人形たちのサナトリウム

- オーナレス・ドールズ -
片倉青一
片倉青一

4-7「とびきりのひとでなし」

公開日時: 2020年12月20日(日) 18:00
更新日時: 2021年12月15日(水) 15:29
文字数:5,071

 数日後の真夜中。おそらく、午前三時。

 相変わらずトニーくんと同衾しているベッドの中で目を覚ましたわたしは、静かにベッドから抜け出そうとしました。

 足をベッドから下ろして身をかがめた瞬間、背に軽い抵抗を覚えて硬直しました。

 背後を手でそっと探ったところ、トニーくんの手が看護服の裾を掴んでいると知れました。


「うん……はー……ろ、う」


 罪悪感を覚えながら、丸っこい指を一本ずつそっと剥がしました。


 トニーくんは、人形にしては頻繁に休眠を取ります。二十三時の就寝時間から午前五時まで、きっちり六時間は眠ります。お昼寝も欠かしません。その他にも、運動で疲れたり、遊びで頭を使いすぎて疲れたりすると、しばしば休眠を取ります。

 一般に、人形は一日あたり二時間から四時間ほどの休眠を要求します。看護人形も一日あたり二時間ほどの休眠で十分です。トニーくんの休眠頻度は、ちょっと異常です。


 わたしは広い病室の一角に設えられたテーブルセットに座り、顔を覆いました。


「……ふう」


 ため息が漏れてしまいます。

 黙考します。


 トニーくんの状態は、日に日に悪くなるばかりでした。

 社会的感染を確認した翌日、彼はルージュ課題を通過できなくなりました。鏡を見たとき、トニーくんは頬の汚れを認識するどころか、怪訝そうに「きみはだれ?」と鏡へ話しかけたのです。自分と全く同じ動きをする鏡の像に向かって「きみ……どうしてぼくのまね、するの」と警戒感を示し、ついには鏡から逃げるように離れてしまいました。


 所有意識の概念も失われてしまいました。郵便人形のアイリスさんが肩から提げている鞄をおもむろに開いて物色し始めた時には、アイリスさんが大変に怒ってしまいました。メラニーはアイリスさんをなだめ、わたしはトニーくんをアイリスさんから遠ざけて諭したのですが、なぜいけないことなのか、トニーくんは直感的な理解ができなくなっていました。


 休眠を取る頻度も増えました。何をするにしても直感と記憶が噛み合わないはずですから、模倣脳への負荷が増え続けているのかもしれません。


「ふ、う……」


 昨日までできていたはずのことができなくなって、不安を覚えないはずはないでしょうに。

 意思疎通がうまくいかず、不快を覚えないはずはないでしょうに。

 誰かから怒気をぶつけられて、平気でいられるはずはないでしょうに。

 それでも、トニーくんは笑顔を絶やしません。

 彼の朗らかさが、底抜けの明るさが、まぶしすぎて、わたしの心にはいっそう濃い影が落ちるのでした。


「はあ……」


 何度目かのため息をついたときでした。

 顔を覆っていた手の隙間の先、病室の廊下に、足下灯の柔らかな光が差し込むのが見えました。

 手から顔を剥がし、のろのろと首をもたげました。

 いつ引き戸を開けたのか。レーシュン先生が、病室の戸口に立っていました。真っ白なおぐしが、足下灯の光を鋭く照らし返していました。堂々とした立ち姿は、積み重ねた年月に裏打ちされた存在感を放っていました。


「院長、先生……」

「邪魔するよ」


 先生は杖を静かに突いて歩き、わたしの対面に座りました。

 回診と事務仕事の時間を除いて、先生はずっと病棟内を歩き回っています。出会った患者さんに語りかけ、状態に関する補足を看護人形から聞き取ります。


「あ……トニーくんは……」


 先生は首を振り、わたしの報告を遮りました。


「憔悴しているね」


 ささやき声でした。


「すみません……」

「責めちゃいない。お前さんとセイカの娘には酷な割り当てをした。すり減るのも無理はない」

「酷な割り当て……ですか」

「お前さんたちは急を要する患者に向く」


 急を要する患者、の意味するところ。

 つい、ちょっと離れたベッドですうすうと寝息を立てている、二十年限りの八歳児へ視線を送ってしまいました。

 人形の精神構造を一から設計できる一等人形造型技師のレーシュン先生でさえ、手遅れだと判断したトニーくん。


 手遅れ。

 不意に、イリーナさんにまつわる記憶がフラッシュバックしました。思考と感情を占めたのは、思い出したくない数々の惨状と、イリーナさんに宿っていたシティ・プロヴィデンスの絶望。

 彼女もまた、手遅れでした。当院へ搬送されたその時から、既に。


「……本当に、トニーくんは、どうにもならないんですか」

「ヒトの脳も人形の模倣脳も、神経細胞の相互作用によって情報処理を創発する複雑系だ。系の変化は不可逆であり、ひとたび発散すれば系は制御不能に陥る。別の安定状態に落ち着いたとしても、そっくり元の安定状態に戻すのは事実上不可能だ。時間を巻き戻すことに等しい」


 先生はスパスパと、耳を塞ぎたくなるような事実を述べていきます。


「……でも、院長先生は、一等人形造型技師じゃないですか。科学の最先端を知るお方じゃないですか。どうにか……ならないんですか」

「アンソニーの模倣脳を丸ごと新品に取り替え、末梢神経との較正キャリブレーションを施し、人形網絡シルキーネットに接続すれば、模倣脳は目覚める。目覚めた後に一年間の教育を施し、海馬の配線を外部記憶媒体へ複写すれば、学友人形として動かすことはできる。お前さんの言うとおり、私はケイグーで命造りを修めた『混沌歩き』、一等とびきり人形造型技師ひとでなしだ。中古の体であろうと、人格となる混沌の縁アトラクターを描くことは造作も無い。だがそれは、お前さんの望む『どうにか』に該当するのか」

「……トニーくんの外部記憶媒体は、利用できないんですか」

エピソード記憶おもいでは後天的に獲得するものだ。ゆえに学友人形の外部記憶媒体は、個体ごとに千差万別の配線構造を有する。型番が同じだろうと、外部記憶媒体の使い回しは効かん」


 であれば、それは全く別の学友人形を造るということに他なりません。

 成り行きに任せても、レーシュン先生が手を施しても、トニーくんは失われてしまいます。たった十数日のお付き合いでしかないとしても、わたしにはとても耐えられません。

 追い討ちをかけるように先生は続けました。


「科学とは事象を理解するための方法論であり、理解を広く共有しようとする文化的営為だ。都合の良い願望を充足するための道具ツールではない」


 都合の良い願望、と容赦なく切り捨てられ、わたしは何も言えなくなってしまいました。

 それでも先生は、わたしへ思考と判断を要求します。


「それで。お前さんはどうだ。もはや看護に耐えられないなら、お前さんもまた壊れている。正直に答えろ。責めはしない。処遇を考慮する。貴重な道具をあたら使い潰すほど、私は阿呆ではない」


 道具と呼ばれることに、抵抗感はありません。事実、わたしは不調をきたした人形のお世話をする道具です。道具であることに誇りを持ってさえいます。

 わたしが抵抗を覚えているのは、このままでは看護人形としての役割を全うできない、ということ。


「……トニーくんの看護は、諦めません。でも、どうすれば良い結果をたぐり寄せられるのか、分かりません。わたしにできることは、基本的な看護と、観察、理解、共感だけです。でも、それだけでは、足りない気がしてなりません」

「誰も、お前さんにそれ以上を求めてはいない。誰もだ」


 ひどく優しい声音でした。


「でも、トニーくんは……苦しいはずです。決して、表情には出しませんけれど。昨日までできていたはずのことができなくて、意思疎通もうまくいかなくて、いつも誰かと衝突して……そんなの、悲しすぎるじゃないですか。誰かのお友達になるために造られたのに、誰ともお友達になれないなんて、ひどいじゃないですか。今ここでわたしが彼の友達をやめてしまったら、わたしはわたしを許せません。たとえ、彼の記憶が一年しか続かないとしてもです」

「……そうか。お前さんは真っ当だな」


 先生は椅子の背もたれに体重を預け、白衣のポケットから紙巻きを取って咥えました。さすがに気色ばんで立ち上がろうとしたところ、先生は手に取ったマッチ箱を示してひらひらと振りました。火を点けるつもりはない、ということでしょうか。


ばばあのお節介だ。聞き流しな」


 紙巻きを咥えたまま、先生は不明瞭な声で前置きしました。


そうなることでしか心が耐えられなかった。その可能性は常につきまとう。辛いぞ。医療従事者にとっては特に受け入れがたいことだ」


 わたしが真意をただそうと口を開きかけた時。

 急に、ばさりとシーツをはねのける音が病室へ響きました。

 音源に向かって振り返ると、パジャマにナイトキャップといったいでたちのトニーくんがベッドから降り、寝ぼけまなこをこすっていました。


「トニーくん? どうしました?」

「おしっこ……」


 人形は食事を摂ります。つまり排泄もします。人間様ほど頻度は多くありませんが。


「はい。一緒に行きましょうね」

「うん……」


 ふらふらと危なっかしい足取りのトニーくんを支えてあげます。もちろん転んでも多態ポリモーフィズム樹脂製レジンの床が優しく受け止めてくれるでしょう。ですがその拍子に失禁しないとも限りません。

 ちらりと背後を振り返りました。先生はテーブルに肘を突いて、おでこをてのひらへ預けていました。小柄で痩せぎすな体が、この瞬間だけは等身大に見えました。


「はやく……もれちゃう」


 袖を引かれ、慌てて廊下へと出ました。ふらつくトニーくんを支えながら、月明かりが差す夜の中庭を横目で窺いました。

 アイリスさんとメラニーが一緒になって月光浴へ取り組んでいました。

 メラニーと視線が合いました。お互いに、肩をすくめました。


 当院のトイレは、男女およびヒト・人形共用です。天井と足下が空いた半個室で区切られた空間に便座が置かれています。

 寝間着のズボンと下着を下ろし、個室の便座に座らせてあげました。性教育を目的として、学友人形には外性器が実装されています。なるべく見ないようにします。

 おしっこの準備を終えて退出しようとしたところ、またも袖を引かれました。


「しめないで」

「大丈夫ですよ。わたしはここにいますから」


 嫌、嫌、とトニーくんは首を横に振りました。


「だって、しめたらいなくなっちゃう


 また一つ、トニーくんの心が壊れました。

 おおむね七ヶ月未満の乳児は「見えないものはそこに無い」と判断します。

 これまでもわたしはトニーくんのトイレに付き添いました。彼のエピソード記憶には「見えなくてもそこにいる」と記銘されているはずです。


「いつも、閉めた先にわたしはいましたよね?」

「うん……でも……」


 記憶にあるとしても、現在の実感として「見えないものはそこに無い」と感じているなら、わたしがいなくなってしまうことを予期して不安を覚えてしまうのかもしれません。

 どうしたものか困り果てている間に、ちょろちょろと尿が滴る音が始まりました。


「分かりました。大丈夫です、ここにいますよ。閉めません」


 かといって、誰かの放尿をじっと見て喜ぶ性癖はわたしにはありません。何よりわたし自身が恥ずかしい。視線をトニーくんの頭のちょっと上に固定して、じっと待ちます。

 わたしが目の届く範囲にいて、おしっこを始めて、安心してしまったのでしょうか。放尿中にもかかわらず、トニーくんはうつらうつらと船をこぎ始めました。


「ちょっ……」


 慌てて肩を支えてあげたところ、トニーくんは首をこてんと倒して寝入ってしまいました。

 気まずい思いをしながら、放尿が終わるのを待ちます。

 ちょろちょろ……

 終わりました。携行している滅菌ガーゼで小さな外性器を丁寧に拭いて、難儀しながら下着とズボンを履かせてあげました。嫌ではないのですが、何だかいけないことをしている気分になってしまいます。

 個室の隅にある汚物入れへ、ひとまず滅菌ガーゼを捨てました。

 わたしは眠りに落ちたトニーくんを抱っこして、水洗レバーを操作してからトイレを離れました。


 トニーくんの吐息が、定期的に耳元へ吹きかけられます。

 抱っこされている安心感からか、穏やかな寝息でした。

 今のわたしは、抱っこして寝床まで連れていってあげることしかできません。


 トニーくんが抱えている不調は、悪くなる一方です。根本的な対処は何もできていません。

 また、何もできないまま。そのことが悔しくて。悲しくて。


「う、ん……」


 気づけば、トニーくんが苦しげなうめき声を漏らすほどに、ぎゅっと抱きしめる力を強めてしまっていました。

 熱い。

 小柄な人形は体温が高めです。

 かつて、ハグは素敵だと、トニーくんは言いました。温かいから、と。

 けれど、今のわたしにとって、トニーくんから感じられる体温は、ろうそくの火が燃え尽きる直前にひときわ燃え上がる、あの現象のように思えました。


 わたしの感じた印象が錯覚ではなかったのだと知れたのは、翌朝のことでした。


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