かつて、エリザベスさんが言っていました。
ヒトは走るために生まれた、と。
ヒトを模した人形もまた、走ることが得意です。むしろ、大抵の人形はヒトの平均よりも速く、長く走ることができます。
生産棟から体育館までの距離は、約一キロメートル。わたしの全速力であれば、二分と少しで走破できます。
「つ……着きました」
「二分十五秒。好タイムでありますな」
この患者さん、余命が五分と少しという自覚が無いんでしょうか。
体育館の側に植わったケヤキの影に隠れ、肩で息をしながらショルダーバッグを地面に置きました。
すぐそばには、例のポッドが放置してあります。
ショルダーバッグをほどき、エーセブンさんの頭部を取り出しました。
「ポッドに近づけて頂けますかな」
言われたとおり、ポッドへとエーセブンさんを近づけました。
「認証装置起動シークエンス開始。署名、シェンツェン大図書館の渉猟部三席、司書人形七号。ワンタイムパスワード、8SCN6FUJFBWXDHFJYMCS22GV」
エーセブンさんが呪文のようなパスワードを早口で列挙した瞬間。ポッドの側面、十センチメートル角の領域が浮かび上がり、音も無くスライドしました。カメラのレンズが二つ、出現しました。
「ハーロウ殿。自分の両目があのカメラに写るようお頼みしたく」
言われるがまま、上からのぞき込んで頭部の位置を調整しました。パンタグラフ様のアンテナが露出していることに今更気づき、恥ずかしくなったわたしは目を背けてしまいました。
「虹彩認証および眼底静脈パターン認証を要請……クリア」
ぴこん、と高い電子音が鳴った直後。ポッドの上面がぱかりと開きました。
「生体と認められたようであります。何よりでありますな」
「義体の取り付けはわたしがお手伝いすればいいんでしょうか?」
「あいや、これ以降、お手を煩わせることはないのであります。ポッドに格納してくだされば、自動的に修復シークエンスが始まる次第であります」
ポッドをのぞき込んだところ、手足と思しき長い円筒状の物体が、暗い筒の内側に留められていました。中央には胴体らしきもの。
「あの……まさか予備でなかった義体も、着地してから組み立てたんですか?」
「残り七分ほどであります。お急ぎを」
「ど、どこに置けばいいんですか?」
「適当に入れれば問題ありませぬ」
「本当に適当に入れますからね?」
頭部を筒の内側へと差し入れたところ。円筒の底から二本の細いアームが音もなく伸び、エーセブンさんの頭部を把持しました。胴体と思しき義体の上部へと、正確に移動させました。
ごと、と鈍い音。エーセブンさんの頭部が胴体に置かれたのでしょう。
「頸部の暫定的接続完了。神経系ゲートウェイ接続完了。疑似信号、双方向に異常無し。水密確認完了。心臓起動……起動完了。徐脈進行。水漏れ、パッキンの劣化無し。循環系ゲートウェイ接続完了。平脈進行。流速、流圧共に正常。頸部の確定的接続完了」
ぶつぶつと呟くエーセブンさんの首から、パチパチとパズルのピースを嵌めるかのような音が次々と鳴り、わたしが覗きこんでいる円筒内に反響しました。
「……ふう。なんと残り二分ほどでありましたが、首が繋がりましたな。まだ腕と脚が残っておりますが、ひとまず命脈は繋がれた次第であります」
良かった。
安堵感が忘れていた疲労を呼び戻し、わたしは円筒へすがりつくような形で膝を着いてしまいました。ポッドの蓋が閉じかけて半開きになりましたが、直す余裕もありませんでした。
脚の筋繊維がずたずたです。ああ、初期化済微細機械の模造肉を摂取したい。ミディアムレアに甘辛いソースを絡めて。
などとつらつら想起している間にも、ポッドの内部ではパチパチと接続音が鳴り続け、エーセブンさんがぶつぶつとチェック項目を読み上げていました。
じきに、ごちん、と音を立ててエーセブンさんが立ち上がりました。半開きになっていたポッドの蓋に頭をぶつけたようです。
「あいたた……なぜ蓋が……ともあれ修復完了、であります。いやはや、感謝感激雨あられ。ハーロウ殿とメラニー殿には足を向けて寝られませんな」
エーセブンさんは学者さんのような帽子を被り、丸眼鏡も着用し、すっかり元の服装に戻っていました
もっとも、髪と顔は赤黒い循環液でべったりと汚れているのですが。
細い首をよくよく観察すると、銀色の接合部がぐるりと露わになっていました。
「蓋を閉めて、と……さてハーロウ殿、まずは体育館内の倉庫へと向かいましょうぞ」
「倉庫? どうしてですか?」
「もちろん、物資輸送用の通路が存在するためであります」
「え、どうやって把握したんですかそんな通路」
患者さんの運動に付き添うため、しばしば体育館に出入りするわたしでさえ知らないんですけど。
「自分が医療物資補給ユニットを乗っ取った際、島内全域のマップを入手しました。こんなこともあろうかと、自分の電磁記録に転写しておいた次第であります」
半分くらい嘘ですよね。情報を収集してしまうあなたの未病が原因ですよね。
「ささ、誰に見られるとも分からぬ状況であります。お早く」
エーセブンさんは体育館の引き戸に手をかけ、うんしょと引き開けました。
仕方ありません。彼の後から体育館へと入ります。誰に見られるとも分からぬ状況である、というのは確かですし。
体育館の中に入ってしまえば、ひとまずは見つかる危険性は減るでしょう。メラニーの通報を受けた捜索隊は、今頃あさっての方角へ誘導されているはずです。患者さんたちも宿泊区画に誘導されています。
踏み入ると、溜めこまれた盛夏の熱気がむっと頬を撫でました。
バスケットボールのコートを一面取れる程度の狭い体育館には当然ながら誰もおらず、がらんとしていました。
「さてさて……倉庫はこちらでありますな」
エーセブンさんは重い鉄の扉をうんしょと開きました。
競技ごとに異なるボール、支柱、ネット、体操マットなどが整然と配置された、体育館倉庫。湿っぽいような埃っぽいような、独特な匂いが鼻先をくすぐります。
「こちらに出入り口が存在します」
倉庫の隅、何ということはないタイル状の床板でした。
「貴殿の認証が通るよう、あらかじめ看護網絡経由で仕掛けを施してあります。が、まだお待ちを。まずは脱出手段の確認であります。認証を通せば位置がバレますので、そこからは時間との勝負となりますからな」
「そういえば、考えがあるって言ってましたね。どんな考えなんですか?」
「端的に言いますと、潜水艦で脱出する算段であります」
「はあ。潜水艦、ですか……事前に手配しておいたんですか?」
「いやあ、さすがに手配はしておりませんな」
「無いものをどうやって?」
「あるではありませんか?」
ある? 当院に潜水艦が?
一拍置いて、わたしはエーセブンさんの意図を理解しました。
「まさか」
「そのまさかであります。青十字。彼奴らのざとう級・原子力/生体機械複合潜水艦を拝借すれば自分の脱出が叶うと、そういうわけであります」
「そんな無茶な」
「無茶は承知でありますが、他に確実な手段は無いのであります。むしろ青十字が本島に滞在している今こそが好機であります」
「それは……実現できるなら、そうでしょう。でも、あんな物騒な人形が五体もいるんですよ。わたしはただの看護人形です。彼らを退けて潜水艦を奪うだなんて、そんなこと、わたしとエーセブンさんだけでできるわけがありません」
「本当に、ハーロウ殿はただの看護人形でありますか?」
「ええ、ただの看護人形ですとも。新米というオマケも付きます」
「自分の推測でありますが。ハーロウ殿は、人形の心を読み取れるのではありませんかな?」
いきなり。
何を言い出すのでしょう。
この司書人形さんは。
「……どうして、そう思うんでしょうか」
エーセブンさんは体操マットにぽすんと座り、片手を上げました。
「貴殿は人形網絡にアクセスできない。となれば、代わりに何か別の機能を搭載していると考えるのが自然であります。では、別の機能とは?」
学者然とした角帽の横っ腹をトントンと指先で叩きました。
「手がかりがありました。セイカ女史が言っておられましたな。ミーム抗体を得るのだと。すなわち、ここ、止まり木の療養所へ入所する人形は、何らかのミーム汚染を経験している」
あのたった一言が、わたしが介入共感機関を持つと推測するに至った原因?
ばかな。
「普通に考えれば、悪性の情報因子に対する抗体を獲得する手段の一つは、壊れかけた人形を廃棄せずに治療し、人形が抱える問題を解決することであります。解決の過程を分析することでミーム汚染への対応策を講じ、予防を見込むというわけですな」
それはまさに、観察・理解・共感です。当院における治療の基本方針を、彼は持ち前の観察眼とセイカ先生の一言だけで見抜いてしまいました。
でも。
「わたしが人形の心を読み取れるのではないか、という推測の根拠にはなっていません」
「ここからが、本題であります。正直に言いますと未だに信じがたいことではありますが……人形網絡にアクセスしたことのない貴殿は、ほぼ間違いなく貴殿固有の阿頼耶識を形成しております」
「わたしだけの阿頼耶識、ですか。それが何か?」
本題、と言うわりにはそれほど大したことのないことのように思えますが。
「大事でありますとも。個体ごとの阿頼耶識が、人形網絡という巨大な阿頼耶識に接続している。これはかつて説明しましたな?」
「はい。覚えてます」
「これにより、人形は目覚めてすぐに一般的な情緒、常識、社会性といった概念を備えることが可能となります。これは大変に便利な機能でありますが、全ての人形が共通の脆弱性を抱える、というデメリットも生じるのであります」
その脆弱性を突いてしまうのが、人形を狂わせる悪性の情報因子。
ガラティアさんは、伴侶を傷つけることで愛情を証明しようとしました。
マヒトツさんは、技能が頂点に届いてしまったことで刀を打てなくなりました。
イリーナさんは――
思考が埋没しそうになったことを自覚し、わたしは首を横にぶんぶんと振って心を立て直しました。二の轍は踏みません。
わたしはもう二度と、看護人形としての自分を見失いません。
「貴殿は、固有の阿頼耶識をお持ちである。ゆえに、一般的な人形が抱える脆弱性が、貴殿においては問題とならない可能性が極めて高いと考える次第であります」
わたしにおいては、問題とならない。
「……わたしだけ、ですか?」
「おそらく。ミーム汚染は人形網絡が抱える構造的な問題であります。ミームとはすなわち情報的、文化的ウイルスであります。人形網絡に依存せず製造された貴殿は、いわば独自の遺伝子を持つようなもの。ミームを異物と認識こそすれど、感染し、発症するには至らないと考えられます」
一瞬だけ目まいを覚えました。立て直したはずの心が、足下からぐらつきました。
まるで、わたしは人形ではないと言われているような。
「ああ……失敬。貴殿を困らせるつもりはなかったのであります。貴殿が人形の常識に当てはまらないというだけでありまして。貴殿は人形であると判断します。少なくとも、この司書人形七号が見立てる限りでは」
見た目だけでなく、言動も学者然としています。学究の徒である先生方も、知らないことは知らない、推測であることは推測である、と厳密に知識と推測の境界を定めています。
「さて。貴殿とメラニー殿は、人形の心を読み取る機能を備えている。お二方はミーム汚染を経験した患者の心を読み取り、ミーム抗体を得る。ミームへの非感染性は、固有の阿頼耶識をもって担保する。そう考えれば、手がかりが全て繋がるのであります」
あまりの慧眼。
舌を巻くどころの騒ぎではありません。恐怖すら感じます。
知識があれば、わずかな手がかりからこうも的確な推測を導出できるのでしょうか。
「……ほぼ、合っています。わたしが持っている機能は、介入共感機関と呼ばれています」
「ふむ……介入……? どのような機能かお聞かせ願えますかな。性能次第では、自分の想定以上にコトがスムーズになるやもしれませぬ」
わたしの機能が役に立つ?
いったいどういうことでしょう。
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