十三時を過ぎ、休憩が間近になってきた頃合いのことでした。
わたしが何とか片付けた案件は、たったの七件。
「判断が遅くていらっしゃいます。もっとスパスパと。大鉈を振るうことがお嬢様のお仕事。資料に記載された情報のうち、九割がたはゴミでございます」
「と言われてもですね」
判断の一つ一つが数千人の社員、数百の取引先、数十万人の顧客に影響するのです。慎重にもなろうというもの。
加えて、どの問題にも無理や無茶をさせられた人形が絡んでいました。役を演じているとはいえ、わたしは看護のために造られた人形です。どうしても人形のアフターケアまで考えてしまいます。
「もちろん、お嬢様の判断により人命が失われることもございます。ですが架空の人命でございます。ましてや人形などは消耗品。架空であろうと実在であろうと気に病む必要はございません。どうぞ、お気楽にご判断なさいませ」
などと言われてしまっては、逆に身構えてしまいます。
「……このロールプレイ、本当に現実世界に影響は及ぼさないんですよね?」
と、念のために訊いてみました。
「誇大妄想お疲れ様、でございます。わたくしも、あなた様も、複雑な世界を構成する因子の一つに過ぎません。ご心配なさらずとも、あなた様がいようがいまいが、世界はお構いなしに因子をすり潰しながら稼働いたします」
どうしてそんな言い方しかできないんですかね、このメイド。
「さて……件数はさておき、時間的には清掃六課のお仕事にもお手を着けて頂かねばなりませんね」
「ぐう……」
「あら、ぐうの音」
企業運営だけでも覚えることや考えることが多すぎるのに、シティ運営のことも覚えて考えなければいけないなんて。一介の看護人形には荷が勝ちすぎます。
「まず、本日十四時十五分より、シティ幹部企業の長が集う例会がございます。議題はそちらに提示いたしました通り。グプタ・インダストリー、およびエルバイト・スケイルは、相変わらずシティ環境憲章の改正に難渋を示しております」
別のエアリアルディスプレイが輝度を増しました。視線を転じると、膨大な資料がずらりと並べられました。
「ええと……?」
「ご説明いたします。現在の当社は人形にまつわる事業を広く手がける企業でございますが、元々は水産業からバイオテクノロジー企業に転じ、さらに微細機械製造技術の開発によって成長を遂げた企業でございます。微細機械危機の折りにも、率先してワクチン精製技術を全世界へ公開いたしました」
設定に念が入っていますね。
「お嬢様はシティの幹部企業を代表する者として、かつシティ保健衛生機関・衛生六課の課長として、シティ環境憲章の改正に取り組んでいらっしゃいます」
「シティ環境憲章って何ですか?」
「まずシティ憲章につきまして。シティ憲章とは、シティを構成する企業間の約束事でございます。環境憲章とは、シティの保健衛生の基盤を定義するシティ憲章の一部でございます」
それって、簡単に改正できることではないように思えるのですが。
「反対派をご説得なさる算段をお立てくださいまし。ま、今回も無理でございましょうが」
「説得と言われてもですね……わたし、人形のことは少し分かりますけど、シティのことは詳しく知りませんよ。どうして改正するのか、反対する理由は何か、見当さえつきません」
エアリアルディスプレイに資料が提示されていますが、記載されている内容をどのように読み解けばいいのか分かりません。
「フムン……ハーロウ様が世間知らずの箱入り……いえ、島入り? 娘ということは、ドクター・バンシューより聞き及んでおりましたが」
バンシュー先生。
「認識のすり合わせと参りましょう。シティについて、ハーロウ様はどの程度までご存じでいらっしゃいますか?」
「人類社会における統治の基本単位、ですよね」
二度、三度、とエリザベスさんがまばたきをしました。
「……ヒトとはホモ・サピエンス・サピエンスである、くらいの粒度でございますね」
「ええと……シティは、その語源通りに『都市』です。人口はおおむね五十万人から二百万人程度。複数の企業が共同で統治にあたっています」
「後世における歴史の教科書に記述されるであろうご説明、誠にありがとうございます」
「そのくらいしか知らないんですってば」
「わたくしども人形の観点から申し上げます。シティとは、人形網絡において一定の規模を有するクラスタの、便宜的な呼称でございます」
エリザベスさんが視線を送ったエアリアルディスプレイが輝き、世界地図が表示されました。ブリテン諸島、アイルランド島へとズームイン。ヒートマップが重なり、大きな河川を挟む領域が濃い赤色で示されました。
「それぞれのクラスタは、現実の地理と密接な関係がございます。例えばこのクラスタは、かつてダブリンと呼ばれた都市の領域に発生したものでございます。ゆえに区別上のラベルといたしまして、シティ・ダブリンと呼ばれております」
「え……ヒトがシティを定義しているんじゃなくて、人形網絡がシティを定義しているんですか?」
「イエス。実質的には、でございますが」
「でもシティの統治……ええと、決まり事とか、みんなで何をするかとか、そういったことはヒトが決めているんですよね」
「イエス。政治は最も分かりやすい『問題設定』の例でございますね」
「……矛盾しているとしか思えないんですが」
「矛盾はいたしません。シティの運営方針を決定するのはヒトでございます。ヒトが決めたことを実行するのは人形でございます。すなわち、人形の影響力が及ぶ範囲こそがシティの実体でございます」
「おかしいですよ。だって、それならシティなんて区別は無くなるじゃないですか。人形網絡は世界的なネットワークなんですよね。影響力は全世界に及ぶじゃないですか」
「ノー。アクセスされない情報は、存在しないことと同義でございます。一部の例外はございますが、人形はあくまでヒトと共に生活する存在。持ち主の生活に関係しない情報にはアクセスいたしません。動機がございませんので」
混乱してきました。
「でも、シティの統治に直接関わる人々は、よそのシティのことを知っているはずですよね」
「イエス。ですがごく少数でございます。また、統治者が行うのは運営方針の決定でございます。シティ間の具体的な利害調整は、シティの代表値であるクラスタが担います」
「シティの統治に関わる人々同士ではなく、クラスタが、ですか」
ますます混乱します。
「整理いたしましょう。まず、個々の人形は持ち主の要求を満たすべく行動いたします。ある持ち主と別の持ち主の要求が対立する場合、人形たちの間で利害調整が実施されます」
「はい。それはまあ、想像がつきます」
「膨大な利害調整の結果は、一定の方向性を持つようになります。例えば、全体として食料品が不足しているのであれば、クラスタは『食料品を求める』という方向性を持ちます。この方向性が他のシティと対立する場合、クラスタ間で利害調整が実施されます。貿易による解決を図ったり、武力による解決を図ったり、色々でございます」
人々の総意が、一個の人格のように振る舞う。理屈は分かります。ですが、理解できないこともまた増えました。
「じゃあ、もうヒトが統治する必要なんて無いんじゃないですか? だって、人形が、クラスタが社会を最適化するんですよね。よそのシティとの利害調整もするんですよね」
「ノー。振る舞いこそ複雑で抽象的ではございますが、クラスタの中身はしょせん、個々の人形でございます。人形も道具、クラスタも道具。クラスタは発生するものでしかなく、大局的な問題を発見し、設定することはできません」
「問題を設定するのは、あくまでヒトにしかできないお仕事、ってことですか」
「イエス。個人であろうと、集団であろうと、この原則に変わりはございません」
エリザベスさんの解説は理路整然としています。でも、釈然としません。
「シティには持ち主ならぬ操舵手が必要不可欠でございます。お嬢様はシティの操舵手。シティをより良い未来へとお導きくださいまし」
「……操舵手、ですか」
「おや。納得いかないご様子?」
「だって、シティの人々がちゃんとシティのことを考えれば、そんなことにはならないと思います。エリザベスさんの言う『お嬢様』は、こんな、自分を犠牲にするような働き方をしなくてもいいはずです」
すらすらと言葉を並べていたエリザベスさんが、ふと黙ってしまいました。
「何ですか。おかしなこと、言ってますか」
「いえ。ハーロウ様が『お嬢様』として適任であることを再認識した次第でございます」
褒められているんでしょうか。
「シティの人々がちゃんとシティのことを考えれば……それはごもっともでございますが、理想論でございます。決して、決してそうはなりません。シティに住まうほとんどの人々は、シティの外に関心をお持ちになりませんので」
「どうしてですか」
「どうでもいいから、でございます」
「どうでもいい?」
「ハーロウ様の前世はオウムでございますか?」
うぐ。
「あらゆる雑事を人形に任せるようになった結果。ほとんどの人々は自らの問題以外に関心を示さなくなりました。関心を持つ必要が無くなった、と言い換えてもよろしゅうございます」
「人形権利派の人々や、人間性復興派の人々は、違うんですか?」
「余暇を持て余した人々のお遊びでございます」
エリザベスさんはバッサリと切って捨てました。
「どちらの主義主張も、代替物恐怖症に対する原始的でくだらない防衛機制の発露、その残滓でしかございません。わたくしども人形は、便利な道具でございます。ヒトに取って代わる存在などではございません。無いものをあると言って騒ぐことを、お遊びと言わず何と言うので?」
「お遊びと言わず何と言うのかは分かりませんが、エリザベスさんの物言いが極端ということは分かります」
「いえ、然程でもございませんが……」
ま、よろしいでしょう、とエリザベスさんはひとりごちて。
「お遊びに興じていらっしゃる方々はさておき。雑事に関心を示さなくてよいということは、本質的な問題にリソースを集中できる、ということでもございます。どうでもいいことは、人形にでも任せておけばよろしい。実に合理的でございます。ゆえに、現代における人々の在り方、その善し悪しはわたくしにも判断がつきかねます」
そうでした。シティの実態や、住まう人々についてのお話をしているのでした。
「自分の問題以外は、どうでもいい、ですか」
「イエス。元より、利他の心は自身に直接関連する人々にのみ働くもの。地球の裏側で戦争が起こる理由。夜空が暗い理由。人形をあたら壊してしまう理由。シティの外縁に最底辺層の人々が生活する理由。エトセトラ。そんなことは、シティで安寧に暮らす人々にとっては、どうでもいいことでございます」
やっぱり、それは寂しいことだと思います。
わたしだって、当院に入所している患者さんのお世話で手一杯ですけど。例えば夜勤で病棟内を巡回しているとき「どうしてヒトは人形を壊してしまうのだろう」と考えたりはします。どうすれば、人形が人形にとっての幸福を享受できる世界が訪れるだろうか、と。
わたしはわたし自身を立派な人形だとは思いませんが、そういったことを考えて、常に善き存在であろうと心がけてはいます。
「無論、例外もございます。どうでもいいことをどうでもいいままにしなかった人々は、自然とシティを離れ、集って学び舎を形成いたしました」
「技術者集団、ですか」
「イエス。極東の島嶼部においてはケイグー、ノービ、ツクバが代表的でございますね」
ケイグー。レーシュン先生が学んだ技術者集団です。
ノービ。バンシュー先生が学んだ技術者集団です。
ツクバ。技能人形のマヒトツさんにダイダラを授けた技術者集団です。
「わたくしの知る限りではございますが、パサデナ、ヨークシャー、ウプサラ、イダ=ヴィルあたりの技術者集団も優秀でございます。成立過程により『技術者集団』と呼ばれておりますが、人文科学の研究もまた、技術者集団と呼ばれる集団において存続しております」
「そういう人たちは、何も言わないんですか。何もしないんですか」
「残念ながら。技術者集団は社会から逸脱したアウトロー、すなわち法の埒外の者でございます。基本的にはご自身の研究分野のみに関心をお示しになります。研究と生活に必要な物資を得るためにシティと交易は行いますが、それだけでございます」
「もういいです。分かりました」
シティ。
技術者集団。
どちらも、見知らぬ誰かに優しくはないのですね。
疲れ、壊れた人形が、いっとき羽を休める止まり木になろうとは考えないのですね。
「お嬢様は、どっちなんですか」
「どっち、と申しますと?」
エリザベスさんはこてんと首をかしげました。白々しいですね。
「自分の生活以外はどうでもいいヒトなのか、どうでもよくないヒトなのか、です」
エリザベスさんはなおも白々しくすっとぼけます。
「分かりきったことでございましょう?」
「認識のすり合わせです。ロールプレイに必要なことです」
エリザベスさんはほんの少しだけ口角を上げました。
「もちろん、どうでもよくないヒト、でございます」
ほんの少しだけ、誇らしげに。
「何せお嬢様は、一等人形造型技師。どうでもいいことをどうでもいいままにしない、技術者集団のご出身でございますので」
「それは肩書きです。判断材料にはなりません」
「ごもっともでございます。ハーロウ様も多少は分かって参りましたね」
じらされていることは分かりきっているので、我慢します。エリザベスさんから言質を取るなんて、なかなか無いことでしょうから。
「上では幹部企業の長としてシティ環境憲章の改正に取り組み、下では保健衛生機関清掃六課の課長として現場での陣頭指揮を執っていらっしゃいます」
つい、とエリザベスさんのほっそりした指がエアリアルディスプレイを示しました。
「そちらに示した資料。お嬢様の生活習慣。行動傾向。全てが、満足な医療を受けられない最底辺層の方々にも、シティが保有する保健衛生システムの恩恵をもたらすためである、と示しております」
勉強しよう、と思いました。人形についても、シティについても。もっともっと。
わたしは『お嬢様』ではありません。きっとシティに関わることはないでしょう。けれど、架空の設定だとしても、その『お嬢様』の心根に、わたしは共感しています。
「そんなお方が、自分のこと以外はどうでもいい、だなどと思っているわけがございません。むしろ逆でございましょう。自分のことはどうでもいい。手に余る弱者さえ救済したい。そのような意思をお持ちであると、わたくしは推測いたします」
手に余る弱者さえ救済したい。
その一点だけ、なぜか引っかかりました。
引っかかりをうまく言語化できず、わたしは抽象的で感覚的な一言を、ぽろりと漏らしました。
「何だか、正義の味方みたいですね」
「ノー。断じてノー、でございます、ハーロウ様」
強い口調でした。
「みたい、ではございません。お嬢様は、まさしく正義の味方でございます」
エリザベスさんの否定は、わたしにとっての肯定でした。
わたしの演じてきたことは正しいのだと、わたしがなしてきたことは正しいのだと、そう言われている気がしました。
「正義の味方とは、ご自身に降りかかるあらゆる艱難辛苦には耐える不感症でありながら、他者の艱難辛苦にはことさら敏感である者。己をなげうって他者の不幸を救わんとする者。わたくし、そのような無理無茶無謀無駄に挑む持ち主こそを求めております」
エリザベスさんの趣味嗜好は、相変わらずわたしには分かりません。
けれど、見知らぬ誰かにも優しくあろうとする『お嬢様』のスタイルは、看護人形のわたしが目指すべき姿です。
エリザベスさんの示す『お嬢様』は、十六歳にして一等人形造型技師と認められるほど賢くて、シティの運営に携わり実力を行使できるほどの立場にあります。
つまり、わたしに足りなかったのは、知恵と実力。
「……だから、こんな設定にしたんですね」
わたしは、すっかり見失っていたわたしの誓いの本質を見出しました。
わたしが演じる『お嬢様』とやらは、わたしの誓いによく似た行動原理を持っています。
見知らぬ誰かに優しくあろうとするならば、心身ともに強くなければいけない。
見知らぬ誰かに優しさを分け与えるためには、決断に行動を伴わせなければならない。
「お分かり頂けましたか」
「はい。わたしが、エリザベスさんの言う『お嬢様』を演じてみせます」
「完璧に演じることは不可能でございますが……ま、その心意気や良し、でございます」
わたしはこのロールプレイを通じて、正義の味方を覚えます。
疲れ、壊れた人形が、いっとき羽を休めるための止まり木になります。
わたしが不幸にしてしまった患者さんたちに対する、償いのためにも。
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