10−6「電気羊のゆりかご」
どれほどそうしていたでしょうか。
わたしはのろのろと手近な水槽に近寄り、ガラスの筒にそっと触れました。
薄橙色の培養液に満たされたガラス筒の中で、無数のケーブルに繋がれた人形の生首が眠っています。短めに切った癖のある金髪が、かすかにゆらめいています。シュッとした痩せ気味の顔立ちです。男性型でしょうか。
自然と、イリーナさんを想起しました。共通点は金髪であるという、それだけなのですが。
この、わたしが個体識別名称さえ知らない人形は、わたしに入力されたかもしれない未練を、今も抱き続けている。
と。
水槽の下部で緑色に灯っていたランプが、赤色に転じました。
閉じられていた唇がゆるゆると半開きになり、まぶたもまた半開きになり、輝きを失ったうつろな瞳が現れました。
「その子は今、終了したわ。眠らせてあげなさい」
「……はい」
わたしはセイカ先生が先ほどやって見せたように、ガラス筒の表面を軽く撫でました。自在調光ガラス製の筒がさっと暗転し、赤く灯っていたランプが消えました。
それで、おしまい。
保存措置を施していても、ニューロンの発火はいつか途絶えてしまいます。人形はたいていの部位を交換できますが、模倣脳に限っては一部を除いて交換が効きません。複雑かつ初期値鋭敏性を有する系の状態を再現することは、理論的に困難なためです。
特に、ニューロンの相互作用によって創発される高次の振る舞いこそが重要となる、前頭前野のような部位は。
改めて、棚に並べられたガラスの筒を見やりました。先ほどと変わらず、薄橙色の培養液に満たされたガラス筒の中で、首だけの人形たちがたゆたっていました。
この部屋が化学工場の真下にあるのは、安眠に必要な栄養素や電気信号を迅速に送り届けるためでしょう。
わたしやメラニーを造るために。不幸な人形を一体でも減らすために。
命を勘定した結果、こうして首だけが保存されている。最期の夢を見させ続けられている。
「僕たち医師は、介入共感機関を持つ人形を四体製造するという目標を達成した。これ以上、新たな人形を造るつもりは、無い。君たちの後継を造ることはあるかもしれないけれど、それは部品交換と何ら変わりない。初期値の入力にあたっては、君たちの末那識を利用すればいい。テセウスの船を修理し続けるのと同じことだ」
かつてわたしが引きこもっていた時。バンシュー先生が言っていたことです。わたしと同じ機能を持つ看護人形を新たに目覚めさせる、と。最期の数分間だけは、僕たちに提供してもらう、と。
「だから。僕たちはそろそろ、ここで眠る彼ら、彼女らを、終了しようと考えている」
左半身に熱さを、右半身に冷たさを、それぞれ感じました。憤怒と諦念。そんなひどいことを、という思いと、やはりそうか、という思い。
わたしの複製を作るだけであれば、もはや彼ら、彼女らは、不要なのです。
「ここで、君たちに尋ねておきたい。何せ、彼ら、彼女らは、君たちの親のようなものだからね。彼ら、彼女らを、どうすべきだと考える?」
バンシュー先生は今、わたしたちに問題を設定しました。
この、誰も知らない区画で静かに眠る人形たちをどうするべきか、解を導出せよ、と。
数多のケーブルに繋がれた、生首だけの人形たちを見渡します。もはや使い途が無くなった、模倣脳を発火させ続けるだけの人形たち。
道具の原則に従うなら。直らないなら、直せないなら、その人形は壊してあげるべきです。
けれど。
わたしはメラニーをちらりと見やりました。
当然だ、と言わんばかりに、メラニーは小さく、けれど力強く頷きました。
バンシュー先生とセイカ先生へ視線を転じ、わたしは深々と頭を下げました。
「いえ。このままで、お願いします」
ここに眠っている彼ら、彼女らの存在を否定してしまえば。
わたしたちは、わたしたちの存在そのものを否定することになります。
これまでわたしたちが関わった患者さんたち全てを否定することになります。
「この方々が自ずから然らば終了してしまうまでは、このままで」
壁に寄りかかって腕を組んだセイカ先生が、険しい声音で告げました。
「あんたたち、責任を負うと言っているのよ。その自覚はあって?」
人形は本来、責任を負えません。義務を負えません。それは人間様の領分です。人形の手に余ることです。
けれど。
「ん。分かってる」
「はい、セイカ先生。わたしたちは、正しく理解しています」
当院の先生方は、この生首だけの人形たちを、もはや不要であると判断しています。
ここに眠っている彼ら、彼女らは、その存在意義を、誰からも認められなくなりました。
だったら、誰かが存在意義を認めなければ。
わたしたちは、全ての人形の味方です。そう誓うように造られたのだとしても、今のわたしたちがその誓いを認めているのですから、これは紛れもなくわたしたちの意思です。
だから、背負わなければ。当院にて廃棄処分となった人形たちの人生が無意味でなかったのだと、わたしたちが証明しなければ。
それができるのは、もはやわたしたちしかいないのです。
「わたしたちは、大丈夫です」
この止まり木の療養所で、患者さんたちのお世話をし続ける。
わたしたちの背後で静かに眠る人形たちの未練に責任を負う。彼ら、彼女らの存在意義を証明し続けるために、ちょっと変わった看護人形として稼働し続ける。
そのことに何の躊躇もありません。
わたしは目に力を込めて、壁に寄りかかった二人の医師を見つめました。これ以上、語るべき言葉を持ちません。不用意に余計な言葉を付け足してしまえば、言葉にできなかったことを取りこぼしてしまうから。
バンシュー先生が感慨深げに、けれどどこか悲しげに、呟きました。
「君たちは本当に、強くなったねえ」
わたしには、バンシュー先生がどこからどこまでを指してものを言っているのか、正確には分かりません。何せ普段から軽佻浮薄で、本心を隠すのがお上手なお方ですから。
けれど、今この時だけは、本音が漏れ出てしまった、そんな印象を覚えました。
我が子が強くなったことを喜ぶ反面、強くなってしまったことを嘆いてもいるかのような。
バンシュー先生はすぐに普段の雰囲気に戻り、大仰に両手を広げました。
「よろしい。問題の解決をアウトソーシングした僕たちは、君たちの判断に従おう。彼らが自然に終了するまで、僕たちはこの区画を維持すると約束するよ」
「はい。よろしくお願いします」
バンシュー先生は、嘘は言い……いえ、どうでもいい嘘を言うことはありますが、大事なことについては嘘を言わないお方です。そのくらいには、わたしはわたしのお父さんを信頼しています。
壁に背を預けていたセイカ先生が、反動をつけて壁から離れました。壁に手をかざして五指の静脈認証をパスし、スッと現れたカメラで眼底血管認証もパスしました。
壁が横にスライドし、いつの間にか真っ暗になっていた階段の踊り場が現れました。
「出るわよ。本来、ここは照明も点けるべきじゃないからね」
外部刺激を極力遮断して、ケーブルからの入力信号だけで夢を見せるべきなのでしょう。ちょっとした照明であっても、まぶたを透過して網膜に光は届いてしまいます。何せ網膜の桿体細胞は、一個の光子にさえ応答できるほど鋭敏なのですから。
複雑な系は、ちょっとした外乱に対しても鋭敏に反応してしまいます。安定した状態を維持したいのであれば、わたしたちはここに長居するべきではありません。
誰も知らない部屋から二人と二体が出たところ、すぐに壁がスライドして音もなく閉ざされました。階段の踊り場に、ぱっと明かりが灯されました。
わたしは振り返り、おでこを壁に当てて小さく呟きました。
「おやすみなさい……」
わたしたちの、お父さん、お母さん。
どうか良い夢を。
三秒だけそうして、わたしは壁から離れました。
「さ、行きましょう。患者さんたちが待っています」
「何でハーロウが仕切ってるの」
「別に誰が仕切ったっていいじゃないですか」
「そもそもメラニーたちは休み」
などと言い合いながら、階段を上がりました。足取りは努めて軽く。ガラス筒というゆりかごで眠る人形たちの未練は、離れるほどに重く感じます。だからこそ、努めて軽く。
じきに生産棟から出ました。
変わらず、お外は良い天気でした。お日様はわたしたちにお構いなく燦々と照っていて、当院の甲板部分を焼いています。芝生が乾く青臭さ、薄い表土の匂いが、鼻腔をくすぐります。
すう、と息を吸って、よし、と気合を入れた、その時でした。
だしぬけに、看護網絡にわたしとメラニー宛のメッセージが流れました。
ジュリア:@ハーロウ @メラニー 開放病棟に来て。手が足りなくなった。
メラニー:@ジュリア 了解。
ハーロウ:@ジュリア 分かりました。すぐ向かいます。
おおかた、ピアジェがてんてこまいになって他の患者さんへのケアが不足し始めたのでしょう。あなたの不足はわたしが補っていたのですよ、ピアジェくん。
わたしとメラニーは先生方に振り返り、小さく頭を下げました。
「ジュリア看護長から呼び出しがかかりました」
「行ってきます」
バンシュー先生とセイカ先生は並んで立ち、それぞれ軽く手を挙げました。
「うん。よろしく頼むよ。僕はちょっと休んでから行こう」
「運動不足にも程があるわね……あたしはすぐに顔を出すから。先に対処やっといて」
そうして並んでいると、まるで年の差夫婦みたいですね。言ったらセイカ先生が激怒するでしょうから言いませんけれど。
メラニーと一緒に、生産棟から開放病棟へ向かって走ります。開放病棟までの距離は約一キロメートル。軽く走って五分程度。全力で走れば二分と少しです。
ハーロウ:@ジュリア 状況をお願いします。
ジュリア:@ハーロウ ワークショップの準備ができてないんだわ。
走りながら、メラニーに助力をお願いしたい内容を伝えます。
「メラニー、ABC班のワークショップの準備をお願いします。A班はロールプレイング、B班はグループディスカッション、C班は体育館で球技です」
「ん。かしこまり」
メラニーもどこか変わりましたよね。険が取れたというか。言ったら不機嫌になりそうですけど。
「……何」
顔に出ていたようです。
「何でもありませんよっと」
メラニーを置き去りにして速力を増します。
開放病棟は、もう目の前。
まずはピアジェのフォロー。ケアが間に合っていない患者さんのお世話に回らなければ。それが終わったら、お昼の食事と配薬の準備をしましょう。夜の食事と配薬の計画も見直しておかなければいけません。ああ、そうだ。ワークショップ後のショートブリーフィングとアフターケアの準備も、今のうちにやっておかないと。仕事は段取りが八割ですからね。
わたしたちがやるべきことは、毎日いっぱいあります。
看護人形として目覚めたからには、日々の多忙は約束されているようなもの。日々は目まぐるしく、素早く過ぎ去っていきます。
けれど、忙しいながらも、一日一日を大切に生きていかなければ。当院の第四層、誰も知らない区画で眠り続ける、彼ら、彼女らのためにも。
わたしたちは、自ら望んで生まれたわけじゃありません。誰かに望まれて生まれたわけでもありません。ただ、必要に迫られて製造されただけ。目覚めに祝福は伴わず、人生に幸福を約束されたわけでもない。
けれど、どのような思想があろうと、わたしたちが生まれた事実は揺るがないのです。
わたしたちが、廃棄処分となった人形たちを継ぎ接ぎして生まれた化け物だとしても、生きていることに変わりはない。
ならばわたしたちは、わたしたちと患者さんたちの幸福を目指して生き続けます。
バンシュー先生。あなたは診察室で、言外にわたしへこう言いましたね。
産んでしまって、造ってしまって申し訳ない、と。
わたしの答えはこうです。
お戯れも大概にしてください!
あなた方が感じている罪悪感やお綺麗な思想なんてお構いなしに、わたしたちは患者さんと一緒に幸せになってやりますとも!
だってわたしたちは今、生きているのですから!
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