の姿でした。上腕部を切断された腕は宙をくるりと一回転。真っ赤な循環液のしぶきを散らしました。
狩猟人形は腕の落下を待たず、ただの一歩で次の隊員へと肉薄。
「――っ」
速すぎる……!
支配が間に合いません。残ったわずかな手駒が次々と屠られていきます。
海底にいざなう時化のように、無慈悲な破壊をもたらす獣。
踊るように狩猟人形が跳ねる。循環液を舞い上げながら。
この止まり木の療養所で、循環液は忌々しき赤黒色。
百体がことごとく切り伏せられ、撃ち抜かれ、残ったのはついに、わたしとメーインのみ。
立ちはだかるのは、おそらくは満身創痍であろう、しかしわたしとメーインをくびり殺すには十分な余力を残した狩猟人形。
「……ふざ、けるな!」
終わらせてたまるものですか。
ここまでやって、ここまでやらせて、全てを彼らの思い通りになどさせるものですか。
わたしは目を見開いて狩猟人形を睨み、歯髄が痛むのも構わず砕けた奥歯を噛みました。激痛を興奮剤の代わりにして、思考回路を全力でブン回しました。
考えろ。この一瞬の猶予で、模倣脳が焼き切れても次善の策を探索しろ。
レーシュン先生は正しかった。少なくとも一体は熱飽和に追い込んだ。
狩猟人形も正しかった。熱飽和に追い込まれる個体を一体に留め、わたしたちの策を上回った。
――ならば、どちらの策もぶち壊す実力をねじ込むしかない。
今になって、最適解に至りました。
当院には、まだメスキューくんが四十八機残っています。
もし、喧嘩のプロフェッショナルであるラヴァさんが健在だったなら、当然のように予備戦力として配置していたでしょうに。
レーシュン先生が一等人形造形技師であり、けれど一等人形造形技師でしかないことが災いしただなんて。
――軍隊だの指揮だの、その手のことには疎いがね。
良くも悪くも、レーシュン先生はご自身を適切に評価なさっていました。
でも後悔は一瞬だけ。遅きに失したことは考えても仕方ありません。実現しない理想は、最初から存在しなかったのだと考えるべきです。
最適解は得られなかった。
ならば、今この場で次善の策を講じるしかない。
わたしに課せられた命題は、当院の存続を確保すること。そのために、眼前で暴虐の限りを尽くしている狩猟人形とやらを機能停止に追い込むこと。
わたしが、最後の一藁になること。
ただの看護人形にすぎないわたしが、あの戦闘の天才に互するためにはどうすればいいか。
わたしと彼との決定的な違い。それは介入共感機関の有無。
「……メーイン。三十秒、時間を稼いでください」
「任された」
メーインは理由を問わず、ただ短く、わたしに全幅の信頼を置いた声音で言い残し、手に持った折りたたみシャベルを右肩に担ぎました。
わたしはメーインをの末那識を漂白し、時間稼ぎを命じました。
自我を失ったメーインは弾丸のように突貫。熱い大気を切り裂いてスコップを振るい、猛攻を仕掛けます。一体で狩猟人形を相手取るのですから、攻撃の手は緩められない。守勢に回っては瞬殺されてしまう。
剣戟の音を前にしながら、わたしは静かに言葉を紡ぎました。
「わたしは、常に人形の味方である」
当院に来所なさった患者さん。当院を就職活動に利用したトンデモメイド。青十字の偵察部隊員。そして眼前で殺戮の限りを尽くしている狩猟人形。そして、わたし自身。
「それが毒あるもの、害あるものであろうと、わたしはその全てを肯定する」
互いの理念が相容れずとも。互いの存在を認められないとしても。わたしは全ての人形の在り方を肯定する。それが、無慈悲に人形を破壊する青十字であるとしても。
「わたしの使命は、観察、理解、共感」
わたしが観察し、理解し、共感したもの。狩猟人形の超人的な戦闘能力。是が非でも任務を遂行せんとする、職務に忠実なその姿勢。青十字という、人類社会の最適化に資する組織への絶対的な忠誠。
「わたしは使命に忠実であり、わたしに託された人形の幸福のためにわたしの全てを捧げる」
何もかもを観察し、理解し、共感したうえで、わたしは事態を収拾するために、わたしの全てを捧げなければならない。
「――わたしが、ここから飛び立つことはないけれど」
そう締めくくって、わたしはわたし自身に対する介入共感を、ターシャリレベルで開始しました。
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