人形たちのサナトリウム

- オーナレス・ドールズ -
片倉青一
片倉青一

4-5「進行性社会性喪失症候群」

公開日時: 2020年12月16日(水) 18:00
更新日時: 2021年12月15日(水) 15:29
文字数:5,638

 レーシュン先生はご自身の執務室にて、タイプライターに向かって事務仕事をなさっていました。枯れ枝のような指が、円形のキーをパチパチパチとリズミカルに押下していました。


 隣接する清潔な診察室とは様相がまるで異なり、煙草のにおいが充満しています。白い壁はヤニで黄ばみ、部屋の両面に居座るガラス戸付きの書庫には何冊ものバインダーがぎっしりと詰まっています。

 タイプライターの傍らにはクリスタルガラスの灰皿。数本の紙巻きが、根元まで灰になっていました。先生は火の付いた紙巻きを咥え、浅く煙を吸っては吐いていました。煙を吐きながらよどみなくタイプする様子は、小さな蒸気機関のようでした。


「お仕事中に失礼します」


 先生はわたしに視線をよこしませんでした。


「クライアントから目を離すなと言ったはずだが」

「ト――アンソニーさんは休眠中です。すぐ隣にメスキューくんを付けて、彼が起きたら知らせるように伝えてあります」

「次からは私を呼べ。クライアントが休眠を取っていてもだ。メスキューに重要な判断はできない」

「分かりました」


 先生は左手でキャリッジリターンレバーを滑らせ、カシャンと固定してからわたしに視線を向けました。


「用事は何だ」


 右の指で紙巻きを挟み、トントンと叩いて灰皿へ灰を落とします。


「アンソニーさんの状態を教えてください」

「見て接して話せと言った」

「今のわたしでは力不足です。見て接して話すだけでは、アンソニーさんを理解しきれません。わたしはもう、知らなかったことが原因で失敗したくないんです。お願いです。何も隠さないで教えてください」


 トニーくんは、ヒトでいうと三歳児レベルまで社会性を喪失しています。


「よろしい。お前さんの判断を尊重する。だが最低限だ。座れ」

「ありがとうございます」


 先生は深く煙を吸いました。紙巻きの先が酸素を吸って赤々と燃焼し、灰に変わっていきます。フィルタの近くまで火が届き、先生は灰皿へ吸い殻を押しつけました。

 肺に溜めた白い煙をゆっくりと吐きながら、先生は端的に切り出しました。


「アンソニーの診断は暫定的に、進行性社会性喪失症候群としている」

「進行、性……」


 社会性が徐々に失われていくことで、様々な症状が表れている、ということでしょうか。


「アンソニーは、ヒトが発達の過程で育む社会性を逆戻りで失っている。おそらくヒトにおいて類似する疾患は確認されていない。強いて言えばアルツハイマー型認知症に近いが、アンソニーに記憶障害や見当識障害は認められない」


 先生の言うとおり、トニーくんの応答はしっかりしていますし、知識も語彙も豊富です。他者の心を推察して社会的関係を構築する、という点に関してのみ、トニーくんは壊れています。


「進行は、どのくらいの速さですか」

「発症は入所の三週間前。入所は七十四日前。既に社会的失言検出課題を通過できなかった」

「はい。確認しました」

「四十七日前に、二次的誤信念課題を通過できなくなった」

「そんな、日数単位で……」


 二次的誤信念課題は五歳後半から六歳で通過できるようになる、やや複雑な誤信念課題です。ヒトが長い年月をかけて獲得する社会性を、日ごとに失っていくなんて。


「十五日前、標準誤信念課題をも通過できなくなった。羞恥の概念も失い始めた」

「はい……先ほど、標準誤信念課題について確認しました」

「だから目を離すなと言った。アンソニーには時間が無い」

「……でも、どうして、律儀にヒトの発達の過程を逆戻りするんでしょう。そこに何か手がかりがある可能性は、ないでしょうか?」


 人形は肉体的には成長しません。最初から決まった体を与えられ、ある程度の自我を備えて目覚めます。ヒトがたどる発達の過程を、トニーくんが律儀に逆戻りする理由が思い当たりません。患者さんに対する違和感は、しばしば理解の手がかりになります。

 フムン、と先生は唸りました。


「まるきり節穴というわけではないな」


 オフィスチェアへ深く座り直し、白衣のポケットから新しい紙巻きを一本抜きました。マッチを擦って火を灯し、口の中で煙をくゆらせてから言葉を継ぎました。


機序しくみは不明だが、原因は明らかだ。学友人形という特殊な用途と、馬鹿げた改造カスタムの組み合わせが悪い方に転んだ」

「何があったんですか」


 先生は灰皿の縁で紙巻きを軽く叩き、灰を落としました。


「学友人形についてどのくらい知っている」

「主に初等学校で働く人形です。人間様のお友達になって、社交の模範を示すことがお仕事、ですよね」

「そうだ。アンソニーは十六年前に八歳児として設計、製造された。シティ・アデレードの初等プライマリ学校スクールで三年生を繰り返していた」


 過去完了形。

 続く先生の言葉には、前後の脈絡が全くありませんでした。


「アンソニーは一度、成長したことがある」

「はい?」

「あるバカが、かつて幼少期を共に過ごしたアンソニーを覚え続けていた。だがアンソニーはそのバカを覚えていなかった。当然だ。学友人形はエピソード記憶を毎年リセットされる」


 エピソード記憶とは、いわゆる『思い出』の記憶です。


「片方には思い出があり、片方には思い出がない。バカにはそのことが我慢ならなかった」


 その手の憤りを感じる方々には心当たりがあります。


「……人形権利派ポスト・ヒューマンライツの方々、ですか」

「いや。そのバカはむしろ人間性復興派ヒューマニティ・リバイバリストだ。バカは幼少期の思い出を侮辱されたと感じた。同時に、アンソニーの記憶が巻き戻ることにも憤った」

「人間性復興派の方が、ですか?」

「全ての人形を今すぐ壊せと叫ぶ連中だけが人間性復興派ではないということさね。人形の恩恵は認めるが、運用範囲は最小限にすべきだと唱える連中もいる。そのバカにとっては、ガキの時分に無くした玩具フィギュアがガラクタいちに並んでいたような感覚だったろうさ」

「それが……どうして、アンソニーさんが成長するという運びになったんですか」

「人形権利派が協力した」

「どうして人形権利派の方々が?」


 もうわけが分かりません。思想的には真っ向から対立する方々なのでは?


「人形権利派も学友人形の解放に熱心だ。成長せず、ある時期をひたすら繰り返し、心が摩耗していく学友人形は、ヒトの都合から解放すべき存在というわけだ」

「心が摩耗していく……ですか」

「見方によっては事実だ。学友人形は海馬の一部を外部記憶媒体メモリチップに置き換えている。ある時点のエピソード記憶を収録したメモリチップを毎年差し替えることで、思い出エピソードだけを巻き戻す。どうなる」


 先生は問いかけ、紙巻きの煙をくゆらせました。


 記憶には様々な種類があります。


 いわゆる思い出の記憶、エピソード記憶。

 いわゆる知識としての記憶、意味記憶。

 自転車の乗り方のように、体が覚えているとしばしば表現される、手続き記憶。

 パブロフの犬として知られる、生理刺激に対して反射的な行動を示すようになる、古典的条件付け。


 それらの中で、思い出だけがある時点に巻き戻るとしたら。


「……知らないはずのことを知っている。できないはずのことができる」

「そうだ。エピソード記憶と他の記憶との整合が取れなくなる。当然、情動や人格にも影響を及ぼす。学友人形の耐用年数は長くて二十年だ」


 だから、何だというのでしょう。確かに人形の耐用年数としては短いほうです。

 けれど、幸福な幼少期を繰り返すことに、何の不幸があると言うのでしょう。

 学友人形として造られたのですから、学友人形としての在り方を全うさせてあげればいいだけなのに。

 幼少期の美しい思い出は、思い出のまま心の宝箱にしまっておけばよかったでしょうに。


「人間性復興派のバカは、成長した竹馬の友を傍らに置くことで、友と自身が共有すべき思い出の復権を試みた。人形権利派のバカは、学友人形を解放する機会を得た。改造を請け負った二等人形造形技師のバカは、学友人形の耐用年数が長くて二十年という事実をよしとせず、延命と転用を図ることで学友人形に新たなキャリアパスを設けようとした」


 見当違いな善意の連鎖が、トニーくんを蝕んだ。

 怒りがこみ上げてきますが、この場にいない人々に憤っても仕方ありません。わたしは煙草のにおいが充満する空気を吸って、熱を吐き出してから、頭を軽く振りました。

 大事なことは、今のトニーくんを知ること。わたしが目的を見失うわけにはいきません。


「……主義主張な方々のことは、もういいです。アンソニーさんは、何をされたんですか?」

「百と四日前。首から下を、一ヶ月で八年分の成長を果たすパーツに置き換えられた。漸次的に成長するなら問題はないと考えたわけだ。だが、バカは頭部をそのままにした。そんなことをしたら何が起こる」


 首から上はそのままに、体がどんどん変化していくとしたら。

 視点はどんどん高くなり、手が届く範囲はどんどん広くなり、自分が記憶している姿からは急速にかけ離れていく。

 自分が覚えている体の動かし方が、通用しなくなります。


「……感じ方モダリティの統合に失敗します。人形は成長しないことを前提に造られていますから。八歳から十六歳となると、身長が一・四倍ほどに伸びます。模倣脳の可塑性だけでは感じ方の変化を吸収できないと思います。特に視覚と体性感覚の統合に、強い違和感を覚えるはずです」

「そうだ。ヒトと異なり、人形の一次体性感覚野は可塑性に乏しい。成長に伴う身体形状の変化を考慮に入れないからだ。余分な計算をそぎ落としているからこそ、お前さんたち人形は素早く身体操作を最適化できる」


 すっかり根元まで灰になって煙さえ上げなくなった紙巻きを、先生は灰皿に置きました。


「駆け出しの看護人形にも分かることだ」


 先生は再び白衣のポケットから紙巻きを一本抜き、何か思うところがあったのか、ポケットへ戻してしまいました。


「十日が経った頃に失調が顕在化し、バカは慌てて元の体に戻した。当然ながらそれだけで失調が解決するはずもない。むしろそれが決定打となった。成長する体に適応しようとしていたアンソニーの一次体性感覚野は、戻された体の感覚に再び適応する必要に迫られた。もはや配線はめちゃくちゃだ。バカどもは全感覚没入型ヴァーチャル・リアリティがなぜ実用に至らなかったかを忘れ、五十年分の進歩を美しい思い出と共に投げ捨てたというわけだ」


 トニーくんが簡単に転ぶ理由が分かりました。

 脳の一次体性感覚野は、皮膚感覚や姿勢の感覚といった、身体に関する情報の前処理を担います。第一次体性感覚野がうまく機能していないのであれば、運動全般に支障をきたします。ある程度は視覚情報で補償できますが、視覚情報に頼れない運動などいくらでもあります。


「……でも、どうしてアンソニーさんは社会性まで失いつつあるんでしょう」

「不明だと言ったろう」

「エピソード記憶のリセットと体の換装が関係している可能性はありませんか?」

「無いと断言はできん。入所時にもアンソニーのエピソード記憶はリセットされていた。だが、今となってはもはやどうでもいいことだ」

「どうでもいいなんてことはないでしょう!」


 レーシュン先生は、冷徹に言い放ちました。


「アンソニーに関しては、機序しくみの解明を見送った」

「どうしてですか……!」

「進行が早すぎる。解明を試みている間にアンソニーは失われる。今のアンソニーの状態を良く知ることの方が重要だ。寝食を共にしつつ、OCEプロトコルに従え」


 わたしだけでなく、患者さんまで突き放すような物言い。


「アンソニーはじきに、自己と他者の区別しかつかなくなる。誤信念の認知だけでなく所有意識も失われる」


 頭にかっと循環液がのぼり、わたしは立ち上がってしまいました。小柄なレーシュン先生を見下ろす形になりましたが、先生はわずかに視線を上げるだけでした。


「院長先生は、もうアンソニーさんを諦めているんですか!」


 医師であり、一等人形造型技師である先生が諦めたら、誰がトニーくんを直してあげられるというのでしょう。


「それとも院長先生は、イリーナさんと同じように、アンソニーさんがどう壊れるかをわたしに共感させ――」


 先生は白衣のポケットから紙巻きを抜いてわたしの眉間を示し、黙らせました。マッチを擦って火を灯しました。


「バンシューの娘。お前さんは大きな勘違いをしている」

「ハーロウです。わたしがミーム抗体精製機構だということは聞いています」

「違う。お前さんが勘違いしているのは看護に対する考え方そのものだ」


 看護に対する考え方、そのもの……?


「お前さんの考える治療とは何だ」

「アンソニーさんが社会性を取り戻して、また学友人形として働けるようになることが、治療だと思います。わたしは、そのお手伝いをする看護人形です」


 煙と共に、フムン、と先生は鼻息を一つ。そう答えることは分かりきっていた、とでも言わんばかりでした。


「それも一つの答えではある。一般に『治療』と呼ばれる行為だ」

「院長先生が何をおっしゃりたいのか分かりません」


 先生は紙巻きを軽く叩いて灰を落とします。


「アンソニーが社会性を取り戻すことが治療だと言ったな。それがアンソニーにとっての幸福だと考えてのことか」

「当たり前です。アンソニーさんは、学友人形なんですから」

「では、この話は仕舞いだ。看護に戻りな」


 先生は煙草を咥え、眉根を寄せて深々と煙を吸い込みました。


「どういうことか話してください」

「時間の無駄だ。話したところでお前さんは認めることができない。介入共感機関の拘束解除もやめておけ。以上だ。アンソニーが昼寝から目覚める前に戻りな」


 そう言ったきり、先生は煙草を咥えたまま、再びタイプライターへと向かってしまいました。


 たっぷり五分ほど、先生を睨んだままわたしは突っ立っていました。

 けれど、ついに根負けして、レーシュン先生へ背を向けてしまいました。

 トニーくんが目覚める前に戻らなければいけません。


「……失礼、しました」


 廊下へ出た瞬間、苦い何かが口の中にこみ上げてきました。

 執務室の扉へ吐きつけたいという衝動を飲み下して、わたしはトニーくんが眠る個室へと戻りました。


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