翌日。お日様がいよいよ北の空を目指し始めた頃。
午前九時三十分。
朝一番のブリーフィングが終わるタイミングを見計らって、わたしは開放病棟へと踏み入りました。
ナースキャップにはいささかの乱れもなく。革製の青いシンボルはよく磨いて。
手ずからアイロンをかけた看護服にはしわひとつなく。立ち襟は折れず曲がらず。
ナースシューズはおろしたて。大股でずんずんと白い廊下を歩きます。
バンシュー先生の診察室の前までたどり着くと、知らない顔の看護人形が三体、廊下へと出てくるところでした。
身長は全く同じ。顔かたちも全く同じ。体型だけ、二体が女性型。一体が男性型。
新しい看護A班の方々でしょう。
「おはようございます!」
声を張り上げると、三体の看護人形は軽く会釈だけして、わたしの隣を通り過ぎていきました。
看護A班の方々にはそれ以上構わず、わたしは診察室の引き戸を三回ノック。
「はい、どうぞ」
引き戸をさっと開き、薄いクリーム色の診察室へと踏み入りました。
「失礼します」
緑色の一人がけソファに大きなお尻とお腹を詰めこんだバンシュー先生は、特に驚いた様子もなくわたしを出迎えました。
「やあ、ハーロウ」
後ろ手に引き戸を閉め、わたしは二歩、バンシュー先生へ近寄りました。
「仕事ください」
たっぷり、十秒以上は沈黙が垂れこめたでしょうか。
わたしはバンシュー先生の目をじっと見ていました。目元のクマがいっそう濃くなった気がします。
「うーん……うん、それは無理だ」
「わたしがまだ、看護人形として適格でないからですか」
「あっはっは」
バンシュー先生はからからと笑いました。
「そんな大層なことじゃあない。君のことはエリザベスさんに任せてあるからだよ。走ったり投げたりしているんだろう?」
「あんなメイド、知りません。どこかにいるんじゃないですか」
フムン、とバンシュー先生は唸り、丸っこい顎を太い指でさすりました。さするたび、顎のお肉がぽよぽよと変形しました。
「つまりだ。君にはまだ、やり残した仕事があるじゃないか」
「謎かけは結構です。何ですか、やり直した仕事って」
「おやおや、欲しがりになったね」
「皮肉もおちょくりもお腹いっぱいです」
「僕はいつだって真面目だけどね……ま、座ったらどうだい」
「はい。座ります」
向かいのソファに座ります。
直後、右手が空をさまよいました。
「うん? 何だいその手は」
「……いえ。何でもありません」
昨日まで、わたしが座ったら必ずエリザベスさんが飲み物を差し出していました。
つい癖で手を出してしまったのですが、この場にエリザベスさんがいるわけもなく。
「さて……君の仕事は、エリザベスさんにお世話をされることだ」
「家政人形としてのリハビリですよね。それなら他の誰かにお任せした方が良いと思います。少なくともわたしは適任じゃありません」
「どうしてだい?」
「わたしはエリザベスさんに付き合いきれません。いくら患者さんだからって、他の人形が不幸になっても構わないなんて言うような人形と、良好な関係は築けません」
「おやおや。君がそこまで怒るとは……ええと、あれかな。企業経営とかシティ運営のシミュレーションもやっていたらしいね。おおかた、まだ使える人形を切り捨てる判断を迫られた、といったところかな」
「……どうして分かるんですか」
「分かるとも。君、そういうの苦手だろう。研修の時、トロッコ問題で三日も悩んだじゃないか」
そんなこともありました。
わたしの目の前にある線路で、ブレーキの壊れたトロッコが猛スピードで走っている。
トロッコが向かう先には五人の作業員。このままではトロッコが五人をひき殺してしまう。
わたしは線路の分岐器を切り替えることで、トロッコを別の路線に逃がすことができる。
だが別の路線には一人の作業員がいる。
わたしは分岐器を切り替えて、一人を犠牲にするべきか?
それともわたしは分岐器を切り替えず、五人を犠牲にするべきか?
普通の人形は「一人を犠牲にする」と即答するのだそうです。人形は社会の最適化に資する道具だから。
わたしの答えは、今でも出ていません。
フムン、と再びバンシュー先生は唸りました。
「ハーロウ。君の誓いを復唱してごらん」
「何ですか、急に」
「復唱してごらん」
しぶしぶ、わたしはわたしの看護人形誓詞を復唱しました。
わたしは常に人形の味方である。
それが毒あるもの、害あるものであろうと、わたしはその全てを肯定する。
わたしの使命は、観察、理解、共感。
わたしは使命に忠実であり、わたしに託された人形の幸福のためにわたしの全てを捧げる。
いつか、ここから飛び立つ日のために。
「……復唱、しましたけど」
うん、とバンシュー先生は頷いて。
「君はエリザベスさんの味方にはならないのかい?」
「それ、は……」
虚を突かれ、わたしは言葉を喉に詰まらせてしまいました。
バンシュー先生が言う通り、わたしがわたしの誓いに忠実であろうとするなら、エリザベスさんの味方でもあるべきです。
彼女の言動を否定せず、肯定すべきです。
彼女だって、当院に入所なさっている患者さんの一体なのですから。
いつものようにへらへらとした軽佻浮薄な声音で、バンシュー先生が問いかけます。
「ハーロウ。君は彼女と接するにあたって、OCEプロトコルのどこまで段階を進められたんだい?」
わたしは、エリザベスさんのことを理解しようとしていたでしょうか。
心身ともにボロボロで、エリザベスさんに振り回されていたとはいえ、自分で失格と認めたとはいえ、わたしは稼働している限り、看護人形です。
患者さんを観察し、理解し、共感することが、わたしの使命だったはず。
エリザベスさんのリハビリを通して、彼女の抱える問題を快方へ導こうと尽力することに、わたしの全てを捧げるべきだったはず。
お嬢様を演じることにかかりきりで、わたしはわたしの本分を失念していました。
「……全然、分かりません。わたしは、エリザベスさんのことが何も分かりません」
「うん。素直で結構。今の自分は看護人形失格だから誓詞は関係ない、だなんて言わないあたりも大変結構。真面目すぎるきらいはあるけれど、君の美徳でもある」
バンシュー先生はわたしを叱りません。
何もかもを見透かしたうえで、なるべくわたしが考えて解を導くように促します。
「観察して、理解して、共感して、それでもなお相容れないというなら、それはもう根本的に相性が悪い。君が言うように、今からでもリハビリの内容を考え直した方が良い」
けれど、わたしはエリザベスのことを理解できず、彼女の心境に共感もできていません。
きっと彼女にも、当院へ入所なさった原因があるはずなのに。
「君はまだ、君にできることを尽くしていない。愛想を尽かすにはまだ早い。そうだね、ハーロウ?」
「……はい」
「では、やることは一つだ。もう一度、彼女とよくよく話してごらん。彼女はどういうつもりで君に判断を迫ったのか。君がどうして怒ったのか」
「……お話しして、わたしはエリザベスさんのことを理解できるでしょうか」
「もちろん対話だけでは不足するけれど、対話は相互理解の第一歩だよ」
言って、バンシュー先生は一人がけのソファからお尻を引っこ抜き、よいしょと伸びをしました。
「ま、エリザベスさんは随分と変わった人形だからね。馬鹿正直な君が戸惑うのは無理からぬことだよ。あまり時間はないけれど、まだやり直せるさ」
「……うん?」
今、バンシュー先生は何か変なことを言ったような。
「あの――」
「ところでハーロウ。うちの看護A班で、ちょっと困ったことが起きていてね」
「何ですか」
「昨日の夜からエリザベスさんの行方が分からないんだよ。君、何か知らないかな」
「え……」
昨日、午前の執務が始まってすぐにエリザベスさんは六号庵から退室しました。
「いえ、知りません。自室に戻るなり、誰かにちょっかいをかけたりしていたんじゃないんですか?」
「そうか。うーん。彼女、いつもは二十四時過ぎに開放病棟まで戻って君のことを報告してくれるんだよ。でも今日は夜が明けても姿が見えないそうだ。さっき、主担当のアルファ君から聞いたんだけど」
既に二十四時間以上が経過しています。
「君も無関係というわけでなし。仕事が欲しいなら、手伝ってあげてくれないかな」
「どうしてそれを先に言わないんですか!」
「だって君、先に言ったら『あんなメイド知りません』って言って突っぱねただろう」
「ああはいそうですね失礼します!」
診察室の引き戸を乱暴に開き、わたしは廊下へと飛び出しました。
屋外へと走りつつ、看護網絡経由でメスキューくんを呼び出します。
ハーロウ:M12、応答してください。
M12:はろー? どーしたの?
ハーロウ:甲板にいるメスキューくんたちの巡回ルートを教えてください。
M12:おっけー。どうやって伝えようか。
ハーロウ:二次元情報をテキストアートで表現できますか?
M12:お茶の子さいさい。
ハーロウ:過去十二時間分、五分間隔でください。
M12:ほいさっさあ。
ハーロウ:あと、わたしの位置はメスキューくんたちで共有しないでください。
M12:おっけー。いつまで?
ハーロウ:わたしが良いというまでです。以上、通信終わり。
テキストアートで表現された地図がチャットログに表示されました。
既に他の看護人形やメスキューくんがエリザベスさんを探しているはずです。それでも見つからないということは、どこかに捜索網の穴があるということ。
地理的な穴だけでなく、時系列的な穴も探します。
エリザベスさんのことです。何でもできますし、何でも知っています。わたしの推理や想像は見透かされていることを前提として、ものを考えなければいけません。
わたしたち看護人形が利用する看護網絡には枝を付けているに決まっています。メスキューくんたちの巡回ルートも把握しているに決まっています。わたしたちの行動は筒抜けと考えるべきです。
生産棟は……さすがに無理でしょう。生産棟へ入るための物理認証キーは、看護人形の襟元を留めているクリップです。入退室のログも残ります。足が付くことはしないはず。
かつてガラティアさんが『お色直し』で外見を欺いたことがありました。エリザベスさんにも同様のことができないとは思いませんが、やらないでしょう。彼女はあのメイド服にこだわりを持っています。
何のつもりか知りませんが、あのメイドはいつもの澄まし顔で、小さな巨大人工浮島のどこかをほっつき歩いているに決まっているのです。
ハーロウ:@ジュリア 見てなさい! 絶対にあなたを見つけ出してやりますからね!
ジュリア:@ハーロウ え、何? 何のこと?
ハーロウ:@ジュリア 気にしないでください。
ジュリア:@ハーロウ いきなりメンション飛ばして気にするなは無いでしょ。
ハーロウ:@ジュリア この会話、枝が付けられてます。
ジュリア:@ハーロウ え、マジ?
マジですとも。わたしは詳しいのです。少なくとも、ここ最近のエリザベスさんについては。
ジュリア看護長との会話を打ち切り、屋外に出ました。
今日も後ろめたさを覚えるほど、すっきり晴れた青空。
頬をべちべちと両手で叩き、わたしは自分を奮い立たせました。
後ろめたさを覚えている場合ではありません。
「さ、やりますよ、わたし」
何としてもあの澄まし顔のひねくれ者を捕まえて、お話しを聞かせて貰わなければいけません。わたしのお話しを聞いて貰わなければいけません。
当院の外周、防波堤へとジョギングしながら、メスキューくんから貰ったテキストアートの地図をくまなく調べます。
走りながら情報を精査するのは慣れたもの。
二十一時までは各メスキューくんたちは所定のルート通りに屋外を巡回。捜索の指令が下されたのは零時三十分。以降はそれぞれ担当の区画を割り当て、清掃作業と並行してエリザベスさんを捜索中。
屋内は主に看護人形。患者さんのお世話も通常通りに行う都合上、通りがかった部屋を見て回る、くらいの捜索ではありますが、そこは前職アンナ看護長を引き継いだジュリア看護長。大雑把な性格のようで、一見すると抜け目はありません。
問題は、あのメイドがどんな人形よりも誰かをおちょくること、誰かを出し抜くことに長けているということです。
それらを踏まえ、時空間情報からエリザベスさんの足跡を追います。
「最初は――」
そう、六号庵の近辺です。負い目のあるわたしが誰かと鉢合わせないように人払いがなされていました。誰にも目撃されずに済みます。
日が落ちてからはマヒトツさんの作業場だった二号庵を訪ねたり、松林を散策したり、庭園を見て回ったり。
捜索の指示が下される前に開放病棟の屋上へ登り、階下が騒然としているのを尻目に星空でも眺めていたのでしょう。エリザベスさんは従軍経験があると言っていました。あのメイド服に熱迷彩くらいあるに違いありません。メスキューくんたちの赤外線カメラを欺けます。
二時に一度。居室にいないかどうか確認されています。当然ながら見つかるはずもなく。
日勤の人形も総出で病棟内を捜索するも、やはり見つからず。
三時を過ぎたらほとんどの患者さんたちが目覚めます。捜索には手が回らず、廊下に誰もいなくなる時間帯。
そう。ここです。
「――見つけた」
まったく。なんて性格の悪い。
そういえば、清掃六課の長という役割で清掃六課員を指揮していたとき、エリザベスさんが言っていたことがあります。
――効果的に奇襲を成功させる方法をご存じですか、ハーロウ様。
――そんな物騒な方法なんて知りませんよ。
――まさかやらないだろうと思わせておいて、それをやる、でございます。
そう、まさかそんなところにいるはずはないと思わせておいて、そこにいる。
念のため一度は探したものの、やはりそんなところにいるはずはないから、探していない場所。
わたしが割り出したエリザベスさんの現在位置は。
開放病棟の宿泊区画。
彼女の、居室でした。
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